幸太郎は励ましたい
さすがに、俺はもう、キャッチボールをする気分ではなかった。
俺は、宅配のバンの運転手に、急に道路に飛び出した事を謝罪し、念のため、後々何か問題になった時に備えてお互いの連絡先を交換すると、そそくさと道具を回収し、帰路についた。
すずみは一言も反対しなかった。
当然だろう。もう少しで大怪我をするか、最悪、死んでしまうところだったのだから。そんな経験をして、尚、遊ぼうなどとは思わない。
下敷きにした左肩だが、幸運な事に、大して怪我はしていなかった。
ティ―シャツの上にワイシャツを羽織っていたおかげで布が2枚重ねになり、身体をうまく保護してくれていたおかげだった。
もっとも、服は2枚とも、穴が開いてしまい、今後着られなくなってしまったのだが。
正直、もう少し時期が後で、服装もより軽装になっていたら、と思うと、背筋が寒くなる。今回みたいな擦り傷では、到底すまなかっただろう。
まぁ、でも、すずみが車にひかれるのよりはずっとマシだ。
このくらいで済んで、本当に良かったと思っている。
当のすずみはと言うと、ずっとへこんでいた。
視線は下を向き、身体を小さくして、とぼとぼと俺の後をついて来ている。犬耳の様な癖毛も、落ち込んでいる様に萎れている。
すずみが落ち込むのも分かる。
何せ、自分の不注意で、軽いとはいえ俺に怪我をさせてしまったのだから。
別に、俺は気にしちゃいないんだが。
そりゃ、まぁ、すずみにはもっと注意して欲しいというか、周りを見る様にして欲しいとは思っているが。だが、すずみの事を悪いとまでは思っていない。何かに夢中になって、周りが見えないというのは、誰だって経験がある事だろうと俺は思う。
それに、俺も道路について、すずみに特別注意もしていなかったしな。
さて、どうしたものか。
すずみがあまり落ち込まない様に、今度からちゃんと周囲も確認する様に注意するにはどうすればいいのだろうか。
そんな事を考えていたので、俺は、自宅に戻るまで終始無言だった。当然、すずみもずっと黙ったままだ。
思えば、これほど気まずい時間もそうそうないだろう。
ただでさえ萎れているすずみには、ちょっと気の毒だったかもしれない。
とにかく、家に帰りついた俺は、まず、手洗いとうがいを済ませ、すずみにも同じ様にさせた。
それから、すずみにはリビングで待ってもらい、俺は着替えを用意してシャワーを浴びた。
浴室には大きな鏡があるから、傷の確認ができるし、何より、シャワーを浴びる事で一度気分を切り替えたかった。
おかげで、方針が定まった。
変な脚色や、飾りたてた言葉はいらない。
率直に自分の考えをすずみに伝えればいい。
どうせ俺には器用な事はできないんだ。それなら、真正面からいった方がいい結果になるだろう。
そう決めた俺は、身体を拭き、着替えを済ませ、洗濯物を洗濯機に押し込むと、すずみを待たせているリビングへと向かった。
リビングでは、俺に待っていろと言われた時のまま、微動だにしていないすずみの姿があった。体が強張っているのが見た目で分かる。
「すずみ」
「はひっ、ぁ、ひゃいっ! 」
俺は普通に声をかけたつもりだったのだが、すずみは緊張した様子で、変な返事と共に腰かけていたソファから立ち上がって直立不動の姿勢を取った。
「別に、立たなくていいから。座って」
俺がそう言うと、すずみはおどおどとした様子でその場に座った。床の上に正座だ。
なかなか殊勝な態度だが、俺はそんな事は求めちゃいない。けど、ソファに座れって言ったって、今のすずみは動かないんだろうな。
出会ってからまだそれほど時間を経ていないが、すずみには裏表がないというのは何となく分かって来た。彼女は、思っている事と行動が常に一致している。
今、示している反省の態度も心からの物だろうし、酷く怯えているというのもよく分かる。
俺はすずみの向かい側のソファに腰かけると、一度、落ち着いて話をするために深呼吸をした。
「すずみ」
「ひゃいっ! 」
俺の呼びかけに、すずみは身体を強張らせた。
見ていて、こっちの方が申し訳ない気分になって来る。すずみはそんなに罪悪感を覚える必要は無いのだ。少なくとも、俺はそう思っている。
「まず、最初にはっきりと言っておくが、俺は怒ってない」
「でっ、でもっ! 私のせいで、幸太郎さん、怪我を……」
「さっき、シャワー浴びるついでに確認したけど、大した怪我はしてない。ちょっと擦り傷になっていたくらいさ。ほら、この通り、何ともない」
俺はそう言うと、左手をくるくる回して、健在ぶりをアピールしてやる。
「だから、すずみ。すずみはそんなに申し訳なさそうにする必要は無いんだ。ただ、次からはもっと、周りを注意する様にしてくれればいい。道路に無暗に飛び出したらダメだって、すずみだって教わっただろ? 」
「はい……。教わりました」
「なら、それでいい」
言いたい事は言った。これで、すずみが少しは気持ちを切り替えてくれるといいんだが。
すずみは、やはり、これだけでは割り切れない様子だった。何か言いたそうに、俺の方を上目遣いでチラチラ見てくる。
言いたい事があるならはっきり言えばいいのに、とは思うものの、今のすずみにとってはそうもいかないのだろう。
俺は、少し考え込む。
やはり、すずみには気持ちを切り替えてもらいたい。
このままでは何とも気まずいし、何と言うか、落ち込んでいるすずみを見ているとこっちが落ち着かない。
出会ってからのすずみは、ずっと無邪気で、明るかった。それが今みたいに萎れているのを見るのは、こっちまで気分が沈んでしまう。
こんな時、気分を変えるにはどうしようか。
「よし。すずみ、出かけるぞ」
考えをまとめた俺は、両手で拍手を2回すると、さっとソファから立ち上がった。
「あの……、どこへ行くんですか?」
すずみは不安そうな視線を俺へと向けてくる。
俺は、肩をすくめて、すずみに笑って見せてやった。
「ちょっとそこまで」
本日、2回目の外出だ。
俺にしては、かなり珍しい事だった。基本、俺はあまり外出をしないし、外出をする際はなるべく用件をまとめて、効率よく用事を済ませ、さっさと家に帰る様にしている。
何と言うか、不必要に外出するのは、時間がもったいない様な気がする。
たまに無駄に長い散歩をする事もあるが、それは例外中の例外って奴だ。ついこの間それをやったら、おかしな事が起こったし、当面はやらないだろう。
だから、今日は、本当に特別だ。
そんな気になったのは、やはり、すずみの事を放っておけないからだった。
思えば、今日の出来事で、すずみを助けたのは2回目だ。
もちろん、俺は、すずみが犬から人間になったなんて、信じちゃいない。あり得ないだろう、常識的に考えて。
だが、もし、仮に、すずみがあの時助けた黒ラブなのだとしたら、やはり助けたのは2回目という事になる。
