死神
俺は、肺から空気を振り絞って叫んだ。
そうでもしなければ、怖すぎて前に進めないからだ。
武器になりそうなものなら何でもよかった。靴棚にかけてあった傘を手に取り、それを振りかぶって、俺は自称死神の背中から思い切り叩きつけた。
だが、傘はかすりもしなかった。自称死神は後ろが見えているかのように、すっと横に動き、俺の精一杯の攻撃は外され、ただ床にぶつかって真っ二つに折れてしまっただけだった。
全く不本意な結果だったが、それでも、何もしないよりはマシだった。
その瞬間、すずみと俺の間には、何の障害物も存在しない。
「すずみっ、逃げるぞ! 」
俺は、未だ戸惑っているすずみの手を取ると、思い切り引いて、走り出した。
とにかく、この場から逃げなければ!
自称死神、俺はそう呼んでいるが、実際のところ、奴は本物の「死神」ではないかと思い始めている。
少なくとも、玄関から我が家に侵入する時に味わった苦痛は、気のせいでも何でもない。本当に痛かったし、苦しかった。
奴は、人間にはできない事ができる。ただ死神のコスプレをしている奴じゃない。
「あのっ、幸太郎さんっ!? どうなってるんですかっ!? 」
「説明してる暇がない! とにかく、アイツから逃げないとヤバいんだ! 」
俺はすずみに答えながら、必死になって考えていた。
あの死神から逃げるとして、どこに行けばいいのか?
とにかく、近所の人に助けを求めるか?
いや、それでどうにかなる様な相手じゃないし、無関係のご近所さんを巻き込むわけにはいかない。
なら、頼れるところは一つしかない。
警察だ。
この辺りは普段、事件が無いからお巡りさん達もちょっとのんびりしているのだが、きちんと訓練はしているらしい。だから、こんな時でも、頼りにできるだろう。
交番の場所は、昨日も訪れた商店街の一画にある。
商店街の様々な店舗と雰囲気を合わせて作られた派出所の一つで、看板が出ていなければ普通の言えと見間違ってしまう様な外観をしている。
家から走り続けて来た俺は、無我夢中で交番に駆け込んだ。
「お巡りさんっ! 」
大声で呼びかけたが、交番の中はガランとしていて人気が無く、俺の呼びかけに対する応答も無い。
「お巡りさん、助けてください! 変な奴が家に押し入って来たんです! 」
俺はすずみの手を引いて、交番の奥へと入って行った。
最初の反応で、既に、ここに誰もいなさそうだという事は分かっている。
それでも、今は、何としても、助けが必要だった。
「無駄ですよ」
俺の祈りを打ち砕く様に、あの淡々とした死神の声が聞こえてくる。
振り向くと、お巡りさんが普段事務作業などに使っている机の椅子に、あの死神が腰かけていた。
俺達が入って来た時にはいなかったはずだ。絶対に。
「この辺り一帯は、封鎖させていただきました。いわゆる結界、というものです。ですから、この辺りには、あなた方と、私しかいませんし、ここから外へと出て行く事もできません」
普段の俺なら鼻で笑い飛ばすところだったが、今はちっとも笑えなかった。
どうする?
どうすればいい?
