プロローグ⑤
それを理解するのは至極簡単な事であった。
かつて戦場にて幾度となく嗅いだ事のある泥と糞が混じりあったような生臭い匂い。醜い秘密を暴露するように、人が隠そうと必死になっている部分を引き摺り出せばこのような臭いになるという事を私は知っている。
王の間に向かう道中、徐々に強くなっていったその香りは、中庭を臨む回廊に差し掛かった所で頂を迎えた。
この中庭は本来王族が美しい花々を愛でながら茶を嗜むための御所。しかし、そこにあるのは見覚えの無い黒い湖に、小高い塚のような何かが在るばかり。薄暗がりに目を凝らしてみれば、その正体に顔がぐしゃりと歪んだ。
強烈な吐き気を催すそれを目の当たりにし、思わず手で口元を覆うが、それと同時に姫様が気絶おられる事に安堵した。とてもじゃあないが幼子に見せられるものではない。見れば良くて泣き叫んで気を失うで済むか、悪ければ気を違えて二度と正気には戻れまい。
堆く積まれ塚に見えたそれは恐らくメイドや使用人であった者たちだ。ズタズタに引き裂かれ裸体に近い状態であっても、辛うじてそうだと分かる名残がある。皆一様に腹を開かれ蚯蚓のような管を引き出されている様は、まるで血抜きをした後のようにも見えた。
これは屠殺だ。それを理解するのは至極簡単な事であった。狩った獲物を集めて解体して糧にするといった極々自然な行為。勿論その肉が『人間で無ければ』という前置は付くだろうが。
それであれば、あぁなる程鼻が捻じ曲がりそうな匂いにばかり気を取られていたが、よくよく耳をすませてみれば聞こえるじゃないか。野良犬共が腐肉を啜る時のような、骨の髄までしゃぶり取らんとする卑しい音が。
そいつは薄暗がりの中、餌の山に腰を掛け悠々と食事をしていた。何を喰らっているのかなど今更だろうが、その仕草が余りにも堂に入っていたものだから「お食事中失礼します」とでも挨拶しそうになる。そして、そのような事を考える自分に頬が引き攣った。
「執事殿。姫様をお願いします」
茫然自失していた私にエバンスが言った。彼もその存在に気づいたらしい。眼光鋭く彼方の何者かを睨んでいる。私が慌てたように彼から姫様を受け取ると、彼は腰に帯びた剣を抜き、腰を低く構えた。
「貴様っ!!そこで何をしている!!」
湖面に波紋を伝えるようなエバンスの怒声に、彼方の者も気づいたのかギョロリとその双眸を此方に向けた。そしてそれは一瞥して人間のそれで無いと判った。人を喰らうのは人にあらず。当たり前の事だが、そこにいたのは正しく獣に見えた。
狼のようにピンと立った耳、突き出た口元、そして暗闇で光る双眸、その全てがそうであると物語っている。それなのに、やけに人間臭い仕草がそれを否定した。
「面妖な……貴様っ!何者だ!!」
その獣はエバンスの言葉にポリポリと面倒そうに頭を掻くと、まるで興味無さそうに言った。
「…………なぁ、あんたら名前は?」
その獣はエバンスの問いに応えた。いや、問いに対して問いで返したのだから正しくは無い。だがそもそも"応える"という事、それ自体がその者の異質さを際立たせる。
「人語を解するか……化け物めっ!!」
「あぁ?俺に話しかけてきたのはあんたらだろ?ったくコレだから……で?名前は?」
「くっ……化け物風情が名乗れと申すか。良いだろう。エバンス……我が名はエバンス・アーマイトだ」
「エバンス、エバンス……アーマイト、アーマイト……いや、多分ねぇな。悪かった。あんたは外れだ」
「何をぶつぶつと言っている!!」
屈強な兵であるエバンスが混乱するのも無理はあるまい。おおよそ倍は生きている私でさえ見るのは初めてで、極一部の史書の中でしかその存在を見る事は叶わないのだから。
私はエバンスの横に立ち、震える声を抑えてその獣に問うた。
「失礼。貴殿は獣精族の方とお見受け致しますが如何かな?」