俺は、平凡な男子高校生だ。特に取り柄なんてないし、そんな目立つような事は、普段は絶対にしない。
ただ、何となく、あの黒ラブも、すずみの事も、放っておけなかった。
自分でもよく分からない気持ちだが、そうなんだから仕方が無い。
あまり考えてみても仕方のない事だろう。堂々巡りに陥るだけだ。
とにかく、現状に対処しなければ。
落ち込んだままのすずみなんて、見たくはない。
そんな事を考えながら俺が向かったのは、近所の商店街だった。
駅前に古くからある商店街で、よくある話だったが、今ではほとんどシャッター商店街と化している。行政のテコ入れと、一部の頑固で気合の入った商店主のおかげで営業している店はあるが、それでも、賑わっていた時期に比べれば、営業している店は半分以下だ。
相変わらずうなだれているすずみを伴い、閑散としたアーケード通りを進んだ俺は、商店街の中程で、車が入れない狭い路地へと入り込んだ。
商店街の裏側、住宅しかない場所だ。路地の左右には法律上の建築限界ぎりぎりまでめいっぱい使って建てられた家が立ち並び、観葉植物の鉢植えなんかが置かれている。
表通りの明るい感じとはまた違った、しっとりと落ち着いた雰囲気の場所だ。
「あの……、幸太郎さん、どこへ向かっているんですか? 」
表通りを外れて、すずみは不安を抑えきれなくなったらしい。おずおずとした感じで、俺に探りを入れる様に聞いてくる。
「さー、どこだろーなー」
目的地をなるべく秘密にして、すずみを驚かせたかった俺は、適当に受け流した。
だが、既に割といっぱいいっぱいだったらしいすずみは、それでパニックを起こした。
「そっ、そんなっ、まさかっ! もしかして私っ、捨てられちゃうんですかっ? 」
いきなり何を言い出すんだと思って俺が振り返ると、すずみは、半泣きになりながらおろおろしている。
「ぁぁぁぁぁ、き、きっと、すずみ、その辺の道端で段ボール箱に詰め込まれて、いい人に拾ってもらうんだよとか言われちゃうんだぁっ! それで、それで、すずみ、悪い子だから結局誰にも拾ってもらえなくって、最後は雨に打たれながら……、そんなの嫌ですぅっ! 」
「いや、すずみ、ちょっと落ち着けって」
あまりの狼狽ぶりに、俺まで戸惑ってしまった。
そもそも、すずみ。俺はお前の飼い主になった覚えはないぞ。勝手にそっちが家に押しかけて来ただけじゃないか。捨てるも何もあったもんじゃない。
だが、今のすずみは、完全にパニック状態だった。
「ぅぅぅぅっ、捨てないでくださいぃっ、すずみ、いい子になりますからっ! もう悪い事はしませんからぁっ! すずみを置いてかないでぇっ! 」
すずみは俺にしがみつくと、必死な様子でそう懇願した。
「おっ、おいっ、落ち着けったら! 」
「捨てないでぇっ! すずみを捨てないでぇっ! 」
「ぁぁぁっ、もぅっ 」
正直に言おう。
かわいいじゃないか。
俺は困惑半分、身悶え半分で唸った。
だが、そうやって悶えている場合じゃない。早くすずみを落ち着けないと。
すずみが捨てないでとか騒いでいるせいで、他から見るとこれは「別れ話を切り出して修羅場」なシチュエーションにしか見えない。
下手したらお巡りさんが来る。
この辺は治安が良く、お巡りさんも暇をしているから、間違いなく来る。
何とかすずみをなだめなければ。
そう考えた俺は、ひっく、ひっくとしゃくりあげているすずみの頭を撫でてやる事にした。
「……、幸太郎さん? 」
すずみは、驚いた様な顔をした。
「だから、落ち着けって。俺がお前を捨てるとか、そういうの無いから」
「ほっ、本当ですかっ! 」
「ぁあ、ホント、ホント」
そもそも、俺はお前の飼い主じゃないからな。
というのは、問題がこじれそうなので強調しないでおく。何というか、すずみは一般常識を知っているようで、どこかズレているところがある。
「それに、ほら。もう目的地にはついたから」
そう言うと、俺は左手の親指を立て、指先を近くの建物へと向けた。
俺にしがみつくのをやめ、顔を上げたすずみは、俺の指さす先を確認し、目をぱちくりとして怪訝そうな顔をした。
「喫茶店? 」
喫茶店。そう。喫茶店だ。
主にコーヒーを楽しむお店だが、いくらかの食事やデザートのメニューも取り扱っている。よくある様な店だ。
それ以上でも、それ以下でもない。地元の路地裏にある様なお店だから、大きくもないし、特別有名という訳でもない。
正直、見た目も凄くはない。建物の外壁は下側がレンガ調のタイルで、半ばから上側が白い塗り壁風の飾り付けがされており、三色のシートで張り出し屋根が造られ、スモークのかかった大きな窓が配置されている。入り口は一段奥まったところにあり、濃い茶色で塗られ重厚な印象を持つ木製の扉が鎮座している。
これはこれで、立派な店には違いない。だが、まぁ、うん。普通だ。
とりたてて特別な点などどこにも存在しないのだが、俺がすずみをこの店に連れて来たのには、もちろん、理由がある。
「ちわーっす。マスター、いるー? 」
俺がそう声をかけながら扉を開くと、カウンターの奥で椅子に座り、スポーツ新聞を眺めていたこの店のマスターは、驚いた様に顔を上げた。
太っちょだ。チェック柄のシャツに、ズボン。たっぷりついた贅肉で樽みたいなシルエットになっている。顔はひげ面で、顔の大きさに比較して小さく見える、黒縁の丸い眼鏡をかけている。
マスターは来店者が俺である事に気付くと、気さくな笑顔を浮かべた。
「幸ちゃん! よく来たなぁ。珍しいじゃないか、こんな時間に? 」
少し高めの、声量の豊かな声だ。大声を出したらずっと遠くまで届くだろう。
「はぁ、まぁ、ちょっと、急におじさんの料理が食べたくなりまして」
「おぅ、そうかそうか! おじさんに任せておけ! さっ、遠慮せずに店の中に、入った、入った。好きなところに座りなさい」
マスターは嬉しそうにそう言うと、スポーツ新聞を畳んで立ち上がり、カウンターの中からエプロンを取り出していそいそと身に着けた。
そう。ここのマスターは、正真正銘、俺のおじさんだ。親父の弟に当たり、その縁でこの喫茶店にはたまに来ている。おじさんはおじさんで、家に不在の時が多い親父の代わりに、俺の事をあれこれと心配して様子を見に来てくれたりする。
遠慮せずにと勧められたので、俺は、店内を見渡し、空席を探す。
と言っても、マスターがスポーツ新聞なんかを読んでいた事からも分かる通り、店内に他に来客はいなかった。席は選び放題だから、俺は、窓際のテーブル席を使わせてもらう事にする。
「すずみ。席、あそこでいいか? 」
一応、すずみに確認を取るために振り返ると、すずみはまだ、店の扉をくぐるかくぐらないかの位置にいた。何か遠慮している様子で、店内をきょろきょろと見回している。