無言のまま、当てもなく考えを巡らせる俺を、死神は、観念しろとでも言いたげに見上げている。
いや、そんな印象は俺の勘違いに過ぎないだろう。死神は無感情にこちらを見ているだけに違いない。
死神が被っている骸骨、その暗い眼窩に見据えられて、俺は圧倒されそうだった。
だが、簡単に諦められない。
俺は無言ですずみの手を引くと、再び走り出した。
今更だが、家を飛び出した時に、靴を履いて来ていない事に気が付いた。
道はアスファルトで平らに舗装されているが、小さな小石や、普段は気にしない様な雑多なものが転がっている。それらがかなり痛い。
それに、1年以上、まともに走りこんでいなかったから、いい加減、息が上がって来た。
体育の授業? いつも手を抜いて適当にやっていた。
「大丈夫ですか? 幸太郎さん」
息が上がって来た俺に、すずみが心配してくれる。
すずみはと言うと、俺とは違って平気そうだった。
「すずみは、平気なのか?」
「はい。私、人間になってから、何だか身体が軽いんです」
「でも、脚とか、痛いんじゃないのか? 」
「昔は、私、ずっとはだしで走り回っていましたから」
そう言えば、すずみ、お前は昔は犬だったんだっけな。
息を切らしながらの俺とは対照的にケロッとしているすずみを、内心でちょっと羨ましいと思いつつ、俺は、今まで適当に楽をしていた事をほんのちょっとだけ後悔した。
こんな事になると知っていたら、せめて足だけは鍛えていたのに。
結構苦しいが、それでも、走るのを止める事などできなかった。
だが、唐突に、俺は走る事を辞めざるを得なくなった。
「がっ!? 」
商店街の端まで走っていった時だった。俺は、目の前に何も見えなかったのに、壁の様なものに真正面から激突したかのような衝撃を受けた。
その衝撃で俺は仰向けに転倒し、もう少しで後頭部を打つところだった。すずみが受け止めてくれていなければ気を失っていたかもしれない。
「だっ、大丈夫ですか、幸太郎さんっ!? 」
不安そうな顔をするすずみにはとりあえず答えず、俺は鼻柱を抑えながら身体を起こす。鼻血が出ているみたいだし、すずみにありがとうぐらいは言うべきだろうが、今はそれよりもまず、確認しなければならない事がある。
前方に手をかざすと、そこには確かに何かがあった。
何の触感も感じないのに、それ以上先にはどうあっても進む事ができない。そんな何かが存在している。
「無駄と言っています」
背後から、死神の声が聞こえてくる。
振り返ると、死神はそこにいた。悠然とした足取りで、こちらに近づいてくる。
なるほど、これが、死神の言っていた結界という奴らしい。
嘘であってくれと祈っていたが、祈りはどこにも通じなかった様だ。
だが、それで、今更、諦める事などできない。
「知るかよ、そんな事! 」
鼻血のせいでちょっと鼻声の状態で俺はそう吐き捨てる様に言うと、すずみの手を引いて走り出した。
そうだ、知ったこっちゃない。
結界がどうだとか、死神がどうだとか、そんな事で諦めてやるものか。
死神を避けて路地へと駆け込んだ俺は、なるべくジグザグになる様に走りまわる。
これでも俺はここの地元民だ。道は分かる。
運が良ければ、死神を振り切れるかもしれない。
とにかく、逃げて、逃げて、できればどこかに隠れて、無理かもしれないが、状況をどうにかする手段を考えるんだ。
だが、実際の問題として、状況が絶望的なのは明らかだった。
普段なら、この寂れた商店街にも、それなりの人出はあるものだった。
しかし、ここまで走ってきて、俺は、自分達と死神以外の誰とも遭遇しなかった。
助けを求められる誰かはどこにもいないという事だ。
そして、この辺り一帯は、結界によって封鎖されていて、外に逃げる事ができない。
はっきり言って、これは超常現象とか、そういうオカルトめいた分野の話だ。
それも実際に起こっている出来事だ。実際に俺は先ほどそれを自身で確認したし、今も鼻から垂れてくる血がその何よりの証明だ。
果たして、こんな状況をどうにかできるのか?
そんな手段が、俺に思い浮かぶのか?
