2話 人間
―――っ、何が起きている!?
呼吸ができない。視界に何も映らない。
そればかりか、全身の生命活動が停止してしまったような感覚さえある。
魂までもが凍結し、ヒビが入ったような―――。
身体なんて細かい粒子になって、散り散りになってしまったんじゃないだろうか。
と、思ったら粒子は一気に収束し、気付けば普通に呼吸もできるようになっていた。
……おかしい。
水の感触がしないのに、息ができるだと...?
それに。水中に居なければ身体は鉛のように重くなるというのに、普通に――― 浮いている?
慌ててリョウタ様を見ようとキョロキョロする。視覚はぼんやりとだが、回復していた。
だが彼の姿は無く、不審な人間たちに囲まれていることに気づいてしまう。
下の床には、文字で構成された円環のようなものが発光している。
―――嫌だ。怖い。助けてくれご主人様。
人間たちが...こっちを凄い目つきで、食い入るように見ている。喰われそう。
俺は海水魚じゃないから、生では食べられないって伝えたい。
「魚、だと!? どういうことだ、召喚師長!」
何か声がしてビクッと振り返ると、立派な服装の怖い顔の人が、誰かを問い詰めていた。
「申し訳ありません。確かに、異界より優れた者を呼び出す術式を発動させ、成功したのですが...。
考えられるのは、本来召喚されるはずだった者が偶然、別の生物と共におり、対象が外れてしまったこと。
もしくは、その魚が「優れた者」であること。このどちらかでしょう」
召喚師長と呼ばれた人間は、悪びれる事なく興味深そうに俺を見ている。
「どういたしますか」
そう問いかけられた怖い人は、ため息をついた。
「仕方あるまい。一旦、戻って練り直しだ」
その言葉で、人間たちがゾロゾロとこの場から出ていく。
最後に残った召喚師長はずっと俺を見ていたが、ふと何かを思いついたようで、近くにあるもう一つの光る円環を指さす。
そして、一つウインクすると楽しそうに出ていった。
静まりかえった空間に1匹残された俺。
何がなにやらわからず、ショックで涙が出そうだった。
もう一つの円環に乗れば、リョウタ様に会えるのだろうか。
あの「召喚師長」は悪い人には見えなかった。
だから試しに、従ってみようと思う。
少し小さめの円環の元にフヨリと移動した。
やはり空中を泳げているし、呼吸ができている。
瞼は相変わらず存在しないが、不思議なことに目も鱗も乾燥しない。
躊躇うことなく円環の中央に進む。
―――!、何か来る!
そう思った瞬間、身体中を電流が駆け抜けた。
痛くは無かったが…実に不快だった。
「......っ!!」
なんなんだ、一体。
もう散々だ。はやく水槽に帰ってコケが食べたい。
現実逃避な考えを浮かべながら、俺はヤケクソで魔法陣を飛び出した。
――と思ったら、いつの間にか石壁に激突し、壁の表面がはじけ飛んでいた。
...え?
飛び、出した? と同時に、正面の壁に到達していた?
なんだ……今のスピードは。
俺は泳ぎが苦手な琉金だぞ。
今のは...いつかテレビで見た「カジキ」に匹敵する速さだったんじゃないか?
いや。スピードもおかしいが、どうして石壁と殴り合って、俺の方が無傷なんだ。
「そんなバカな」
思わず零れた言葉に、さらに唖然とする。
嘘だろ...ちょっと待ってくれ。俺、今喋ったよね?
というか、さっきから日本語じゃない言語の意味が、理解できるのだが。
まさか...俺、人間になっているのか!?
いや、でも「魚」って言われたか。手も無いしな。
鏡、鏡が欲しい。自分の姿を確認したい。
その時、身体から少しだけ、何かが抜けていった気がした。
それはすぐに俺の目の前に水の板を作り出すと、空気に溶け込むように消えていく。
鏡の代用品が出現した。
――― これ、知ってる。見えないエネルギーで願った事象を実現させる、「魔法」という技術だ。
確か、リョウタ様達の世界の一般的な人は使えなくて、テレビの中の動く絵の人たちは使えるやつ。
「魔法が使えたら便利だよなー! ベニッピーにも喋れる魔法をかけてやるのに!」
いつかの幻聴がした。
ここは、さっきまで暮らしていた元の世界じゃないんだ。
ダメもとで、既に光を失った最初の魔法陣に乗ってみる。
...何も起きなかった。
初めから、何となくはわかっていた。
世界をまたぐ移動なんて、人間にも簡単にできることじゃない。
俺がここに来なければ、リョウタ様が来ていたのだろう。そうならなくて良かった。
彼は、学校で「バスケ部」の「部長」も、「クラス委員」もやっていた、賢くて優しくて明るい人だから。
家族にも頼りにされて、慕われて。俺だって本当に大好きだった。
この世界でも…きっと上手く生きていけたに違いないが、彼から充実した現在の日常を取り上げたくない。
リョウタ様はたぶん今、元の世界で無事だろう。
召喚される直前、彼の気配が遠ざかるのを感じた。だから大丈夫なはずだ。
俺が突然消えて、悲しんでいるかもしれないけど。
そうか、もう会えないのか...。
なんか俺、確実に賢くなっているな。頭がクルンクルンと回っている気がするし、以前にわからなかったことも今なら理解できる。
その頭で考えてみようじゃないか。
人間たちは「異界より優れた者を呼ぶ」術が成功したけど、魚だった! どうしよう!って話していたな。
うん。本当に俺の方で良かった。
一体何をさせるつもりだったのか、恐ろしくてちょっと想像したくない。
最初に乗っていた魔法陣。
おそらくあれに、言語理解能力とか、この世界での生存適応能力みたいなものが付与されていたんじゃないか?
だから俺は、空中で普通に生きていた。
次に乗った少し小さい魔法陣、あれは何だろう。
身体能力向上とか...魔法を扱う能力の付与かな?
あと、頭の良さの向上もか。...まぁ、俺が金魚だったからイレギュラーな事態だったかもしれないが。
他にも何かついていそうな気がする。
とにかく、今はこの場を離れた方がよさそうだ。
あの召喚師長、他の人に黙って俺を強くしてどうする気だったんだ。
曲者臭がプンプンするんだが?
俺は「保護色に変化したい!」と願い、先程落下して地面で水たまりになっていた鏡モドキを覗き込む。
輝かんばかりの鮮やかな朱色の鱗が、くすんだベージュに変化していた。
望んだ色とかなり違ったが、まあいい。これから変色の修行をすればよいのだ。
ついでに「目立たないように小さくなりたい」と考えたら、ビー玉くらいに身体が縮んだ。
しかし同時に、魔力を結構消費することに気づく。
こちらの常時発動はやめておこう。
不気味な色の魚の姿にややショックを受けながらも、地面すれすれまで高度を落とし、そっと召喚の間を後にした。