俺は肩をすくめると、すずみに向かって手招きをした。すずみはまだ躊躇している様子だったが、俺がテーブル席の椅子を引いて、そこに腰かける様に手ぶりで示してやると、ようやく店の中に入った。
カウンターの方から、ヘタな口笛が飛んでくる。
「かわいい子じゃないか! 幸ちゃん、とうとう彼女ができたの? 」
「そういうんじゃないから」
変な勘違いをしているマスターを睨みつけると、俺は、すずみの対面へと腰かけた。
テーブルに配置してある店のメニューを手に取りながら、俺は、すずみの様子を確かめる。
俺に促されて席にはついたものの、何とも居心地が悪そうだ。落ち着かない様子で、横目でチラチラとマスターの方を見たり、窓の方を見たり、見づらそうに俺の方を見たり、そわそわしている。
俺はすずみに聞こえない様に小さなため息を吐くと、メニューを開き、すずみが見やすいようにテーブルの上に置いた。
「あのっ……? 幸太郎さん? 」
俺の意図が掴めないらしく、すずみは窺う様な視線を向けてくる。
「いいか、すずみ。俺は、これから、いかに俺が怒っていないかという事を、具体的な行動で示そうと思うんだ」
「はい? どういう、事ですか? 」
俺はポケットに手を入れると、財布を取り出し、テーブルの上に叩き付ける様な勢いで置いた。
「すずみ。メニューから好きなものを選んでくれ。俺が全部おごってやる」
つまり、俺がすずみを励ますために考え付いた事と言うのは、腹いっぱいになるまで美味いものを食べさせるという事だったわけだ。
……。
いや、他には何も思いつかなかったんだ。本当に。
だが、何かあった時にやけ食いするのって、結構、効果はあるんじゃないだろうか。
もっとも、一抹の不安はある。
主に経済的な理由だ。
俺は、一学生に過ぎない。勢いよくテーブルに叩き付けてみたものの、財布に厚みなんぞない。それに、俺の生活費や諸々は、この財布のか細い財源から捻出されているのだ。すずみがどの程度食べるかは未知数だが、ヘタをすれば今月の生活が危うくなるかもしれない。
この喫茶店、すなわち、おじさんが経営している店を選んだのは、俺がおじさんの作る料理について高評価をしているというだけではなく、ここにも理由がある。
払うものはもちろん払うつもりだったが、最悪、予算を超過するかもしれない。その点、おじさんが相手であれば、その支払いを待ってもらえるかもしれない。何か月かに分けてちまちまと返済すれば、毎日もやしで生活するといった貧乏伝説を作らずに済む。
甲斐性のない俺だったが、少なくとも腹はくくっている。
バッチ来い、だ。
そんな俺の悲壮な決意などつゆ知らず、当のすずみは尚もためらっている様子だった。
個人経営の喫茶店だから、メニューと言っても、ファミレスみたいにいろいろあるわけじゃ無い。食べたい物などすぐに決まるはずだったが、やはり、まださっきの出来事を気にしているのだろう。
なら、俺が先陣を切るしかない。
「ちょっと貸して」
俺はメニューを手に取ると、さっと一読し(といっても、初めてではないのでどんなメニューがあるのかは大体知っている)、食べたい物を決める。
「マスター、とりあえず、ハンバーグセットを2つ。あと、アイスコーヒーも2つ」
「あいよ! すぐ作るからね」
マスターは自信たっぷりな様子でそう答えると、カウンターからフライパンを取り出し、くるりと一回転させた。
ほどなくして、店内にお肉の焼ける香ばしい匂いが漂い始める。
カウンターの奥で働くマスターの手際は、見た目のゆったり感に反し、素早く鮮やかだった。裏通りにあるせいで店はいつもガラガラだが、マスターの腕はいい。
マスターの手際の良さは、今の俺達にとっては幸いだった。
何せ、今の俺とすずみの間には、会話が無い。
それは、あまりにも気まずい時間だった。
だから、マスターの見事な腕前は、ちょうどいい目のやり場だった。
ぽっちゃりしたマスターが、カウンターの奥に設置された調理場できびきびと働いている様子は、実際、なかなかの見ものだった。
素早く、効率的に、踊る様なステップを刻みながら調理していくマスターの姿は、鮮やかでありながらひょうきんでもあり、見ていて飽きない。
おかげで、料理がテーブルの上に並ぶまでもあっという間に感じられた。
「はいよ、おまたせ」
そう言って料理をテーブルの上に並べたマスターは、相変わらず何かを勘違いしているらしく、俺に下手でちっとも似合わないウインクをして去って行った。
だから、彼女じゃないっての。
俺はカウンターの奥に向かい、再びスポーツ新聞を開いたマスターの姿を睨みつけた後、テーブルの上に並べられた料理へと視線を移した。
この喫茶店のハンバーグセットは、至ってシンプルだ。メインの皿にデミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグと、付け合わせの人参とジャガイモのソテー。小皿に生野菜のサラダ、そしてライスとコンソメスープがつく。
素っ気ないが、王道を行くセットメニューになっている。
そして、傍らには、ソーサーに載せられたアイスコーヒー。砂糖とクリームの入ったステンレス製の容器が付属している。
正直、これだけでもかなり痛い出費なのだが、これも必要経費と、俺は既に腹をくくっている。味に関しては折り紙付きだ。
「いただきます」
俺はそう言いつつ合掌すると、ナイフとフォークを手に取った。
マナー的には、味噌汁なんかと同じでスープを先に一口飲んだりするのだろうが、ここにそんな事を気にする様な奴はいない。俺は食べたい物を食べる。
左手で持ったフォークで皿の上のハンバーグを軽く抑えると、食べたい大きさになる様、ハンバーグにナイフを入れる。押す時ではなく、引く時に切るのが、楽に、綺麗に切るコツだ。まぁ、ハンバーグを切るのにそんなに力は必要ないから、あまり気にしなくても綺麗に切れるんだが。
ナイフを入れると、切ったハンバーグの断面からじゅわっと肉汁が広がり、ソースと混ざり合った。ハンバーグは自分で作ってみた事はあるのだが、どうしてもこうはいかない。やはり何かコツがあるのだろう。
そして、切り出した一切れを口に運ぶ。
当然、うまい。
肉には臭みがなく、肉汁が十分に閉じ込められていてジューシーだ。脂は香ばしく、飴色になるまで炒められた玉ねぎが味に深みを出している。そして、ほんのり甘いデミグラスソースの中に、胡椒の風味が効いていて、味をしっかり引き締めている。
ライスともよく合う。俄然、食欲がわいてきた。
二切れ目に手を付けようとした時、俺は、すずみがまだ、何も手を付けていない事に気が付いた。
「どうした、すずみ? 別に、遠慮なんかしなくていいんだぞ? 」
