表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

キャッチボール

 次の日。俺は、午前10時になってから目覚めた。

 今日が土曜日だというのと、ついうっかり夜更かしをしてしまった事、昨日あまりよく眠れなかった事が重なって、こんな時間になるまでぐっすりと眠ってしまった。

 俺は朝の身支度を簡単に済ませると、さっさと自分の部屋に戻り、ゲームの電源を入れた。

 昨日の夜の続きだ。朝飯は食べる気がしないし、昼飯は昨日スーパーで買いだめしておいたレトルト食品とご飯がある。今日は心行くまでゲームを堪能する計画だ。

俺がいつもやっているのはいわゆるレトロゲーという奴で、今起動させたのも、2世代は古いゲーム機だ。

 最近はネットを経由して多人数で対戦するゲームが人気だが、生憎、俺の趣味じゃない。

 当然、グラフィックは現世代の物とは比べるべくもなく、悪い。だが、不思議と何度でもやりたくなってしまうのだ。例え、それがクリア済みの物であっても、だ。

 古いゲームなので、読み込みは遅いし、コントローラーはボタンがへたって来ているので反応も鈍い。だが、幸い、これからやるゲームはいわゆる経営シミュレーションという奴で、ボタンの反応の鈍さはあまり関係が無い。

 あまりプレイ人口の多いジャンルのゲームではないかもしれないが、これが、なかなか。噛めば噛むほど味が出るんだ。

 何せ、攻略法が何通りもある。プレイする度に内容が変わる。

 もちろん、最近のゲームにも面白い奴はいろいろとある。グラフィックが綺麗だし、内容もいろいろ盛り込まれていて、やりごたえがある。だが、古いゲームは古い分内容が単純明快で分かりやすく、特に、今の俺みたいにいろいろ深く考え込まずにひたすらゲームをやりこみたい時には向いている。シミュゲーは作業的なプレイを要求する場面が多く、手軽に頭をまっさらにして遊ぶ分には最適だ。

 ゲーム画面の起動が終わり、昨日進めた所までのデータを読み込ませている時だった。

 家の玄関の呼び鈴が、ぴんぽーん、と、鳴らされた。

 珍しい事もあるもんだ。

 この家には、今、俺だけが住んでいる。必然的に来客は少ないので、呼び鈴が鳴らされるなんてめったにない事なんだ。

 コントローラーを置いた俺は、部屋を出ると、階段を下った。

 一体、誰だろうか。ご近所さんが回覧板でも持って来たのか、何処かから届け物でもあったのか、はたまた、勧誘の人か。

 もう一度、呼び鈴が鳴らされる。少なくとも、相手はこちらに用があるのは確かな様子だった。

「はいはーい、どちら様ですかー? 」

 そう言いながら、玄関先で待っているであろう相手を確認もせずにドアを開いてしまったのは、少々、不用心だった。だが、この辺りは割合田舎の方で、治安は良かったし、第一、強盗に入られても、持って行かれて困る様な金目の物もない。

 そして、玄関先で待っていたのは、俺が想像していた誰でも無かった。

「幸太郎さん。おはようございます! 」

 そこには、あの謎の少女、犬から人間になりましたとか言っちゃう、少々おかしな事を真面目に主張してきた夕凪 すずみが、満面の笑顔で立っていた。

 今日、学校は無いハズだったが、相変わらず、俺が通っている学校のセーラー服を身に着けている。手には、近所のスーパーの買い物袋が握られており、新鮮そうな食材がてんこ盛りに詰め込まれていた。

 俺は、呆気に取られながら、すずみの全身を上から下まで眺める。つま先まではっきりと見えるから、どうやら、幻の類では無さそうだった。

「何で、俺の家を知ってんの? 」

 それから、口をついて出て来たのは、そんな疑問だった。

 俺は、すずみに自分の家の場所を教えたつもりは全くない。そんな記憶は無い。だから今日は遭遇しないだろうと安心しきっていたのだ。例えすずみが言うように、俺が助けたあの黒ラブと同一の存在なのだとしても、俺の自宅の場所を知っているはずが無いんだ。教えてないんだから。

 そんな俺の疑問など素知らぬ様子で、すずみは朗らかにのたまった。

「はいっ。すずみ、嗅ぎ分けました! 」

 なるほど。犬らしい事で。

「ほー、そうか、そうか」

 俺はさも納得した様に何度か頷いて見せると、そっとドアを閉め、流れる様な自然な動作で鍵を閉めた。

 そう。俺は今、何も見なかったし、聞かなかったし、誰とも会わなかった。

 いいね?