遥か南東の離島に棲むと言われる獣精族。その存在は忌み嫌われ秘匿されており、ウルクレシアでも知っている者は数える程だろう。その姿は人と獣を合わせた様であり、気質は獣の獰猛さをそのままに、知能は人並みにある異形と伝えられる。
一瞬その獣は私の言葉に目を見開いたが、すぐにニヤリといやらしい笑みを浮かべ、ねっとりと細めた瞳で私を見つめた。
「そちらの爺様は博識だなぁ。俺等の事を知る奴なんざそうはいないだろうさ。なぁ、爺様よぉ……あんたはなんて名前だ?なぁ教えてくれよ」
何故、この者が"名前"に固執するのか。何か理由があるのか。分からないが嫌な予感がした。嫌な予感はするが、それでも訝しんでいては埒があかない。
「……エイワースと申します。エイワース・サイクス。これで宜しいですかな?」
「エイワァァス!!それは覚えがあるぞ。爺様、あんた当たりだ」
私が名乗ると獣は悦ばしいとばかりに、細めた瞳を更に三日月の如く歪めた。言葉の意味よりも獲物を見つけた飢えた狼のような貌に、全身の汗が吹き出す。
「もし……聞いても宜しいですかな?その、当たりとは?」
「いやぁいいんだいいんだ。こっちの話だからな。つくづく俺向けのルールよなコレは。他の連中が来るより早く本丸を見つけられそうだ」
「何を……」
『何を言っている』。そう問おうとした瞬間、私の肩をエバンスが突き飛ばした。
何かが私のいた場所を掠める様に通り過ぎ、そして雷轟の如き爆発音が鳴り響く。巨大な鉄の塊がぶち当たったかのように砕け散った回廊の壁、姫様を庇う様に倒れ込んだ私にその礫の雨が降り注いだ。
「ぐっ!……何がっ!?」
腰を打った激痛に身をよじりながら、爆音の正体を見据える。衝突により舞った土埃の中に鼻をつくような血の匂い。その先に獣の異形の姿があった。
私が事態を完全に把握するより前にエバンスが動く。素早く剣を上段に構え、一息にそれに向かって斬りこんだ。
「動けるじゃねぇか!!えーっと、あぁ?誰だっけお前は?まぁいいか!!」
獣精族の者はそれを容易く爪で受け止めると、揶揄うように笑った。エバンスがどれ程の者か私には分からないが、それでも鍛え上げられた者であるという事くらいは分かる。そうでなければ、そもそもフィオラ様の親衛隊などには入れまい。
そのエバンスの上段斬りを事も無げに止めてみせた。それだけで彼我の戦力差が直感で理解してしまった。一刻も早くこの者から逃げねばならない、そう感じたのだ。
「………………………うぅ」
だが、その時恐れていた事が起こった。最悪のタイミングでの覚醒。礫か爆音か倒れ込んだ衝撃か、或いはその全てが喚び水となったのか姫様が意識を戻しつつあった。
「へぇ……まだいたのか!?こう血生臭いと鼻も効かなくなるもんだなぁ……ははっ!!いや、分かるぜ!!爺様がそう大事に抱えてるんだ。それは当たりだ!!やっぱり俺はついてやがるな!!」
身の毛もよだつ様な笑い声に私は身が竦み、そこから一歩も動かなくなる。
何か、何かせねば。身体を動かさねば。
そう思えば思う程、見えない糸で絡めとられた様に身体は恐れ、冷え固まっていく。
「お逃げください!!早くっ!!」
エバンスは剣を大きく引くと、それを今度は左から横薙ぎに払った。
獣精族の者は気怠そうにそれを受け止めたが、エバンスはその反動を利用して私と獣精族との間に割り込むように陣取った。
「早くっ!!」
「おぅおぅ行かせるわけねぇだろ」
獣精族の者がその爪を振るうと、それを受けたエバンスの身体が大きくのけ反った。膂力が違いすぎるのだ。エバンスがどれ程屈強であろうとも、獣精族の者にとっては虫を潰す様なものだろう。
使命を忘れる程に恐怖に取り憑かれた私は、だからこそ気づかなかった。
「………だ………れ?」
薄っすらとその瞳を開けた姫様と、禍々しい獣の瞳が交差する瞬間に。