「えっと……、その……」
手を止めて問い掛けた俺に、すずみは何だか言いづらそうにしている。
すずみの視線は、皿の上に乗ったハンバーグと、食器の両脇に綺麗に並べられたナイフとフォークとを行き来していた。
なるほど、そういう事か。
「分かった。ちょっと、貸してみ」
俺はそう言うと、すずみの皿を自分の方に引き寄せ、自分のナイフとフォークは一旦置いて、すずみのナイフとフォークを手に取った。それから、すずみの分のハンバーグをすずみでも食べやすそうな一口大の大きさに切り分けてやった。
どうやら、すずみは、ナイフとフォークを使った事がないらしい。
「ほら。これで、食べられるだろ? 」
「あっ、ありがとう、ございます」
すずみの前に皿を戻してやると、すずみは申し訳なさそうに会釈した。
「さ、冷めないうちに食っちまおうぜ」
俺はそう言うと、二口目のハンバーグを口に運んだ。
これですずみも問題なく食べられるだろうと思っていたのだが、すずみはまだ、ハンバーグに手を付けていない。
後はどんな持ち方でもいいからフォークでハンバーグを突き刺して食べるだけなのだが。そう怪訝に思いつつ、俺は再度、すずみの様子を観察する。
今度は、すずみの視線が、ハンバーグと、俺との間を行き来していた。
やがて、すずみは意を決した様な表情で、俺を真っ直ぐに見据えた。
嫌な予感がする。
「あー」
「待て! 」
あーん、と、大口を開けようとしたすずみを、俺は、鋭い口調で制止した。
危ない所だった。
どうも、俺は、この、すずみの「あーん」に弱いらしい。過去2回とも、俺はすずみにこの仕草をされた瞬間、意識を失い、無心になってすずみに料理を食べさせてしまっている。
俺とすずみだけだったら、まぁ、それでもいいのかなとは思う。だが、この場にはマスターもいるし、俺がすずみのねだるままに食べさせてやっていたら、マスターの余計な勘違いをこじらせるだけだ。
そんな、いろいろと面倒そうな事態は避けねばならない。
俺に待て、と言われたすずみは、その瞬間の姿勢のまま、ピタリと動きを止めていた。
微動だにせず、ただ、瞳だけを動かし、俺の様子をうかがっている。
ふぅむ。これは、ちょっと面白いかもしれない。
時に、わんこと言うのは、芸を覚える生き物だ。お手に始まり、おかわり、お回り、伏せ、などなど、様々だ。
そして、待て、も、わんこが嗜む芸の一つに数える事ができよう。
もちろん、俺は、すずみが犬から人間になったなどという話を信じちゃいない。だが、もし、すずみが元わんこであれば、俺の「待て」の一言でピタリと動きを止めた現状にも合点がいく。
あの、俺が川で溺れているところを助けてやった犬、黒ラブは、品評会で賞を取るほどの名犬だった。犬が覚えられる芸でできないものなど無いのだろうし、条件反射のレベルで芸を実行してしまうくらい、骨の髄にまで芸を叩きこんでいるのだろう。
その様な考察は、まぁ、ひとまずはどうでもいい。
俺は、ちらりと横目でマスターの様子をうかがい、マスターが、相変わらず熱心にスポーツ新聞を眺めている事を確認した。競馬の予想でもしているのに違いない。
これは、好都合だ。この際、すずみとの関係をこれ以上勘違いされない様に、うまくすずみを諭してやらねばなるまい。
「いいか、すずみ。そのまま俺の話を聞いてくれ」
俺はすずみにだけ声が聞こえる様に声量を落とし、彼女に言い含める。
「この場においては、あーん、は、無しだ。自分の手を使って食べてくれ」
途端に、すずみは切なそうな目をした。
何で? どうして? 半ば悲鳴のようなすずみの感情が手に取る様に伝わってくる。
俺は、罪悪感でいっぱいになった。
だが、耐えろ、耐えるんだ、俺。
「いいから、ここは俺の言う通りにしてくれ。後で何か我儘を聞いてやるから。いいか、口ごたえはなし、だ」
すずみはそれで納得したのかどうか分からなかったが、納得してくれたと信じるしかない。何か今、うっかり、後々で面倒になりそうなそうな発言もしてしまった気がするが、まぁ、何とかなるだろう。
すずみは、尚も微動だにしない。あーんをしようとして口を半開きにした姿勢のままだ。
ああ、そうか。待て、は、終わりになるまで続けるものなのか。
こういう時、どうやって、待て、を終わらせるのだっけ。
「えっと……、よし」
どうやら、これで正解だったらしい。再び動き出したすずみは、口を閉じ、何とも不満そうに頬を膨らませたが、俺に言われた通り、大人しくフォークを手に取った。
ちっちゃい子供がする様に、フォークを単純に握っただけの持ち方だったが、この際ハンバーグを突き刺せれば何だっていいだろう。
俺が一口大に切り分けてやったハンバーグにぐさりとフォークを突き立てたすずみは、そのまま口に運んだ。
途端に、すずみの表情が笑顔に変わる。
「んーっっ、おいひーですっ」
良かった。さすがはおじさんの作るハンバーグだ。すずみの口にも合った様だった。
「そうか。うまいのか」
俺は、すずみの幸せそうな笑顔に、少しだけ見とれる。
「はいっ。すっごくおいしいですっ。実は、すずみ、ずっと、この、はんばーぐ? っていうのを、食べってみたかったんです。だけど、お婆ちゃん、玉ねぎが入っているからって、分けてくれなくって……。こんなにおいしいものだったんですね! 」
「ほー、そうか、そうか」
俺は適当に相槌を打つと、安心して自分の分を食べ進めるのを再開した。
並べられた料理は、すぐに平らげられていった。
ハンバーグセットを食べ終わり、早めの夕食だった事もあってすっかり満腹になった俺は、アイスコーヒーに手を伸ばす。食後の一杯って奴だ。
もっとも、俺にはコーヒーの味はよく分からない。世の中には好みのうるさい人がたくさんいるし、マスターも、おじさんなりにこだわってコーヒーを淹れているらしい。道具もいろいろと揃っている。何しろ、ここは喫茶店だ。
だが、俺にとっては、コーヒーか、それ以外か、その程度の違いしか分からない。
砂糖を少々、クリームは多めに、目分量で適当にアイスコーヒーに投入し、マドラーで軽くかき混ぜた俺は、ストローをさして口をつける。
まぁ、当然だが、うまい。他のコーヒーとどう違うのかなんてさっぱり分からないが。
俺と同じ様にハンバーグセットを平らげてしまっていたすずみは(持ち方は変だったが、フォークを器用に使いこなしていた)、俺の真似をしてとりあえずアイスコーヒーにストローを突っ込み、口をつけた。
一生懸命吸い上げているが、うまく行かないのかアイスコーヒーはなかなかすずみの口までたどり着かない。俺は内心で頑張れとエールを送りながら、二口目のアイスコーヒーを味わった。
懸命に頑張っているのを笑っちゃいけないのは分かってはいるが、すずみの様子は見ていてかなり面白かった。
