54「花開く、恋心」
「アッシュは癒士を知っている?」
アシュレーがクルミ入りのブラウニーに舌鼓を打っていると、真剣な目をしたエルフィーネが口を開いた。
「あぁ。回復魔法に特化した魔導士だろう?」
彼女がなぜそのことを口にしたのか、アシュレーにはすぐにわかった。昨夜、母との会話の中でその可能性を示唆されたからだ。そして、それは抑止力としては弱いことも。
「えぇ。昨日エリィ兄さまとお話をして、癒士のことを教えてもらったの。癒士になればガーデンに入らなくてもよくなるかもしれない、って。だから、わたくし癒士を目指そうと思っているの」
(やっぱり……)
アシュレーは小さく嘆息を漏らす。己の予想が的中したためだ。
「癒士を目指すのは悪くない。でも、ガーデンから逃げるにはそれだけでは弱いんだ」
「そうなの?」
「俺も母上から聞いただけだからうまくは言えないけど、王の命令があれば、ガーデンに入っても癒士として働くことができるみたいなんだ。だから、軍やギルドから要請が来たら、癒士として働かせる。そうすれば、軍やギルドを敵に回すことはない、ってわけだ」
「そんな……」
次兄と話したと聞き、なぜ癒士になればガーデンの手を逃れられるかまで説明されているだろうと当たりをつけ、癒士になったところで必ずしもガーデンから逃れられる訳ではないことを説くと、エルフィーネは絶望したように呟いた。俯き、口を閉ざしてしまった彼女を安心させるように、アシュレーは力強い口調で話しはじめる。
「大丈夫、俺が居る。母上だってエルのことを本当の娘のように思っているから、エルの味方だ。それに……」
言葉を切ったアシュレーは立ち上がるとエルフィーネの傍まで歩き、徐に跪くと膝の上できゅっと握りしめられている彼女の右手を取り、
「俺はエルを愛している。誰にもエルを奪われたくない、ガーデンはもちろん、他の男にも……そのためなら、俺はなんでもする。公爵家の力を使うことも、ためらいはしない。どうか俺に、エルを護らせてほしい、お願いだ」
彼女の柔らかな白いたなごころに、そっとくちびるを寄せた。まるで懇願するように。
「アッシュ……でも、わたくし、は……」
薔薇色に染まったエルフィーネの頬は、しかしすぐに元の雪のような白に戻ってしまった。そして、蒼穹を写しとったかのような瞳から、ころりとひと粒銀色の雫が零れ落ちる。離れた所に控えていたマーガレットがそれに気付いてふたりの許へ向かう素振りを見せたが、アシュレーが首を振って侍女の動きを制し、勇気づけるようにエルフィーネの手をきゅっと握り、言葉を促す。
「うん」
「わたくし、アッシュに迷惑をかけたくないの」
そう言ってエルフィーネは再び俯いたが、アシュレーは未だ跪いたままなので、少し視線を変えれば彼女の表情はしっかり見えた。悲しげに潤む、彼の愛する青空も。
「迷惑なんかじゃない。言っただろう? エルを誰にも奪われたくない、って。これは、俺のワガママなんだ。エルをひとりじめしたい、俺の」
美しく整えられた桜色の爪にくちびるを落とすと、彼女の頬も同じ色に染まる。
「……アッシュは、優しすぎるわ」
再び彼のことを優しいと評するエルフィーネに、アシュレーは内心で苦笑する。
(俺が優しいというなら、それはエルだからだ。エル以外の他人に優しくするほど、俺は甘くない)
アシュレーは自分がエルフィーネの言うような“優しい”人間ではないことを自覚している。瞳のせいで従兄姉たちからは顔を合わせる度に酷い言葉を投げつけられ、その母である叔母からは蔑んだ眼差しを向けられる。そんなことが続く内に、アシュレーは両親と師であるレオ以外の人間に何かを期待することはしなくなった。エルフィーネだから、彼は優しくなれるのだ。
けれど、わずかにしか存在しないアシュレーの“優しさ”をエルフィーネが信じるのならば、彼女のためになけなしの優しさを他の人間に向けてやることもやぶさかではない。
「俺は自分のことを優しいとは思わない……が、エルがそう言うのなら、そうなのかもな」
「優しい人は、自分が優しいことに気付けないのだと聞いたけど、本当ね……ふふっ」
おそらく次兄からの情報だろうそれを、胸を張って言うエルフィーネの表情はなぜか少し自慢げで、アシュレーはあまりのかわいさに危うく目まいを起こしそうになった。
利き手で口を覆ったアシュレーを見て不思議そうに小首を傾げるエルフィーネに、アシュレーはなんでもないと首を振る。落ちこんでいた彼女の心が上向いたようで、アシュレーはほっと胸を撫でおろす。
(エルにはやはり笑顔がよく似合う。涙は俺の前でだけ流せばいい、喜びでも悲しみでも……エルの涙の美しさは、俺だけが知っていればいい)
アシュレーの昏い独占欲に気付かないエルフィーネは、ほわほわとほほえんでいる。エルフィーネの純粋さに感謝しつつ、アシュレーは再び彼女に希う。
「どうか、ガーデンのことは俺に任せてほしい。エルが不安に思うようなことはしないと約束するから」
「わたくしは、アッシュになにもしてあげられないのに……」
「俺がエルのために……いや、自分のためだ。エルを奪われないためなら、俺はなんだってする。だから、エル。どうか俺の願いを聞いてほしい」
真剣な夜空色の眼差しに射抜かれ、エルフィーネの心が喜びに満たされて、エルフィーネは唐突に自分の気持ちに気がついた。
(アッシュがわたくしのことをこんなにも想ってくれることが、すごく嬉しい。わたくしのためなのに、自分のためだなんて言って、わたくしの心を大切にしてくれるアッシュが……いいえ。きっと、アッシュの夜空色の瞳を見た時から、わたくしはアッシュのことを、好き、だったのだわ)
恋心を自覚したエルフィーネは、ぽっと頬を染めた。
「アッシュ……わたくし、アッシュに、わたくしの騎士さまに護ってもらいたい……許して、くれる?」
(アッシュに隠しごとをしているわたくしが望んではいけないのかもしれないけど、アッシュの傍に居たい)
精霊が見えて、会話までできる自分の異能を打ち明けることもできないのに、彼の傍に居たいと、離れてほしくないと願う自分の欲深さに自己嫌悪に陥りそうになる。けれど、
「それが俺の願いだ。エル、俺が君を護ってみせる、どんなものからも。エルに、誓う」
アシュレーがとても嬉しそうに笑うから、エルフィーネの心はまたたく間に掬い上げられるのだ。
今はまだ、アシュレーに自分の気持ちを伝えることはできないけれど、自分の秘密を話す勇気が持てたら、己の気持ちと共に彼に全て話そうと、エルフィーネは決意した。
(もしかしたら、アッシュもわたくしのことを……でも、好きな人に隠しごとはしたくないもの)
「ありがとう、アッシュ」
エルフィーネはほほえんだ。恋心を自覚したその笑顔は、いつもより輝き、彼女を何倍も魅力的にみせた。




