プロローグ③
風音一つ無い静かな夜だった。空には銀の月、そして幾千幾万の星々。
わたしは窓枠に肘をついてそれらを眺めながら、時折思い出したように意味もなく硬貨を指で弾き上げた。何だかそうしているだけで、とても特別な事をしているように思えたのだ。
興奮し切った頭を冷やそうと窓を開けたのに、随分と矛盾した行動を取っていると我ながら思う。でも、それも無理からな事だ。
月はウルクレシアの民にとって夜の女神の瞳、寝静まった民に禍が降りかからないよう漆黒の夜空からそっと見守ってくれているという。だから月を眺めていれば落ち着くとか、安心するというのが普通なのだが、わたしの場合は先ず『月の女神』である姉様を思い出してしまう。
姉様を思い出せば、結局魔法のことも思い出すのだから落ち着けという方が無理な話だろう。
姉様とわたしは歳の離れた姉妹だが、御多忙で顔を合わせる事が殆どない父様と母様と違い、姉様はわたしの事を見てくれる。わたしの周りには他にも教育係の爺や乳母、側仕えのメイドはいるけれど、家族として愛情を注いでくれていると感じるのは姉様だけだった。
そんな優しい姉様が才色兼備ときたものだから、妹でなくたって女子ならば憧れてしまうだろう。逆に言えば、わたしの社交界デビューにかなりのプレッシャーがかかるわけで、そこは正直気が重い。
どれだけ早くとも後三年は猶予があるが、そこまでに姉様ほどの器量良しになれる気がしないし、何かに秀でている訳でもない。だからこそ魔法だけは早くに使いこなせるようになりたかった。ウルクレシア王族の象徴である魔法さえ使いこなせれば、少なくとも侮られることは無いと考えたからだ。
姉様がわたしの無茶を聞いてくれたのも、そんなわたしの焦りを感じ取ってくれたからかもしれない。
「でも、結局わたしはまだ魔法使えないんだよなぁ……」
溜息混じりに独りごちた。これも硬貨の制約によるものらしいけれど、王族や貴族といえども或る一定の年齢に達しないと魔法を使う事は出来ないようになっていた。
姉様から教わった理由は三つ。一つはやはり経済的な面。経済観念の無い子どもが無秩序に魔法を使用するのを懸念しているからだ。勿論、尋常ならざる力を使うにあたって義務と責任を負える立場になっている事も必要であり、それが二つ目の理由。
最後は単純に身体にかかる負担が考慮してとの事だった。姉様曰く『硬貨の対価は馬力であって、馬そのものでは無い』。精霊は馬のように荷を引く力も、疾く駆ける力も与えてくれるけれど、あくまで馬そのものは自分自身という事らしい。
これ以上はちゃんと教わるべき時に教わった方が良いと言うことで教えてくれなかった。
ついでに言えば姉様に呼び出しがかかって、その場で魔法の勉強会はお開きになってしまった。
話を戻すと、わたしはそういう理由で現状魔法を使う事は出来ない。それに加えて中途半端にお預けを喰らったせいで、こうして夜中に起きてまで悶々としているのだ。
魔法を習い始める年齢になれば、もっと様々な呪文を覚えることになるらしい。たとえば火の玉を繰る魔法、たとえば水の壁、たとえば空中浮遊なんて夢のようなものまで。
それでも今はたった一つの呪文しか知らないから、その呪文だけを何度も何度も唱え続ける。
"舟の守人に女神の加護を。夜と静寂を彷徨する篝火無き舟に導きの光よ来たれ"
頭の中で呪文を思い描いてから、外に落としてしまわないようそっと硬貨を弾き上げ、銅貨用に出力を調整された呪文を唱える。
「"来光"」
何度目になるか分からない挑戦の最後のつもりだった。落ちない程度に弾きあげた硬貨。乾いた金属音と共に跳ね上がったそれは、夜空の中で回転してゆっくり手元に落ちてくる……その筈だった。
夜空の月と重なった瞬間、それは目が眩むほどの眩い光を放った。
一瞬、自分の魔法が成功したのかと思った。
しかし、掌に僅かな感触があった。ぱちんと何が落ちてきたような、それは正しく今自分が弾きあげた銅貨に他ならなかった。
魔法が成功すれば、その対価として銅貨は消滅する。
では、あの光は?
「何だろう……あれ?」
わたしは呆けたように月を見つめた。何が起きたか分からないまま、眩く光り輝いたそれを。そしてまるで蜥蜴や蛇の瞳のように縦に一筋の線が入ったそれを。
ほんの一筋の線だったそれは、瞬き一つ毎に大きくなっているように見えた。
徐々に徐々に眠りから覚めるように。
その月の形にわたしは見覚えがあった。こんなもの見た事もないのに、どうしようもない既視感があった。
必死に思い出そうと頭をフル回転させて、不意に自分の掌にある感触を思い出す。
そこにある小さな硬貨を、そしてその正体を。
「……龍?」
その声が夜の闇に掻き消える瞬間、空が破れるような音がして、わたしは思わず耳を塞いだ。まるで獣の嘶きのような轟音は大地を這い回り、ウルクレシアの土地は悲鳴を上げるように震え上がった。
訳もわからず只、呼吸が早くなっていく。窓枠にしがみついていないと、震える脚が今にも崩れ落ちそうだった。
怖い、怖い、怖いとそれだけで頭が一杯になる。
何が起きているかは分からないが、異常な現象が恐怖で身体を支配していた。
次に起きたのは目を疑うような光景だった。
ドッドッドッドッとわたしの心臓が鼓動を打つ速度よりも尚速く、目に見えない何かが音を立てて此方に近づいて来ていた。それも、まるで田畑を耕すようにウルクレシアの大地を四方から引っくり返しながら。
あまりに現実離れした光景に思わず頬が吊り上がり「ははっ」と笑ってしまった。そして裏腹に頭の中で何度も逃げなきゃと叫び続ける。
でも、どこへ?今尚そいつは恐ろしい速度で四方から此方に近づいているというのに。
そうだ、姉様の所ならきっと大丈夫。
何の根拠もない、わたしにとっての唯一答え。
そしてわたしは窓枠から手を離した。少しでも早く姉様の所へ駆け付けるために。
だがしかし、それを行動に移すには些か遅すぎた。
瞬間、悲鳴でもない只々間抜けな「あっ」という声と共に天地がひっくり返った。
身体宙を舞っているような平衡感覚も何もない世界で、視界の隅に映った月は涙を流しているように見えた。血のように真っ赤な涙。
わたしはそれ以上何も考えられなかった。
身体は何処かに激しく打ち付けられ、鈍い衝撃が頭に響く。徐々に意識が薄れていく中、遠くの方で誰かの悲鳴が聴こえたような気がした。
5/4 更新