やがて、努力の甲斐あってか、コーヒーはとうとうすずみの口にまでたどり着いた。
だが、すずみは、それ以上コーヒーに口をつけようとしなかった。
何だか涙目になりながらストローから口を離したすずみは、ちょっと恨みがましい視線を俺へと向けて来た。
「ぅぅっ、にがいですぅ……。幸太郎さん、何でこれ、頼んだんですか? 」
そりゃ苦いだろう。ブラックだもの。
敢えて言わなかったのは、すずみがこういう反応をするのを見たかったがためだ。
少しからかってやりたかったのだ。
「貸してみ」
俺はそう言うと、すずみのアイスコーヒーを手に取り、砂糖もクリームもたっぷりと投入して混ぜてやった。
「飲んでみ」
俺がすずみの手元にアイスコーヒーを戻してやると、すずみは疑わしそうな視線で俺を見た。それから、渋々とした動きで、再度アイスコーヒーに口をつける。
「……。よく分からないです」
すずみは微妙そうな顔をする。
一応、口はつけているが、どうやら、コーヒーはお気に召さなかったらしい。
まぁ、人の好みだし、こういう事もある。マスターの腕が悪い訳じゃない。
「ほら、すずみ。他に食べたい物は無いか?」
店に入った当初よりは立ち直って来た様子のすずみに、俺はメニューを渡した。
「……いいんですか? 」
メニューを一読したすずみは、やがて、上目遣いで俺に確認をしてくる。
「ああ、いいとも。俺は嘘を吐くかもしれないが、約束は守る事にしているんだ」
俺は両手を左右に広げ、おどけて見せた。
痛い出費には違いなかったが、もう一品くらい注文しても何とかなる。
俺の財布へのダメージは再起可能なレベルにとどまるだろう。
すずみは何だか難しそうな顔で悩んだ後、やがてメニューを俺にも見える様に広げて見せ、びしっと一つのメニューを指さした。
「これっ! この、かれぇっていうの、食べたいです! 」
カレー。カレーライス。あるいはライスカレー。おしゃれにカリー何て言ったりもする。
これも、喫茶店における定番メニューの一つだ。
というより、カレーの味を売りにしている店も多いと聞く。
カレーの本場と言えばインドだが、インドではスパイスを良く効かせた料理全般をカレーと呼ぶんだとか。日本でよく食べられているとろみのついたカレーはイギリス経由で入って来たものらしく、日本の主食であるご飯と合う様にいろいろと進化をしてきたものらしい。
よく食べる子だねぇと感心しながらマスターが運んできたカレーは、いわゆるビーフカレーという奴だった。具がとろっとろに溶け込むまで煮込まれた黒目の色合いのカレーソースの中に、スプーンで軽く圧迫するだけでホロホロと崩れるまで柔らかく煮込まれた牛肉がごろごろと入っている。口直し用に、ラッキョウと福神漬けがつき、サービスでレモンを絞ったミネラルウォーターが付属する。
俺はもちろん、このカレーの味を知っている。
当然の様に、うまい。
何と言うか、口によく馴染む。野菜類は全て溶け込んでしまっているので何が入っているかは皆目見当もつかないのだが、様々なスパイスと野菜達、そして牛肉の旨味が混然一体となって混じり合い、口当たりがよく、そして飽きの来ない複雑な味わいを醸成している。
「あの、幸太郎さん? 幸太郎さんは、食べないんですか? 」
そんな絶品のカレーを前にしたすずみだったが、俺の分を頼まなかったので何だか躊躇している様子だった。
「あー、俺の事は、気にしないでくれー」
ハンバーグセットで十分満腹していた俺は、正直、これ以上食べる気はしない。
俺の言葉に、まだ釈然としない様子だったものの、すずみはスプーンを手に取り、一口目を口へと運んだ。
幸せそうな笑顔が華開く。
「んーっっっ、凄いっ! こんなにおいしいもの、初めてです! 」
そうか、そりゃぁ良かった。
「実は、私、このかれぇも食べた事無かったんです! 玉ねぎが入ってるとか、味が濃いからって、お婆ちゃんが食べさせてくれなくって……。ぁぁ、凄いです! 素敵ですっ!」
「ほー、そうか、そうか」
ぱくぱく、むしゃむしゃと、大喜びでカレーを食べ進めていくすずみに、俺は適当な相槌を打った。
まったく、良く食べる奴だ。
最初に弁当を作って持って来てくれた時もそうだったが、どういう食欲をしているんだろうと思う。
だが、俺が呆れるのは、まだ早かったようだ。
「幸太郎さん、幸太郎さん! すずみ、次はこれ! これが食べたいです! 」
カレーを順調に平らげたすずみは、どうやら調子が出て来たらしく、いつもの元気で無邪気な感じで、瞳を輝かせながらメニュー表の一点を指さし、俺に猛然とアピールしてきた。
それは、ホットケーキだ。それも、普通のホットケーキではなく、いろいろとトッピングが載っている豪華バージョンだった。
ホットケーキ。あるいは、パンケーキと呼ぶ人もいるかもしれない。この両者は実に類似しているため、俺はどっちがどっちなのか、正直言って分からない。ホットケーキだと思って焼けばホットケーキ、パンケーキだと思って焼けばパンケーキ。その程度の認識だが、実際には諸説あるらしい。焼き上げるのに使う道具の違いだとか、甘さの違いだとか。さっぱり分からない。
すごくよく食べる子だねぇとおじさんが驚嘆しながら持って来たホットケーキは、ふかふかで、イイ感じにきつね色に焼かれたまあるいのが二段重ねになっているものだった。普通のホットケーキはバターとたっぷりのメイプルシロップがかかっているのが多いが、この豪華版のホットケーキの上には、シロップで煮た様々な果物が目にも鮮やかなソースがたっぷりとかけられ、付け合わせにホイップクリームが積乱雲の様に盛られている。ちょっと盛りがいいから、おじさんがサービスしてくれた様だ。シロップ漬けにされたチェリーまで乗っている。
素晴らしいデザートだ。すずみは、凄い、凄いと、歓喜の声をあげながらはしゃいでいる。
味は、当然、絶品だ。
まず、ホットケーキ自体がうまい。ふかふかのふわふわの食感で、きつね色の焼き目は香り高く、甘さは控えめで後を引く味だ。その上、たっぷりとかかったフルーツソース。シナモンの効いたこのソースが本当に美味いんだ。そこにたっぷりホイップクリームをつけて食べれば、雲の上にいる様な心地になれる。
だが、俺は今、この絶品のホットケーキに、微塵も興味を抱けなかった。
正直に、言おう。
胸やけがする。
すずみはと言うと、それがさも当然であるかのように、ホットケーキをぱくぱく食べている。凄く嬉しそうだし、そりゃもう、美味しそうに食べている。どうやら、すずみにはナイフとフォークは扱えないらしいと察したおじさんがホットケーキをあらかじめ一口大に切りそろえて来てくれたおかげで、ホットケーキは流れる様にスムーズにすずみの口の中に消えて行く。
すずみ、そんなに食べて、平気なのか?