それでも、何もしないでいる事だけはできなかった。
だが、俺は、自分の眼の前が歪んで見えている事に気が付いた。
頭が、くらくらとする。
呼吸も、一層苦しい。
どうしてかは、考えるまでも無く明らかだった。
鼻血のせいだ。
「くそっ! 」
止まらない鼻血を腕で拭った俺は、とにかく、どこかへ隠れる事にした。
辺りに隠れられそうな建物はいっぱいあったが、俺が向かった場所は一つだけだった。
おじさんが経営している、あの喫茶店だ。
緊急事態とは言え、他人の家に勝手に上がり込むのは何だか気が引けたし、もしかしたらそこにおじさんがいて、少しでも力になってくれるのではないか、という、なんとも都合の良い、淡い期待があったからだった。
おじさんの喫茶店までたどり着いた俺は、立ち止まり、少し息を整え、それから、死神が近くにいないかどうかを確認した。
大丈夫。奴は近くにいない。
少なくとも、今は。
それから俺はすずみと一緒に店の中に入ると(幸い、鍵はかかっていなかった)、扉の鍵をガチャリと閉めた。
そこで、ふと気の緩んだ俺は、扉によりかかると、そのままずるずると床に崩れ落ちた。
ダメだ。体に力が入らない。
鼻血何て大した事ないと今まで思ってきたのだが、そうではないと今、分かった。
思ったよりも血が出てしまったのか、それとも、一時的に脳に血が足りなくなっているのか。恐らくは後者だろう。
「幸太郎さん、大丈夫ですかっ? 」
心配そうに、不安そうに、俺の顔を覗き込んで来るすずみは、実に元気そうだ。少しも息が上がっていない。
こんな時に、俺はへたり込んでいる。何とも自分が情けなく思えたが、しかし、それで思い悩んでくよくよするのは後回しだ。
「すずみ、ティッシュとか、取ってくれ」
「は、はいっ」
鼻声の情けない声で俺が頼むと、すずみは店の中を見回し、近くにあったテーブルから手を拭いたり口元を綺麗にしたりするための紙ナプキンの束をごそっと持って来た。
いい判断だ。使える物なら何でもいい。
俺は紙ナプキンを鼻に当てて、何とか止血しようと試みる。どっちの鼻の穴から出ているのか、それとも両方か、それすらも分からなかったが、とにかく、鼻から垂れる血を紙ナプキンでふき取り、抑えながら、鼻柱をつまんで血管を圧迫し血流を抑えて出血を減らす様に努力する。
半ば分かっていた事だが、おじさんの姿はここには無い。
やはり、今、ここで頼れるのは、自分とすずみしかいない様だった。
少し落ち着いてみると、鼻血は既に着ている服にも染みついていると分かった。これで、昨日に続き、自分の服をまたダメにしてしまったわけだ。
出費が嵩むな、などと考えるのは、現実逃避なのだろう。
「あの、幸太郎さん。さっきの、怖い恰好をした人は、誰なんですか? 」
何が起きているのかさっぱり分からないが、緊急事態だという事は既に理解しているらしいすずみが、不安そうに尋ねてくる。
回らない頭で考えた俺は、結局、率直に現状を話す事にする。
変に隠しても事態が良くなるわけでも無いし、何なら、この事態への対処方法を2人で考えた方が、まだいい考えが浮かぶかもしれない。
「あいつは、死神何だと」
少しでも鼻にかかる血圧を下げようと上を向きながら、俺は自分の知っている限りを説明する。
「何でも、すずみ、お前に用事があるそうだ。……要するに、奴はお前の命が欲しいんだと」
「私の、命……」
すずみは、半ば呆然とした様子で、その言葉の意味を確認する様に呟いた。
「そう。私は、夕凪 すずみ さん、貴女の命を回収しに来ました」
そして、次に聞こえて来たその言葉に、俺は戦慄を覚えた。
確かに、俺は確認したはずだった。
この場に、奴が、死神がいない事を。
俺は、絶対に確認した。
だが、奴は、ここにいる。
おじさんがいつも新聞を広げているカウンターの中で、それがさも当然であるかのように、立っている。
「なかなか、良い雰囲気の店ですね」
俺が、恐怖とも絶望ともつかない感情を抱いている一方で、死神は、少し感心した様子で感想を呟いた。
俺は、何とか立ち上がろうとした。奴から逃げ切るのは無理だと既に理解していたが、まだ、諦めたくなかった。どうにか、すずみを連れて、逃げ続けようと思った。
だが、力がうまく入らない。一瞬立ち上がりかけた俺の身体は、次の瞬間にはバランスを崩し、再びその場に崩れ落ちていた。
思ったより、血が出過ぎているんだ。
鼻血で、だぜ?