「ちょっ、ちょっとっ? 幸太郎さんっ、どうして鍵を閉めるんですかっ? 」

 俺に締め出された事を一瞬遅れて理解したすずみが、必死な様子でドアを叩いている。

 だが、俺は既に、玄関に背を向け、家の2階へと移動を開始していた。

 いいかい、すずみよ。確かにすずみが作ってくれた弁当は美味かったし、正直、有難いと思ったよ。

 でもな、すずみ。俺が今、欲しているのは、平穏な、ありふれていて、そして、怠惰な、甘美な土曜日なんだ。

 何のつもりで俺の家に来たのか知らないが、俺の休日を引っ掻き回させる訳にはいかないんだ。

 すずみはしつこく玄関前で騒いでいる様子だったが、俺が二階へと階段を上り始める頃には、諦めた様子で、静かになった。俺は、用件も聞かずに追い返したのはさすがに悪かったかなと、小さな罪悪感を覚えたが、まぁ、今更気にしてもどうにもならない事だ。

 そして、俺は階段を上り切り、自室のドアを開いた。

「幸太郎さん! 」

 そこには、どうやったのか知らないが、すずみの姿があった。

「ぅへぁっ? 」

 度肝を抜かれた俺は、そんな、奇妙な悲鳴をあげながら尻もちをついた。結構、痛い。

 そんな俺の眼の前で、ドアはゆっくり、きぃぃ、と音を立てながら閉まっていった。同時に、すずみの姿も見えなくなる。

 そんな馬鹿な事があるものか。

 俺は、そうだ。きっと、今度こそ幻覚を見たのに違いない。

 あれは幻、そう、きっと気のせいだ。

 声が割とはっきり聞こえた様な気もするが、幻聴に違いない。

 俺の頭脳はそう結論した。そうだ、もう1度ドアを開けば、そこにはいつも通りの俺の部屋があるのに違いない。

 そうであってくれ。

 だが、俺のそんな願いは、無残にも打ち砕かれた。

「幸太郎さん! どうしてすずみを締め出したんですかっ? 」

 俺が部屋の中を確認しようとドアノブに手を伸ばすのよりも早く、勝手にドアが開き、さすがに不満を隠さない表情のすずみが飛び出して来た。

「なっ、何だよっ、どうやって入ったんだよっ?」

 俺は半ばパニックになりながら問い返す。

「それはっ、窓が開いていたので! すずみ、頑張って登りました! 」

 くそっ。迂闊だった。昨日寝苦しかったので窓を開けて、そのままだったんだ。

 しかし、ここは2階だ。すずみは俺が玄関先からここまで戻って来るまでの間に、どうやってか下からよじ登って来たらしい。

 当然、土足だ。

「おいこらっ、靴を脱げ、靴を! 」

「あっ、すみません! 」

 俺に指摘されてようやく土足のままだった事に気が付いたらしく、すずみは慌てた様子で、靴を脱ぎ始める。

 不慣れな様子で靴を脱ぐのに手間取っているすずみを眺めながら、俺は思考する。

 面倒な事になった。どうにかして、こいつを追い払わないと。そうしなければ、俺のせっかくの計画、一日中ゲーム堪能フルコースがパーだ。

 考えろ、幸太郎。考えるんだ。

 どうにかして、すずみを玄関へと誘導しないと。

「それより、幸太郎さん! どうしていじわるするんですかっ! 」

 先ほどの扱いに納得がいかないらしく、不満げなすずみは俺に詰め寄って来た。

「どうどうどう、落ち着けって。悪かったよ、ちょっとしたジョークのつもりだったんだ」

 俺は両手の平を彼女に向けて見せて、なだめようと試みる。もちろん、さっきのはジョークでは無く、本気だったのだが、この際、嘘でも丸め込めればそれでいい。

「それより、夕凪さん。今日は何で俺の家に来たんだ? 」

「あっ、そうでした! すずみ、お昼ご飯を作りに来たんです! 」

 すずみは不満げな表情からころっと笑顔になり、瞳をきらきらと輝かせた。

「ほー、そうか、そうか」

 俺はそんなすずみに微笑み返しながら、内心では、これは使えると悪い笑みを浮かべた。

 玄関先で見かけた時、すずみが買い物袋を持っていた事から、何をしに来たのかはある程度予想がついていた。そして今、目の前のすずみは、買い物袋を持っていない。

 すなわち、俺の部屋、2階へと上って来る間に、すずみは買い物袋を置いて来ているという事で、1度外に出ない限り料理は作れないという事でもある。

 俺は、すずみを買い物袋を拾いに行く様に誘導してやるだけでいい。すずみが外に出た瞬間にもう1度彼女を締め出し、そのまま素早く部屋に取って返し、窓を閉めれば、もう家には入って来られないだろう。