そう問いかけたかったが、明らかに平気そうなので、俺は驚愕しながら、すずみが旺盛な食欲を発揮するのを眺めている事しかできなかった。
もう一つ、問題がある。
我が家は今、財政破綻の瀬戸際にある。
この喫茶店、マスターがいろいろとこだわりを持っているだけあって、お値段はそれなりにする。品質からすれば明らかに良心的な値段設定で、タイミングによっては地元の常連客で賑わったりもするぐらいなのだが、それはひとまず置いておく。とにかく、俺からすれば、ちょっと背伸びをしないと入れないお店なのだ。
問題は、一学生に過ぎない俺の、財政基盤の貧弱さにあるのかもしれない。
しかし、ピンチは、ピンチだ。
来月、生活費が振り込まれるまで、テレビとかでよくやっている貧乏伝説的な企画を現実にやりたくはない。
すずみ。これで満足してはもらえないか?
だが、そんな俺の祈りは、通じなかった。
今までと全く遜色のないペースでホットケーキを平らげたすずみは、残っていたアイスコーヒーをずずずっと音を立てながら飲み干すと、上機嫌でメニューを開いた。
いかん。このままでは、俺の財布にとどめを刺されてしまう。
すずみに、何でも食べさせてやると言った手前、すずみがいろいろ注文するのは全く悪い事ではない。俺の財布の薄さが問題なのだ。
俺も、すずみに心行くまで食べさせるつもりだった。すずみが良く食べるというのは分かっていたし、自分なりに腹はくくっていたはずだ。
だが、まさか、これほどとは!
ええい、夕凪 すずみの胃袋はバケモノか!
その時、俺の脳内では、激論が交わされていた。
初志貫徹。男らしく財布と運命を共にするか。
すずみが元気になってくれるのなら、それもまた良かろう。悔いは(あるけど)ない。
無条件降伏。すずみに勘弁してくださいとなりふり構わず土下座をするか。
やりたくはない。だが、過酷な貧乏伝説チャレンジは回避できる。
しかし、現実は無情だ。
「マスターっ! これ、これをお願いします! 」
勢いに乗ったすずみは、もはや俺に確認をする事も無く、直接マスターに注文を出した。
俺は表面的には無表情を装いながら、テーブルの上に両肘をつき、両手の平を組んで、そこに額をつけた。
あぁ、終わった。
俺の貧乏伝説生活の幕開けだ。
やがて運ばれてきたのは、この店のデザートの中でも特別値が張る、スペシャルパフェだった。どんぶりみたいな容器に、たっぷりのコーンフレークとプリン、富士山みたいにてんこ盛りのホイップクリーム、バニラアイス、チョコレートアイス。そして各種のカットフルーツ、たっぷりのチョコレートソース。見た目からして迫力満点で、挑もうとする者を威圧するかの様なオーラを放っている。が、実際には甘さ控えめのホイップクリームと、酸味の効いた各種のフルーツのおかげで、飽きる事なく、最後までおいしくいただける一品だ。もっとも、普通ならそれだけでお腹いっぱいになってしまうぐらいの盛り方なので、実際に注文されているところを見た事は無い。恐らく、このメニュー自体も、見た目通りよく食べるおじさんが、半ば自分様に考案したものなのだろう。俺も、いつだったかの誕生日に、ケーキの代わりに食べさせてもらって以来、食べた事は無い。
だが、そんな事はもう、どうでもいい。
もはや、おじさんは何も言わなかった。ただ、すずみへ、何かの神様を見る様な視線を送り、俺へ、慰める様な視線を送り、無言のままカウンターの奥へと戻って行った。
「いただきまーすっ! 」
真っ白な灰の様に燃え尽きた気分の俺とは対照的に、すっかりルンルン気分のすずみは、さっそく、山盛りのパフェを切り崩しにかかる。
俺は、財政破綻した我が家の家計をどの様に盛り返すかを必死に考えていた。
まだだ。まだ、終わらんよ!
「ごめん、ちょっと席外すから」
そう断って俺が立ち上がると、すずみは手を止め、心配そうな顔をする。
「大丈夫。すぐ戻って来るし。すずみは遠慮せず食べていてくれ」
「分かりました! 」
だが、俺がそう言うと、嬉しそうにパフェを切り崩すのに戻った。
スペシャルパフェと言えど、すずみの食欲の前には風前の灯火だ。
何て恐ろしい光景だ!
デザートに入って2品目だし、さすがにもう注文はしないんじゃないかと希望的な願望を抱きつつ、俺はカウンターで、相変わらずスポーツ新聞を眺めているおじさんの所へ向かった。
「あのー、おじさん。ちょと、いいすか? 」
「……ん? 幸ちゃん、どした? 」
小声で話しかけると、おじさんは気さくな笑みを浮かべた。
「ちょっと、奥でお願いします。奥で」
俺が尚も小声でそう言うと、おじさんはそれで何かを察したらしく、大きく頷くと新聞を折りたたんで立ち上がった。
俺とおじさんが向かったのは、店の奥の扉の向こう、2階の、おじさんの生活スペースへと続く階段だった。
ドア一枚隔てただけだが、ここなら、ちょっと話してもすずみには聞こえないだろう。
そして、ドアが閉まるや否や、俺はおじさんに向かって両手を合わせ、思いっきり頭を下げた。
「すんません、おじさん! 今日の支払い、分割払いにできませんかっ? 」
思い切ってそう頼み込んだ俺は、頭を下げた姿勢をそのまま維持する。
おじさんの返事は、すぐには返っては来なかった。
俺は、不安に駆られる。
俺の知っているおじさんの人柄から言って、支払いを数回に分割してくれる様にお願いしても、快く引き受けてくれるはずだった。
だが、もし、おじさんに、それを引き受けられない事情があったら?
