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幸せを食べる化け物

作者: 村崎羯諦

 こよみは、身体の中に『幸せを食べる化け物』を飼っている。だから一生、彼女は幸せになれない。


 こよみはとても優しい子。誰に対しても分け隔てなく接することができるし、誰かのことを想って涙することもあるような繊細な心の持ち主。でも、その優しさに見合うだけの幸せを彼女が手にすることはない。あと少しで幸せを掴めそうな時にはいつだって、彼女の身体の中に住んでいる化け物が目を覚まし、掴みかけた幸せをぐちゃぐちゃに食い散らかしてしまうから。


「こよみちゃんがそんなことする人だとは思わなかった」


 これは高校生の時、仲良くなった友達がこよみに吐き捨てた言葉。律ちゃんという名前のその友達は、こよみと同じ美化委員会に所属していて、委員会活動で一緒にいるうちに仲良くなったらしい。私以外の友達がいなくて、クラスで浮いているこよみを、律ちゃんは放っておけなかった。


 律ちゃんはこよみが一人ぼっちでいるときは積極的に声をかけ、一人ぼっちでお昼ご飯を食べているこよみに対して、一緒にご飯を食べようと誘ってあげたりもした。こよみは孤独だったけど、だからといって一人が好きというわけじゃなかった。最初は同情から始まった関係ではあったけれど、二人は少しずつ仲を深めていったし、気がつけばお互いがお互いを必要とするような素敵な関係を築いていった。


 律ちゃんといる時のこよみはとても楽しそうだったし、どうしようもない孤独を彼女といる時だけは忘れることができていたと思う。こよみにとって律ちゃんは辛いだけの学生生活に差す一つ筋の光でもあったし、希望でもあった。


 ()()()、こよみは律ちゃんが当時付き合ってた彼氏と寝た。こよみにとって、律ちゃんの彼氏は初体験の相手だった。


 律ちゃんから絶交され、こよみは以前と同じような不幸せな学園生活へと戻った。噂は学校中に広まって、こよみは前よりも徹底的に仲間はずれにされた。だからといって、今までだって不幸せの底にいたこよみにとって、それ以上不幸にはなりようがなかった。


 私はそんなこよみのたった一人の幼馴染で、彼女が不幸な目にあうときはいつだって、私は彼女のそばにいた。家庭環境を心配してくれた担任の先生の財布からお金を盗んだ小学生の時も、陸上部に所属し、才能を認められていたにもかかわらず部室で喫煙をして停学になった中学生の時も、そして誰よりも自分に優しく接してくれた友達の彼氏を寝とった時も。でも、それは仕方のないことだった。彼女がそんな行動を取ってしまうのは全部、彼女が身体の中に飼っている幸せを食べる化け物のせいだから。


 彼女の身体の中にどうしてそんな化け物がいるのか、その理由はわからない。世の中の大体のことに理由なんてないし、どうして自分の身体のこの位置にほくろがあるのかを考えるのと一緒で、そこにはきっと納得のいく答えはない。それでも、強いていうのであれば一つだけ。一つだけ、心当たりはある。


 前に一度、こよみの家にお邪魔したことがある。こよみはたまたま外に出かけていて、こよみが帰ってくるまでリビングで待たせてもらった。こよみのお母さんは私にお茶を入れてくれて、それからまるで今日の天気の話をするみたいなノリで、昨日の夜にこよみのお父さんからDVを受けたことを私に話してくれた。


 どこをどれくらいの強さで殴られたのかとか、髪を引っ張られて部屋中を引き摺り回されたこととかを事細かに説明し、それから、夫だけではなく、子供の頃には両親からも虐待まがいのことをされてきたんだと語った。私はどうしようもなく不幸せだから、娘のこよみには幸せになってもらわないと困るし、私は娘の幸せのために不幸を我慢している。こよみのお母さんはそこまで言って、両手で顔を覆い、声を押し殺して泣き始めた。そこで私は一瞬だけ、一瞬だけこよみのお母さんから顔を逸らして、リビングの窓へと視線を向けた。その日はよく晴れた土曜日の昼下がりで、窓からは風にそよぐ街路樹と透き通るような青空が見えていたのを今でもありありと思い出すことができる。


 見てもらいたいものがあるの。そういってこよみのお母さんは私の手を握って、そのまま私を家のトイレの個室へ連れ込んだ。トイレのドアが閉められ、狭い空間で二人っきりになる。こよみのお母さんが便座に座り、私はこよみのお母さんの前に立った。身体を近づけて初めて、こよみのお母さんからは何日もお風呂に入っていないようなすえた臭いと、それをごまかすような濃ゆい消臭剤の臭いが混じった臭いがすることに気が付く。それからこよみのお母さんは小さく微笑んで、ポケットからボロボロになったカッターナイフを取り出した。