 完・璧・だ。

「ところで、夕凪さん。買い物袋はどうしたんだ? 」

「はっ! そうでした! 置いて来ちゃいました! 」

 しまった、という顔をしたすずみを、俺はすかさず誘導する。

「それは大変だー。取りに行かなきゃなー。ほぅら、玄関はこっちだぞー」

「あっ、はいっ、ありがとうございます」

 俺は身振り手振りも交え、慇懃な仕草ですずみを導き、すずみは何の疑いも疑念も無くそれに従った。

 チョロい。

「さぁさぁ、玄関はこちらでございますよ。何? 靴が履きにくい? お手伝いいたしますともー」

 俺はすずみが靴を履くのを手伝ってやり、玄関のドアを開き、彼女を外へと追い出す事に成功した。

「あの……、幸太郎さん? 」

 さすがに不審に思ったらしいすずみが、俺へ疑う様な視線を向けたが、もう遅い。

 俺は作り笑いを浮かべながら静かにドアを閉めると、かちゃりと鍵を閉めるや否や、2階の自室へと猛然とダッシュした。

 時間との勝負だ。俺は一足飛びに階段を駆け上ると、勢いよく自室のドアを開いた。

「幸太郎さんっ! 」

 そこには、半泣きで、怒り心頭な様子のすずみが仁王立ちしていた。犬耳の様な癖毛が怒りの大きさを表す様に逆立っている。前々からよく動く癖毛だったが、一体どういう原理なのかとかそういうのは一旦置いておこう。

 くそっ。こんな馬鹿な事があってたまるか。

 完璧なハズの俺の計画がっ。

 だが、認めようじゃないか。俺の完敗だ。

 この現実と向き合おうじゃないか。

 というか、すずみは一体、本当に、どんな身体能力をしているんだ?

「おっ、おおお、落ち着けよ。ちょっとしたユーモアじゃないか」

 俺はとりあえず、怒髪天を突く勢いのすずみをなだめようとした。

だが、すずみはもう、止められそうもない。

 まるで怒り狂った猛犬の様な唸り声をあげながら、すずみはじりじりと迫って来る。

 俺は、ピクリともできなかった。逃げようとする素振りを見せれば、一瞬ですずみが飛び掛かって来るのは明らかだ。

「なっ、なっ、落ち着けって。俺が悪かったってっ」

 身の危険を感じ取った俺は、平謝りに謝った。実際、俺が悪いのだから、他にやれる事など何もない。

だが、その程度で、すずみの怒りが収まるはずも無かった。

「幸太郎さんのっ、ばかぁっ! 」

 そう叫ぶや否や、すずみは猛烈な勢いで俺に向かって突進し、身体をかばおうと咄嗟に前に出した俺の左手に、がぶっと思い切り噛みついた。

「いっでぇっ!!! 」

 俺は心の底から悲鳴をあげた。


 包丁がまな板を叩く、不規則で不器用そうな音が響いている。

 我が家の1階、ダイニングキッチン。俺は、ダイニングテーブルにセットされた椅子の1つに腰かけ、対面式のキッチンで食材を切り分けているすずみの姿を眺めていた。

 セーラー服にエプロンという姿で不器用な包丁捌きを見せているすずみは、未だに不機嫌そうだ。俺の仕打ちを、相当腹に据えかねたらしい。

 すずみに噛まれた左手が、じんじんと痛みを訴えかけてくる。かなり強く噛まれたらしく、噛み跡がしっかりと残っていた。まぁ、すずみには随分酷い事をやろうとしたのだから、当然の報いって奴なのかもしれない。

 しかし、俺の言い分を言わせてもらえば、勝手に押しかけて来たのはすずみの方だ。俺から頼んだ訳じゃ無いし、正直言って、厄介事の予感しかなかったんだ。

「イタっ」

 すずみの小さな悲鳴が聞こえた。どうやら包丁で指を切ったらしい。すずみは悔しそうな顔で、切ってしまった指を咥えた。

「おい、大丈夫なのか」

「幸太郎さんは座っていてください! 」

 俺は心配して腰を浮かせたが、すずみに睨まれたのでそれ以上動けなかった。また怒らせでもしたらたまったものではない。

 すずみはと言うと、水道の蛇口をひねり、水で指を洗い流した。それから、清潔な布で水分をふき取り、ポケットから取り出した絆創膏を手早く巻いて傷口を保護する。こういう事態にはもう慣れっこらしい。