私は掌に爪が食い込む程の力でポケットの硬貨を握り締めた。身体がどうなろうと最早知ったことか。
「うおぉぉぉぉ!!"身体強化"≪増強≫!!」
身体中の血が沸騰しながら全身を駆け巡る感覚。老体への限界を超えた過剰摂取に血反吐を吐いた。だが、おかげで恐怖が薄れた私はエバンスと獣精族に背を向け、その場から離れるために一目散に駆け出した。
「だから逃さねぇって……って!うぉ!」
「通さぬ!!」
ほんの数瞬だろうが魔法で強化された脚力をもってすれば、最早2人の戦闘は遥か彼方に感じる。それでも、それほど長くは保たない事は明らかだ。私の脚も、エバンスの命も。
今になって漸く頭が回る。我々は襲撃を受けたのだ。奴は『他の連中』と言ったが、それならば奴の他にもまだ仲間がいるのだろう。状況は絶望的に思える。
それでも私は駆けた。一縷の望みに全てを賭け。
国内でも随一の天才であられるフィオラ様であれば或いはと。
「…………じぃ?」
「御心配召されるな姫様。私が無事姫様をフィオラ様の所へお連れ致します!!」
腕に抱く微かな体温だけが、唯一残された感覚だった。脚の感覚は最早無く、肺の痛みも感じない。
どれ程走ったかも分からぬ程に意識が薄れてきた頃、漸く彼方に美しい黒髪の乙女の姿を見る事が叶った。
あぁ……だというのに、これはどういう仕打ちなのだろうか。
「フィオラ様!!」
「爺っ!!ダメよ!こっちに来てはいけないわ!!」
フィオラ様は私とそう歳が変わらないであろう老人と相対していた。だが、その圧は先の獣精族の者の比ではない。
その証拠にフィオラ様を護っている筈の親衛隊員達の姿はそこには無く、代わりに糸が切れた人形の様なモノがそこに転がるばかりであった。
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「あー忘れてた。あの爺様は当たりだから魔法が使えるだったな。速ぇ速ぇ」
獣精族の男は片手でエバンスの頭を掴んで持ち上げると、そのまま握りつぶそうと力を入れる。だが、そこで不意にある事を思い出した。
そして悪戯に笑うと、力無く両腕をダラリと垂らしたエバンスに向けて言う。
「お前……何をしているって俺に聞いたな?思い出したぞ。聞かれたらちゃあんと答えなきゃなぁ」
エバンスは掴まれたその指の隙間から獣精族の者の貌を見た。見てしまった。
そして声にならない声で必死に助けを求めた。騎士という矜持も忘れ、ただ一生命として死にたくないと願った。
それを嘲る様に獣は宣告する。
「なぁに……俺の使う召喚術は便利だが燃費が悪いって話さ。召喚すればする程、探し物は楽になるだろうが、その間中は俺が面倒をみてやらなきゃならんのよ」
その剛力でもって獣精族の男はエバンスを頭上高く持ち上げた。それがよく彼にも見えるように。
嫌だ、死にたくない。フィオラ様の親衛隊としてこの命を捧げると誓った。それに嘘偽りは無い。無い筈なのだ。でも嫌だ、嫌だ、嫌だ、こんな死に方は望んで無い。
しかし、涙と鼻水にまみれたソレは汚物を払うように軽々と打ち捨てられた。血の湖に大きな飛沫が上がる。
「まぁこんだけありゃ分かるだろ?飯だよ飯」
エバンスは逃げ出そうと這いずり回った。口に入る気持ちの悪い液体も気にせずに。だが、折られた両腕では、両脚ではそれも叶わない。獲物を追い回し、弱らせてから狩るのは奴にとっては児戯に過ぎなかった。
そしてエバンスは遂にそれと目が合ってしまう。自分を見つめる無数の妖しい光と。それは涎を垂らしながら獲物に近づくと、十分弱っている事を確認してからゆっくりと食事を始めた。
悲鳴が鳴り止むまで、そう長くは掛からなかった。
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