ああ、何てカッコ悪いんだ!
「幸太郎さん、無理しないでくださいっ」
すずみが、そんな情けない俺を心配して顔を覗き込んで来る。
ああ、あんまり見ないでくれよという気持ち半分、こんな俺を心配してくれてありがとうという気持ちが半分。
すずみの奴は、いつでも一生懸命で、純粋だ。
「夕凪さんの言う通りです。あまり無理はなさらぬよう。貴方の寿命は、まだ尽きていないのですから」
そこに、死神が言葉を重ねてくる。
何とも、気に食わない奴だ。
「だったら、すずみだってそうじゃないのか? すずみは、見ての通りぴんぴんしてる。何なら、俺よりも元気だったぞ」
死神から逃げ回っている間、息一つ切らさなかったすずみの様子を思い出しながら、俺は死神に反論する。
身動きが取れないのだから、口で抵抗するしかない状況だ。
「実を申しますと、その点、非常に厄介な問題でして」
死神はそう言うと、カウンターに置いてあったグラスを手に取り、ピカピカに磨き上げられているそれを興味深そうに眺める。
「夕凪 すずみ、貴女は、夕凪たえ の家で飼われていた犬、ゴールデンレトリバーであったはずです。それが、今、こうして人間の姿をしている。犬として生まれ、犬として一生を過ごすはずだった魂が、人間の体に宿っている。……これが、今回私がこの場に派遣された理由であり、厄介な点です」
グラスを元あった場所に置くと、死神はすずみの方を振り返り、見据えた。
「一体、どんな方法で人間になったのですか? 貴女は、数カ月前に天寿を全うするはずでした。そう定まっていました。なのに、どうやって、未だに生きながらえているのですか? 」
「そ、それはっ。神様が、私を人間にしてくださって……」
「それは、あり得ません」
死神の口調は、有無を言わせない、断定的なものだった。
「神……、貴方達がそう呼ぶ存在は、その様な事をなさりません。そもそも、そうであれば、私がこの場にいる理由がありません」
それから、死神は、カウンターから出てくると、俺達の方へと数歩、近づいて来る。
恐らくは無意識に、すずみが数歩、後ずさる。
俺はもう一度立ち上がろうと試みてみたが、やはり、力が入らなかった。
くそっ。こんな時に、情けないったらないぜ。
「その点、はっきりと教えてはいただけませんか? 」
「そ、そんな事、言われても……」
混乱しているのだろう。口ごもるすずみに対して、圧をかける様に、死神はさらに一歩、距離を詰めてくる。
「貴女が、その身体を入手した経緯。そして、異なる肉体に本来あるべきでない魂を定着させる手法。あまりに不自然です。禁忌を犯している可能性があります」
「いいじゃないかよ、そんな事! 」
俺は、何とか身体を動かそうと試みつつ、死神に向かって言う。
出血が止まったおかげか、身体に少しづつ力が入る様になってきている。もう少し時間を稼げば、死神の奴に反撃してやれるかもしれない。
「現に、すずみはこうやって生きてる。何の問題もないじゃないか」
「そう簡単な話では無いのです。この様な特例を認めてしまえば、それはいずれ全体へと波及する。世界の理を守り、維持するのが私の役割です」
「融通のきかない奴だな。ちょっとくらいいいだろ? 俺達が黙ってればいい話じゃないか」
俺の言葉に、死神は頭を左右に振った。
「この問題の本質は、貴方の言う様な事ではありません。……魂を異なる存在へと定着させ、生きながらえさせる事ができる。そんな事ができる、[神]を名乗る存在がいる、という事なのです」
なるほど。何となく分かった。
死神が危惧している事は、単に、すずみ一人だけの事じゃない。
すずみの様な状態の存在を、他にも、しかも現在進行形で増やしまくっている存在がいるかもしれないという事だ。
つまり、すずみの様に、一般的な生死の概念から外れた存在がいくらでもこの世の中に生まれてくるかもしれない。あるいは生まれてきているかもしれないという事で、それはそれは、死神にとっては大変な事だろう。
「私は、それを認める事はできません。一人たりとも。ですから、この場で夕凪さん、貴女も正常な理の中へ戻っていただきます」
死神の言っている事は、その理屈は、理解できた。
ほー、そうか、そうか。
知った事かよ、そんな事!
