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ぱち……くり。私はゆっくりと瞬きをした。
愛らしい、可愛い……この一年そんな言葉を雨あられのように掛けられて来たけれど『綺麗だ』と言われたことはない。だってウォルターにとって私は動物園にいる温泉に浸かるカピバラで、癒しや和み、そういうものを与える存在だから。
けれども今ウォルターの榛色の瞳は、初めて見る切なく甘い光を宿していて私を混乱させている。だって私はウォルターのそんな瞳を知っているから。
それはキャロルへの想いが愛だと気付いた時の瞳の輝きを表した一文だ。
「…………」
それじゃあどうして今、と首を傾けたその時『どうだね?』という医師の声が聞こえて私は我に返った。いやいや、ウォルターがそんな。しかもタルトを頬張る顔を見てだなんてあり得ない。
「もう痛みません。大丈夫です」
医師はそう答えた私の足首を取り軽く曲げたり捻ったりしたが酷い痛みはなかった。
「二日程じっとしていれば治ってしまうだろうが、残念だが今夜のダンスはもう無理だ。わかったね」
元々フィリップお兄様とのダンスで終了するつもりだった私は大人しく頷いた。
「わたしが送ろう」
立ち上がったウォルターに有無を言わせぬまま抱き上げられて私は慌てた。
「平気よ、少し支えて下さったら自分で歩けます」
「いや、今は無理をして歩かない方が良い。それに靴も壊れてしまったしねぇ」
余計なことを口走る医者は『お大事に』と言ってさっさとドアを開け、ウォルターは当然のように私を抱えて歩き出した。
廊下に出ると大広間から流れてくる楽団の奏でる音楽が聞こえる。
「初めての夜会だ。もっと楽しみたかっただろう?」
「いえ……デザートを食べる為にきたようなものなので」
ウォルターはくいっと眉毛を上げ、それからケラケラと声を上げて笑った。
「ステラは本当に甘いものが好きなんだね」
「えぇ。私なんかが社交界デビューする必要は無い気がするから遠慮したいって伯母様に言ったんですけれど、休憩室にはあなたが大好きなスイーツがたくさん有るのよって言われてあっさり陥落してしまいました」
あの時スイーツの誘惑に負けずに踏みとどまれば、なんて後悔しても後の祭りだ。それでもウォルターが助け出してくれたのが不幸中の幸いだった。
キャロル、見てたかなぁ。誤解したかなぁ。怒ってるかなぁ。ヒロインのステラは自業自得だけど私は不可抗力で踊ったのに恨まれたら嫌だなぁ。そんな事が頭をぐるぐる巡って私は溜め息をついた私の耳に、ウォルターの優しい声が響いた。
「けれどもわたしはステラの社交界デビューが嬉しかったんだ。こんなに社交シーズンの始まりを心待にしたのは生まれて初めてだよ」
「そうなんですか?」
推しが武道館に……みたいな感じ?