 こよみのお母さんは片手でゆっくりとカッターの刃を出していって、もう片方の手で私の手首を握った。こよみのお母さんは自分の手にカッターの刃を近づけていく。刃先はこよみのお母さんの白い肌へとゆっくりと沈み込んでいった。そのまま刃が沈み込んだ状態で、氷の上を滑るみたいにスーッと刃が移動していく。少しだけ時間が空いて、刃が通った場所からじわりと赤い液体が滲み出していく。細い腕の側面を血の滴が伝い、わずかに開いていた脚の間を通って、白いトイレの便器の中へと落っこちた。私が滴っていく血をじっと見つめた後で、こよみのお母さんへと再び顔を向けると、こよみのお母さんもまた私の顔をじっとしたから見上げていた。それから同情を求めるような媚び諂った笑顔を私に向けて、どう思う?とだけ聞いてくる。なんと答えて良いかわからなかった私は、じっとこよみのお母さんを見つめ返して、的外れな質問しかすることができなかった。


「こよみにもこれを見せてるんですか?」


 こよみが飼っている化け物は、母親からの遺伝なのかもしれない。その日の夜。寝る前にこよみのお母さんのリストカットを思い出した私は、ふとそんなことを考えた。


 高校卒業後も私とこよみの関係は続いたし、そしてその間ずっと、こよみは不幸せなままだったし、自分で自分の幸せを壊して、自分の人生を呪っていた。世話を焼いてくれたバイト先の親切な老夫婦に暴力を振るって怪我をさせたり、俺が幸せにして見せると宣言してくれた善良で心優しい彼氏の実家に乗り込み、彼氏と彼氏の家族の前でリストカットをして病院送りになったり。彼女はいつだって誰かから差し伸ばされた手に噛みつき、幸せを台無しにした。彼女が飼っている、幸せを食べる化け物に命じられるがままに。


 だから、関係を壊してしまうこよみは、誰かと関係を維持することなんてできないし、一時期親友とも言えるような親密な関係を結べたとしても、数ヶ月も経たないうちにその関係は破綻してしまう。彼女には私以外の友達はいなかったし、彼女の話を聞き、慰めてあげられる人は私以外にいなかった。


 私とこよみは社会人になった後も、月一回以上の頻度であって、友達でい続けた。会うときはいつも、こよみは泣きそうな表情をしていた。私はこよみの話を否定せずにじっと耳を傾け、彼女が突然泣き出しても、嫌な顔ひとつしなかった。


 こよみにとって私はたった一人の友達で、私を失うということは、彼女にとってたった一つの命綱を断ち切ってしまうことと同じ。私はそのことを十分理解していた。だから、理解していたからこそ、帰り際にはいつも、私はこよみからお金をもらった。今月厳しいとバレバレの嘘をついても、こよみは決して疑いの言葉を挟むこともなく、だまってお金を貸してくれる。それから震える手でお金を私に渡しながら、これからもずっと友達でいてくれるよね?と聞いてくる。


「当たり前でしょ。私はこれからもずっとこよみのそばにいるよ」


 その言葉を聞いて、こよみはほっとした表情を浮かべる。私はこよみにとってのたった一人の友達。幼いころからずっと一緒にいる、幼馴染。お互いの生い立ちも、お互いの手のひらの皺も知っているような、長い付き合いの関係。


 だけど、こよみはきっと知らない。小学校の時、こよみの目につくような場所に、担任の先生の財布を置いたのが私だということを。中学校の時に、私のお父さんのタバコをこよみのバックに入れたのが私だということを。そして、高校生の時、こよみは誰とでも寝る女だって律ちゃんの彼氏に吹き込んだのが私だということを。


 私はこれからもずっとこよみの近くにいて、こよみが幸せを壊す姿を見届けていくんだろう。だから、私がこよみに言ったその言葉には、嘘はひとつも紛れていない。私はこれからもずっとこよみのそばにいる。自分が飼っている幸せを食べる化け物に翻弄され、自分から階段を転がり落ちていく、彼女のそばに。


 ただ、私は彼女が幸せになるように助けることはしないし、逆に彼女が不幸になるお手伝いをするかもしれない。でも、それは仕方のないことだった。私がそんな行動を取ってしまうのは全部、私の身体の中に飼っている人の不幸を喜ぶ化け物のせいだから。

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