俺の身体は、ようやく、少しはまともに動けるようになってきていた。
その場で立ち上がると、俺は身体を前にかがめ、その勢いで、死神に向かって突進していった。頭からぶつかってやるつもりだった。
そのまま死神の奴を抑え込む。そうすれば、その間に、すずみをまた逃がしてやる事だってできるだろう。
それで、死神から逃げ切れるなんて、毛頭、思っちゃいない。
だが、自分にできる事があるうちは、できそうな事があるうちは、諦められない。
こんな気持ちになったのは、随分久しぶりだった。
死神は、俺の渾身のタックルを避けられない!
「うおおおおっ!! 」
俺は全身全霊で叫ぶと、死神にそのままぶつかっていった。
俺は、確かに、死神に突っ込んでいったはずだった。
だが、何の感触も無い。
死神の真っ黒なローブが眼前を撫で、気づいた時には、死神の身体を突き抜け、反対側に飛び出していた。
死神の身体の感触も、目の前を撫でて行ったローブの感触すらなかった。
タックルした勢いのまま床の上に倒れこんだ俺は、呆気に取られながら、死神の方を振り返る。
死神は、微動だにせず、その場から一歩も動いてはいなかった。黙ったまま、俺の方を見おろしていた。わずかに、ローブがそよ風に吹かれた様に揺らいでいる。
一瞬でもうまく行ったと思った俺が浅はかだった。
死神は、俺のタックルを避けられなかったんじゃない。
避けなかったんだ。
避ける必要すら無いんだ。
「仕方のない人ですね」
呆然自失としている俺に、死神は軽く右手の平を向けた。
同時に、心臓を締め付けられる様な痛みが走る。
自宅の玄関先で味わったのと同じ痛みだ。
俺は悲鳴をあげる事すらできずに、その場にうずくまった。
「幸太郎さんっ! 」
すずみが再び血相を変えて駆け寄って来る。
ああ、コイツはいい奴だ。
何もしてやれない、力にもなってやれない俺を、本気で心配してくれる。
すずみは、いつだって一生懸命に生きて来たんだろう。自分のためだけでなく、誰かのために。すずみは犬だったというから、大した事はできなかったのだろうけど、それでも自分にできる事を懸命にやって来たんだろう。だからこそ、すずみは名犬と呼ばれ、いつも誰かから大切にされていたんだ。だからこそ、俺にはすずみが眩しく見えたんだ。
彼女は、俺に対してだけではない。自分にも、その他の誰かにも、ずっと一生懸命に生きて来たんだ。
それに比べて、俺ときたら。
チクショウ、俺は、本当に、自分が情けない!
死神が手加減したのか、幸いな事に、痛みはすぐに引いた。
だが、俺は、再び立ち上がる事ができなかった。
そんな気力も、決意も、全て粉々に打ち砕かれていた。
「夕凪さん。その[神様]とやらの事、覚えていませんか」
俺の頭上から、死神の、相変わらずの淡々とした声が振って来る。
何とも憎たらしい奴だ。だが、俺にはどうする事もできない。
「いえ……。すみません、よく、覚えていないんです。ただ、暖かそうな光の中に、人影を見ただけなんです」
「そうですか……。では、仕方ありませんね」
死神がそう言うのと同時に、床の上にトンッ、と、何かが立つ音がした。
俺は、ハッとして顔を上げる。
死神の手には、どこからどうやって取り出したのか、あの、不気味で、冷酷な、死神の鎌が握られていた。
「あまり長引かせるのも良くないでしょう。……あなたは、自分の命以上に、既に生きているのですから」
俺が何もできないでいる横で、すずみは、床の上に正座し、姿勢を正すと、決然とした表情で死神を見据えた。
「よろしくお願いします」
俺は、まだ、ショックでロクに動けなかった。
頭も回らない。どうすればいい、どうすればいい、と、堂々巡りはしているが、何もいい案など出て来ない。
だが、ここで何もしなければ、本当に終わってしまう。
すすみが、いなくなってしまう!