おじさんにだって、生活があるんだ。俺の身勝手な都合を無条件に飲んでもらおうなんて、都合のいい話だったんじゃないのか?
まずい。まずいぞ。
俺が半ば、貧乏伝説の幕開けを覚悟した時だった。
「あっはっはっは、律儀だなぁ、幸ちゃんは」
聞こえてきたのは、心底おかしそうなおじさんの笑い声だった。
「いや、分かる、分かるよ。あの子、よく食べるもんなぁ。おじさんも驚いちゃったよ。けど、ああやって喜んで食べてもらえるんだから、こっちも凄く気分がいいんだ。だから、分割払いなんかしなくてもいい。おじさん、今日の分はタダにしちゃう! 」
「ほっ、本当ですかっ! 」
ああ、神様、仏様。
おじさんは何て気前がいいんだ。
だが、頭を上げて、本心からの笑顔を浮かべたおじさんの顔を見た俺は、それではだめだ、と考え直す。
あまり甘えちゃだめだ。おじさんは俺に良くしてくれるが、あまり甘え過ぎると、俺にとってそれが当たり前に思えてきてしまうかもしれない。
そうやっていつもおじさんに甘える様になってしまっては、おじさんには迷惑だろうし、第一、俺自身がダメ人間になってしまう。
自分でどうしようもない事だったら素直におじさんに甘えればいいかもしれない。だが、自分で何とかできそうな事まで甘えていてはだめだ。
「その……、おじさん、そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、やっぱり、お金は払わせてください。そうじゃないと、何か、俺、自分がダメ人間になる様な気がするんです」
「ぇえ? そんな、気にしなくてもいいのに。……でも、そうすると、困ったなぁ。今日の分全部払っちゃうと、今月、幸ちゃん困るんでしょ? 」
「ぅ……、そうっす。めっちゃ困るっす。だから、足りない分は、来月とかに払わせてもらえないかなって」
「ふぅむ。それでも、いいんだけど」
腕組みをしてちょっと考え込んだおじさんは、俺に少し顔を寄せると、声のトーンを落として話しかけてくる。
「ところでさ、幸ちゃん、あの子、誰なの? 彼女じゃないって言っているけど、友達? 」
「ま、まぁ、そんな所っすかね」
俺は、とりあえず話を合わせて置いた。
果たして、すずみは友達なのだろうか?
正確なところを述べれば、すずみは、俺が昔助けた黒ラブで、何でか人間の姿になり、俺のところに押しかけて来たんです、という事になる。だが、こんな話をしたら、おじさんは俺がどうにかなったのかと心配するだろう。
少なくとも、俺がおじさんの立場だったら、そうなる。
とりあえず、すずみは俺の友達。そういう事にしておいた方がいいだろう。
だが、今、それがどう関係してくるのだろう?
「友達ねぇ……。でさ、友達っていう事はさ、これから先も、彼女と会う事があるっていう事でしょ? 」
「はぁ、まぁ、そうなんじゃないっすかね? 」
俺が肯定すると、おじさんは、さらに声を潜めた。
「お、か、ね、かかっちゃうと思うよぉ」
俺は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
確かに、あり得る話だ。
どういう理由か知らないが、とりあえず、すずみは今のところ、俺の周辺に居座っている。今日は、家にまで押しかけて来た。
俺はそんなすずみの存在に戸惑いつつも、半ばは浮かれていた。まず、第一に、すずみは俺から見て、結構、かわいい。明るくて無邪気な性格も、ちょっと騒がしい気もするが、一緒にいて悪い気分ではない。その上、一生懸命で、手料理がうまいと来ている。
彼女いない歴イコール人生の俺としては、この状況で浮かれない方がおかしい。
つっけんどんに突き放して追い払ってしまえばいいのかもしれないし、実際に今朝はそうしようと思ったのだが、俺はもう、すずみにそんな事をする気にはなれない。
例え、すずみが、犬から人間になりましたとか、意味不明な主張をしていようとも、だ。
ここで重要な事は、俺は、今後も、すずみが周囲にいる状況というのを想定しなければならない、という事だ。
それが、すずみが一方的に、弁当やら、手料理やらをご馳走してくれるというだけなら、それはそれで有難く頂戴すればいいだけだ。
だが、対人関係を築く上で、そんな関係が健全と言えるのだろうか? 俺が世間から見て異常に貧乏とかだったら頼るかもしれないが、俺は節約さえすれば普通に暮らせるくらいは、親に面倒を見てもらっている。
そもそも、俺からしたら、すずみが俺にそんな事をしてくれる理由が思い当たらない。一方的な奉仕を受けるいわれはない。
第一、そんな関係、俺は嫌だ。
対等な友人はいつでも歓迎だが、一方的な関係は御免被りたい。俺はそんな事をされる身分じゃないし、して欲しいとも、したいとも思わない。
だから、今後もすずみが俺の近くに居て、何かご馳走したりしてくれる場合、必然的に、俺は彼女に対して何らかの対価を用意しないと気がすまない。
今日みたいに、何かを奢るとか。
そう。おじさんの言う様に、かかるのだ。お金が。
俺は、目の前が暗くなるような気がした。
一度や、二度ではない。今回の様な痛い出費が、これから何度でもあり得るという事だ。
「おじさん……。ヤバい、それって、ヤバい事だよ」
恐怖。恒久的な財政破綻の恐怖。俺は、声が震えるのを抑える事ができなかった。
「うん。という訳で、おじさんから一つ、提案があるんだ。ここでさ、働かない? ちゃんとバイト代も出すし、今日の支払いもそこから天引きにすればいいじゃない」
俺は、暗雲の中に、青天を見た思いだった。
そうだ、そうだよ!
バイトすればいいんだ!
ああ、何でそんな事に気付かなかったんだろう!
いや、もちろん、世の中にはバイトをして稼ぐという概念が存在する事は知っていたが、肩の力を抜いて生きていた俺にとっては、今まで必要のない行動だったんだ。
生活費と学費は、何ともありがたい事に最低限出してもらっている。無駄遣いをしない様にしていれば、これまでの俺は何とでもなったのだ。何なら、1日や2日、断食したって問題ない。
欲しいものとか無いのかって?