「ステラがフィリップと踊ったら直ぐにダンスを申し込もう、そう思っていたのに予定外の仕事が入ってしまいすっかり遅くなった」
そう言えば姿が見えなかったと私はぼんやり思い起こした。
「フィリップに話を聞こうにもテラスに行くのが見えたし、ご令嬢と一緒のところを追いかけて問い詰める訳にも……それで大広間を覗いてみたら」
ウォルターはくっと唇を噛み同時に私を抱く腕に力が込められた。
「ウォルター様?」
「あぁ、ごめん」
ウォルターは取り繕ったように笑顔を浮かべた。
「ねぇステラ。わたしと踊って貰えないか?」
「だってお医者様が」
「大丈夫、このままでいて?」
ウォルターが廊下を曲がるとそこは小さなホールだった。廊下にいた時よりも鮮明に音楽が聞こえる。ウォルターはしっかりと私を抱き直すとダンスのステップを踏み始めた。
ワルツの調べに乗って私は揺られる。一拍目でストンと下がり2拍目でふわっと持ち上がる。スピンターンでは振り切るように回り、まるで遊園地の乗り物に乗っているみたいだ。私は楽しくなってあやされている子どもみたいに笑った。
だけど次の曲はとても緩かなテンポで、ゆらゆらとしたウォルターのステップは揺り籠のようで。何だか急激に眠くなった私は欠伸を噛み殺した。『痛み止めを飲んだら眠くなるかも知れない』って医師が言っていたっけ……そう思ったのを最後にふうっと意識が途絶え私はあっさり寝落ちしてたのだった。
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ウトウトしながら自分の胸元に頬を寄せるステラを見て、ウォルターは言いようのない気持ちが湧き上がるのを感じていた。
初めてステラにあったあの時、驚いて振り向いたステラは雪の妖精のようだった。艶やかな白銀髪と白い肌、大きな目の瑠璃色の瞳には星のような光を宿している。まだあどけなさを残すその少女にウォルターは強く心を掴まれた。
美味しそうにクレープを頬張るステラは可愛らしく、その幸福感が溢れ出るような表情を見ていると胸が温かくなる。深く深く斬り込まれ引っ切り無しに痛む心の傷がじんわりと癒されるようで、ウォルターは思わず『和むなぁ』と呟いた。
引き取ってくれた伯父夫妻の気持ちに報いる為にと努力を惜しまぬステラは健気だった。まだ年若い少女のくせに妙に落ち着いて達観したようなことを言い出したり、やたらと物事を冷静に見ていたり、礼儀は弁えながらも実にシビアに手厳しいことを言ったりするのには修道院で育てられたせいなのだろうか?同じ年頃の夢見がちでふわふわした世界にいるような令嬢達とは違い実に個性的ではあるが、むしろそんな一面が新鮮で魅力的に感じた。そしてステラを目にする度に心が暖まり胸の痛みや苦しさが癒される。もうあの辛苦を舐めるようだった日々は過去なのだと自らに言い聞かせていたが、今も尚傷付いた心は硬く強張っていたようだ。心を癒やされ解されて、ステラはウォルターにとって何者にも代え難い存在になっていた。
曖昧な立ち位置を誰よりも自覚しているらしいステラが社交界に出るのを躊躇っているのは知っていた。というよりもできれば回避したいと思っているのは明白だった。それでもステラはデビューを決めウォルターはその日を心待ちにしていた。デビュタントのステラはどんなに可愛らしいだろう。間違いなく会場の誰よりも輝くに違いない。人々はステラの愛らしさに目を瞠り感嘆の溜息を洩らすはずだ。
そんな想像をしただけでウォルターは満たされた。
しかし、遅れて到着したウォルターの目に映ったのは王太子と踊るステラだった。ステラは微笑んでいた。だが王太子の視線から逃れるようにしきりと目を泳がせている。悟られないように振る舞っているが、ステラは酷く怯えているのだ。それなのに王太子はステラを離すことなく次の曲も踊り続け、ステラの耳に何かを囁やきかけた。
ステラの目が驚愕したように大きく開かれ、ウォルターはたまらず人混みを掻き分けて走り出した。
抱き上げた瞬間に強張ったステラの身体はウォルターの腕の中だと気が付くとふわりとやわらいだ。ウォルターは思わず小さな頭に頬摺りをしたい衝動に駆られるくらいの喜びを感じたが、ぐっと堪えて医務室に向かった。
大好きな菓子にステラは目を輝かせる。口に入れてやればあの日のように幸せそうに目を細めて味わう。それはいつもの愛らしいステラだ。しかしステラの口の端についたクリームを何気なく拭ったその時、ウォルターは身体を電流が駆け巡るような初めての感覚を受けた。
ほんの少し開かれたしっとりと柔らかな唇。ウォルターを見上げる潤んだ瞳。上気した艶やかな頬。
初めて会った一年前のあの日、愛らしく幼い子どもにしか見えなかったステラはいつの間にこんなにも大人びていたのだ?
ステラは艶めかしく、そして神々しさすら感じるほどに美しい。
「ステラ……奇麗だ」
自然に口をついた自分の言葉にウォルターは悟った。
この感情は愛なのだ、ステラを深く愛しているのだと。