そう理解した瞬間、俺は、無我夢中で動いていた。
這いずる様にしてすずみと死神の間に割って入ると、俺は、死神に向かってそのまま頭を下げ、額を床に叩きつけた。
土下座だ。
はっきり言って、これ以上ないほど、みっともなく、滑稽で、惨めな格好だっただろう。
だが、俺にできる事なんて、こんな程度のものだ。
それでも、何かをやらなければならないと思った。
何もしないでいる自分より、どんな格好でも、何かをする自分の方でありたいと思った。
すずみが、このまま消えてしまうより、ずっとマシだと思えた。
「頼む! 少しでいいから、待ってくれ! 」
死神が俺の話を聞いているかどうかは分からない。
だが、俺は、とにかく、考え付く限り、まくし立てた。
「すずみは、俺なんかと違ってずっと立派で凄い奴なんだ! すずみは今まで本当にたくさんの人達の役に立って来たし、賞なんかもいろいろ取ったし、人助けだって、何度もした事がある! 一度や二度じゃない! だから、ちょっとぐらい見逃してやってくれてもいいだろっ!? それに、すずみは料理がうまいんだ! 包丁も上手く使えないし、箸もフォークもナイフも、スプーンだってうまく扱えないけど、それでもうまい飯を作ってくれたんだ! 昔助けてもらったからって俺にご馳走してくれるくらい義理堅いんだ! それに、すずみはいつも一生懸命に、何でも頑張って来たんだ! 俺みたいに途中で諦めちまった奴とは違う! 俺なんかより、すずみの方が、世の中にずっといい事ができるハズなんだ! だから見逃してやってくれ!それに、もし、その偽物の[神様]とやらを探すつもりなら、すずみがいた方が何かの役に立つかもしれないだろっ? ホラ、犯罪者は現場に二度現れるとか言うじゃないか! それからだって遅くはないだろ! まだあるぞ、すずみのおかげで、俺も、もう一度頑張ってみようかなっていう気になって来てるんだ! すずみのおかげでまた頑張れそうなんだ! ここで、すずみがいなくなったら、俺はまた、ダメダメな人間に戻っちまう! 」
何でもいい。死神が、すずみを見逃してくれさえくれれば、それでいい。
「何なら、俺の残りの寿命を、すずみに半分やったっていい! だから、頼む! お願いだ! すずみを連れて行かないでくれっ! 」
考え得る限り。ありったけの言葉を吐き出した俺は、土下座をしたまま、唇を噛んだ。
今まで神様何て本気で信じちゃいなかったが、この際何でもいい。
イエス様でも、仏様でも、アッラー様でも、どんな宗教のどんな神様でもいい。
すずみを助けてやってくれ!