欲しがらなければいいじゃない。そうすれば出費はゼロなんだから。
節約は正義、だ。
だが、必要経費ならば仕方が無い。
幸い、俺の通っている学校は、申請を出す必要はあるが、アルバイトを許可している。おじさんの店で働く事は可能だ。
「どう? おじさんとしても、手伝ってくれる人がいるとありがたいんだ。ずっと一人で仕事しているのも寂しくってさぁ。仕事も、ちゃんと教えるから」
そう、優しく語りかけてくれるおじさんの背中には、後光がさして見えた。
俺は、再度、深々と頭を下げた。
「ぜひ、お願いします! 」
慈悲深いおじさんのおかげで、俺は、目前に迫った危機を回避する事ができた。
おじさんとの話を終え、元のテーブルへと戻ると、パフェをすっかり平らげてしまったすずみが、何とも満足そうな様子でお腹の辺りをさすっていた。
何とも、呑気な奴だ。
こっちがあれほど戦々恐々としていたのに。
まぁ、でも、おじさんのおかげで、俺にはもう、怖いものは無い。
「どうだ、すずみ。まだ何か食べたい物はあるか? 」
太平洋の様に広く穏やかな気分の俺は、すずみにそう聞いた。いつもより口調も和らいでいたような気さえする。
「はいー、あるには、あるんですけどー、すずみー、もぅ、食べられないですぅ」
すずみは、何とも幸せそうな様子だ。
よしよし。この店に来た目的だった、すずみを励ましてやるというのも、無事に達成できたようだな。
「そっか。じゃぁ、もうちょっと休んで、動けるようになったら、家に帰るか」
「はいー、そうしますー」
俺の提案に、すずみは頷いた。
たっぷり、1時間ほど休んでから、俺とすずみは、おじさんの喫茶店を後にした。
おじさんは、食後の紅茶まで俺達にごちそうしてくれた。紅茶だったのは、すずみがコーヒーが苦手みたいだから、と、おじさんが気を使ってくれたためだ。バイトの件といい、まったく、おじさんには頭が上がらない。
時刻は、既に夕暮れに近い。日差しは徐々に傾きだし、街並みは少しずつ赤みを帯びていく。少しだけ涼しい風が吹いていて、心地よかった。
すずみは、もう、すっかり元気だ。家へと向かう道を、鼻歌なんか歌いながら、俺の前を歩いている。足取りも何だか軽やかだ。
やっぱり、明るいすずみの方がいい。
こっちの気分まで明るくなってくる。
俺の勘違いに過ぎないかもしれないが、少し、距離が縮まった様な気がした。
だから、今まで疑問に思っていた事を、俺は、すずみに尋ねてみる事にした。
「なぁ、すずみ。一つ、聞いてもいいか? 」
「いいですよー」
「おう。……どうして、俺なんだ? 」
「どうしてって……、はい? 」
立ち止まったすずみは、俺の方を振り返り、不思議そうな顔をした。
「いや、だからさ。……えっと、すずみが、犬?だった頃の飼い主だったお婆さんが亡くなってから、ずっと、俺の事を探していたんだろ?それに、何か、手料理もご馳走してくれたりしてさ。だから、ずっと、思ってたんだ。どうして、すずみは俺を探して、手料理まで作ってくれるのかって」
「……えっと、その事、ですか」
すずみは何だか口ごもると、俺から少し顔を背け、両手を口元で合わせて、俺から顔を隠す様な仕草をした。
「その……、ちょっと、お恥ずかしいのですが」
「言いにくい事なのか? だったら、無理には聞かないけど」
「い、いえ、そういうわけでは……、いえ、そう、ですけど」
すずみは、俺から表情が見えない様に、完全に顔をそむけた。それから、何度か深呼吸をする。
まずい事を聞いたのかなと思ったが、俺は、すずみにどう声をかけたらいいのか分からず、すずみの次の言葉を待つ事しかできなかった。
「その……、幸太郎さんは、すずみにとって、初めての人だったんです」
やがて、すずみは口を開いた。
「すずみは、自分で言うのもなんですけど、名犬でした。いつもいつも、困っている人を助けたり、誰かを楽しませたり。それが嬉しくて、楽しくて、大好きでした。すずみはずっと、誰かのお手伝いをしたり、励ましたり、そういう事をしていて、いつも、誰かを助ける側でした。すずみはそんな自分に誇りを持っていましたし、そうする事が出来て良かったと思っています。けれど……、あの日、すずみが溺れたあの日、幸太郎さんはすずみの事を、必死になって助けてくれました」
すずみは伏せていた顔を上げると、俺の方を振り向き、微笑みを浮かべた。
「幸太郎さんは、見ず知らずの私を、必死になって助けてくれた。……すずみは、ずっと、誰かを助ける側の立場だと思っていました。そんな私を、幸太郎さんは助けてくれたんです。幸太郎さんは、すずみの事を命がけで助けてくれた、初めての人、だったんだです」
そう言うすずみの顔は、夕日のせいで少し赤く染まって見えた。
俺は、思わず立ち止まり、微笑みを浮かべるすずみの姿をぼけっと見つめてしまう。
「あっ、お婆ちゃんは別ですよ? すずみ、お婆ちゃんにはたくさんたくさん、お世話してもらいましたから。幸太郎さんは、お婆ちゃん以外では初めての人、って事です」
それから、すずみは、少し慌てた様子で訂正を入れた。
「おー、そうか、そうか」
正直、すずみの言葉などロクに頭に入ってきていなかった俺は、生返事を返す。
すずみは、訝しむ様な顔をした。
「幸太郎さん? ちゃんと聞いていましたか? 」
「おっ、おう、もちろん、聞いてた」
自然な動きで詰め寄って来るすずみに、俺はしどろもどろになりながら答える事しかできなかった。
「そうですか? なら、いいんですけど」
すずみはあまり深くは追及しなかった。
「というのが、すずみが幸太郎さんを改造しようとする理由です。すずみ、幸太郎さんを絶対に改造して見せますから! 」
俺は、力強く握り拳を作り、改めて宣言するすずみから、思わず視線をそらしていた。
「……俺は、そんな人間じゃないよ」
そして、口を突いて出た言葉は、そんなものだった。
それに、今のすずみは、何だか、俺には眩しく見える。
真っ直ぐに見ている事などできなかった。
そんな俺を、すずみは心底おかしそうに笑い飛ばす。
「何を言っているんですか。今日だって、幸太郎さんは、すずみを助けてくれたじゃないですか」
確かに、そうかもしれない。だが、そんな事は偶然、たまたま、そういう事だってあり得るじゃないか。
「さっ、幸太郎さん! 帰りましょ」
自分の気持ちを明かしてすっきりしたのか、さらに元気を取り戻したらしいすずみは、足取りも軽く、ステップを刻む様に歩き出す。
しばらく間を置いてから、俺は、その後に続いた。
どういう風に表現したらいいのか分からない。
胸の内が、ざわざわと騒いでいる。
最初は気づかない程度のものでしかなかったが、今でははっきりと感じ取れるくらいに大きくなっている。
俺にはこのざわつきの正体は皆目見当がつかないし、胸の内で自覚できるほどに大きくなったこの違和感について、どの様に対処すればいいのか分からない。
だが、一つだけ、はっきりしている事がある。
これは、全部、すずみのせいだ。