永遠の様な一瞬の重苦しい沈黙。
俺は、床の上に、ぽた、ぽた、と、水滴が垂れてくるのに気付いた。
視線だけを、上へと向ける。
すずみが、泣いていた。
「ありがとうございます、幸太郎さん」
すずみはそう言うと、右手で涙をぬぐった。
それから、笑顔を作る。
「けど、すずみ、いいんです。……本当は、自分はもう、死ぬんだ、先は長くないんだって、分かっていましたから」
それは、俺を心配させまいとする、精一杯の作り笑いだった。
「犬だった頃のすずみは、お婆ちゃんが亡くなった後、しばらくは元気でいられたんですが……。段々と昔ほどは動き回れなくなって、息切れもするし、昔は登れた階段が上れなくなるし、すぐに疲れて、一度眠ったら中々起きられないし疲れも取れない様になって。体は弱ってガタが来るし、ご飯もあんまり食べられなくなって、痩せて来るし、しまいには、目だって、何だか白く濁って見えなくなってくるし。すずみは犬として、16年も生きて来ましたから、ああ、寿命なんだなって、分かっていたんです。……だから、こうやって人間の姿になれて、また、元気になって、あっちこっち行ける様になって。それで、幸太郎さんにももう一度会う事ができて」
すずみは、思い出を噛みしめる様に両眼をつむった。
「だから、すずみは……。とても、幸せでした」
その言葉に、俺の心はざわついた。
それは、すずみの、自身の人生についての感想だった。
だが、同時に、彼女の遺言なのではないか?
すずみは、再び双眸を開くと、死神の方にもう一度向き直った。
「死神さん。……お願い、します」
「分かりました」
死神は、短く肯定した。
すずみは、全てを受け入れるつもりでいる。
その覚悟が、できている。
覚悟ができていないのは、俺の方だ。
だから、ここから先は、全部、俺のエゴだ。
俺の自己中心的な感情によるものだ。
俺は勢いよく身体を起こすと、すずみを庇う様に、自分の身体を盾にする様にして死神の前に立ちはだかった。
死神の鎌は、振り下ろされなかった。
というか、死神は、鎌を持ってすらいなかった。
死神の鎌は、現れた時と同じ様に、どこへともなく、いつの間にか、消え去ってしまっていた。
「特例を認めましょう」
呆気に取られている俺の眼の前で、死神は、相変わらずの口調で告げた。
「夕凪 すずみさん。貴女を当面の間、保護観察処分とします」
ほごかんさつしょぶん? 何だっけ、それ。
あまりの事に、俺の頭は全く追いついて行かない。
「では、私はこれで。……こう見えて、忙しい身ですので」
俺が、説明してくれ、とか、どういう事なんだよ、と、問いただす様な知恵を取り戻す前に、死神は一方的にそう言うと、ばさっ、とローブを広げた。
「これから封鎖を解除しますが、まぁ、うまくやってください。そこまで面倒は見切れませんから」
最後にそれだけを言うと、死神は広げたローブで全身を覆う。
そして、瞬きする様な一瞬の後には、もう、死神の姿はどこにもない。
俺とすずみは、直前の姿勢のまま、何が起こったのか分からず、目をぱちくりとさせた。
「えっと……、どういう、事なんでしょう? 」
「……。さぁ? 」
すずみの問いかけに、俺は、首をかしげるしかない。
「幸ちゃん!? それにすずみちゃんもっ!? 一体、いつ来たのっ!? 」
その次の瞬間、バサバサ、と、新聞紙をぐちゃぐちゃにする様な音と一緒に、少し高めの、声量の豊かな声が耳に飛び込んでくる。
俺とすずみが、精密機械の様な正確さで同時に声の方を振り返ると、そこには、ああ、何て懐かしい。俺のおじさんの姿があった。
「ぅわっ、っていうか、幸ちゃん、血だらけじゃないっ!? 」
おじさんはそう言うなり、驚いたひょうしにぐしゃぐしゃにしたのであろう新聞紙をカウンターの上に叩きつけると、大慌てで俺達へと駆け寄って来た。
俺の服は、鼻血で血だらけだ。死神と追いかけっこをしている最中のものだが、それを正直に言うわけにはいかない。死神だの、結界だの言いだせば、それこそおじさんが腰を抜かす。そして救急車とかを呼びかねないし、家族に連絡を取りかねない。
それはマズい。
そういう事が分かるくらいに、俺は冷静さを取り戻していた。
「あ、ああ、えーと、これは、さっき、そこで転んだ時に思いっきり鼻をぶつけちゃって。えっと、鼻血です。もう、大体止まってます」
「本当っ? 何かすっごく血がいっぱい出てるように見えるけど!? 」
「ええ、はい、自分でもびっくりしてます」
「と、とにかく、安静にしてなさい。きゅ、救急箱、救急箱はどこだっけっ? すずみちゃんは幸ちゃんをよろしくっ! 」
おじさんはあたふたと慌てふためき、店の奥へと駆け込んでいった。
俺と、すずみは、その後ろ姿を見送り、それから、お互いに顔を見合わせた。
自然と、笑いがこみあげてきて、二人同時に笑い出した。
だって、笑うしかないだろう?
こんな、とんでも無い話。
けど、これは、ハッピーエンドと言うべきだろう!
だが、冷静に考えてみると、全てが順風満帆という訳ではない。
あの死神は、いわゆる執行猶予という奴を俺達に与えたのに過ぎない。
だから、いつ、ふらっと、あの冷酷な鎌を振るいにやって来るか分からない。
それに、すずみを犬から人間にしたっていう、偽物の[神様]の事も気になる。
けど、はっきりと、今の俺には言える。
それらは、些細な事だ。
だって、すずみが生きているのだから。
めでたしめでたし、だ。
「その……、幸太郎さん。ありがとうございました」
喫茶店からの帰り道。すずみが、唐突にお礼を言った。
「ん? ああ、まぁ、気にすんなよ」
俺は、すずみの方を振り返らず、ちょっとしたカッコつけのつもりで、腕だけをひらひらと振って見せた。
あれから、俺は、おじさんの家でシャワーを借りて、おじさんのお古の服(当然かなり緩い)を貸してもらい、さらに、お昼ごはんまでご馳走になった。それから、心配そうなおじさんにお礼を言って、あまり詮索されない内にと、帰路へとついていた。
俺は、かなり上機嫌だった。いろいろあったし、いろいろ問題が残ったが、今のところ、全部がうまく行っている。
こんな事は、未だかつて、俺の人生では無かった事だ。
「でも、これで、2回目……、いえ、3回目ですね」
「んー? 何がだよ」
俺がやはり振り返らずに問い返すと、すずみは、駆け足をして、俺の前へと躍り出た。
「すずみが、幸太郎さんに助けてもらった回数です」
すずみはそう言うと、俺の顔を真っ直ぐ見据えた。
こうやって純粋な視線で直視されるのは、俺はちょっと苦手だ。
「だから、すずみ、幸太郎さんに御恩があると思うんですよ。幸太郎さんを改造して、元気にするだけでは返せない、御恩が」
「よしてくれよ。俺は、そんなご立派な人間じゃないんだ」
俺は何だか背中がかゆくなった気がした。
だが、悪い気はしない。
「別に、すずみが気にする事は無いさ。せっかく執行猶予をもらったんだから、好きに使えばいい」
「それじゃ、すずみ、幸太郎さんに恩返しがしたいです! 」
身もふたもない返事だ。
俺は正直、困ってしまったが、しかし、すずみの目は本気だった。
どうしようか?
だが、俺は、それほど悩まなかった。
それなら。
「それなら、すずみ。明日も、俺に弁当を作ってくれないか? 」
すずみは、満面の笑みを浮かべた。
「はいっ!」
何とも、元気のいい返事だった。
だが、悪くない。
むしろ、最高だ。
絶対に口には出さないが。
ちょっと投稿用小説としては短くなってしまいました(どっかに応募するのには文字数が足りない)が、これにて完結です。
一応、書きたい事は書ききれたかな、と。
よろしければ、感想などいただけると幸いです。
もしご要望をいただける様なら、続編も頑張って書きます。ネタはあるので、できればお蔵入りにしたくないよぅ。
次は、今回みたいに一冊こっきりで終わる様な話か、趣味全開のガチ戦記モノでも書こうかなと思ってます。投稿は当分先になるかと思いますが、よろしければそちらもお願いいたします。
ここまでお付き合いいただいた方、どうもありがとうございました。
またよろしくお願いいたします。