「ふんぬっ」

 それから、すずみはそう言って気合を入れると、調理を再開する。

 ふー、おっかないぜ。

 だが、このまま黙っているのも、何だか気まずい。俺はあれこれ考えて、迷った後、すずみに話しかけ続ける事にした。その方が、すずみの機嫌も直るんじゃないかと思ったからだ。

「なぁ、夕凪さん」

「すずみ」

 俺の呼びかけに、すずみはまな板に視線を落としたまま、顔を向けずに応じた。

「すずみって、呼んでください」

 唐突に名前で呼ぶ事を要求されて、俺は戸惑った。友達同士なら名前で呼び合っても何ら不自然ではないが、俺はすずみの事をほとんど知らない。果たして友達と呼べる関係なのだろうか?

 だが、俺は、もう、すずみを怒らせないと決めている。大人しく従う事にしておこう。

「ぇえっと……、すずみ? 」

「……。もう1度、呼んでください」

「おっ、おぅ。えっと、すずみ?」

 俺が若干ビビりながらすずみの名前を呼ぶと、彼女は少し機嫌を直した様子だった。

「はい、何ですかー? 」

「その……、それは、何を作っているんだ? 」

「お昼ごはんですよー。何ができるかは、できるまでのお楽しみです」

「そ、そうなのか。できるまで秘密なのか」

 何が出来上がるのか非常に気になるところだったが、まぁ、少なくとも、味には期待が持てる。包丁さばきは相当不器用だが、昨日の筑前煮もそうやって作っただろうに、絶品だった。俺は大人しく待つ事にする。

 しかし、冷静になってみると、これは、なかなか嬉しい状況じゃないか?

 出だしについて考慮しなければ、ではあるが。

 女の子がやって来て、昼ご飯を作ってくれている。しかも、セーラー服の上にエプロンという、そうそうお目にかかれない格好だ。なんか、こう、ときめいちゃうじゃないか。

 自分の顔が無様ににやけている様な気がして、俺は自分の考えを振り払う様に頭を左右に振った。ええい、しりぞけ、煩悩よ。

 何かしていないと、余計な事まで考えてしまいそうだ。

 手近なところに漫画でもあれば良かったんだが、ここから本棚は遠い。椅子から立ち上がろうとするとすずみから睨まれるし、取りに行く事はできない。テレビもあるが、残念ながらリモコンが手元に無い。

 必然的に、やれる事と言えば、すずみに話しかけるだけ、という事になる。

 だが、話題には事欠かない。すずみに確認しなければならない事は、いろいろとある。

「なぁ、すずみ。すずみが人間になったのって、いつくらいなんだ? 」

「そうですねぇ。1カ月くらい前でしょうか」

 すずみは、切り分けた具材を鍋に入れ、水を注ぎこみながら答える。

「すずみ、あの日はちょっと歩き疲れて、お家でお昼寝していたんです。そしたら、急に目の前に光が現れて……、光の中に人影が見えました。私はびっくりして吠えたんですけど、その光の中の人は、優しそうな印象で、私に手を指し伸ばしてくれて……、それで、人間にしてあげようと言いました。それで、私、気づいたら人間になっていたんです」

「ほー、そうか、そうか」

 俺は適当に相槌を打った。

 すずみは相変わらず本気でそう信じている様子だったが、普通に考えてあり得ない。この件に関しては、俺はやはり、信じるつもりにはなれない。

 しかし、今の会話で分かった事がある。すずみにはちゃんと住む家があるという事だ。

「それはそうと、すずみ、家はどの辺なんだ?誰かと住んでるのか?」

 すずみは、鍋をコンロにかけ、調理に使った道具の片づけに手を付けながら答える。

「すずみのお家は、幸太郎さんが通っていた中学校の近くです。今は、すずみが1人だけで住んでいます」

「何だ? その、すずみが犬だった頃って、婆さんがいなかったか?」

「亡くなりました。……2年ほど前になりますね」

 すずみの言葉は淡々としていて、表情も仕草も落ち着いていた。

 俺は、すずみが犬から人間になった事など、信じてはいない。しかし、落ち着き払ったすずみの声音からは、それが事実であり、実際に起こった事であるという確かな重みが感じられた。

俺は、何だか、すずみの言葉を信じていない事が、無性に申し訳ない様な気分になった。

「その……、悪い事、聞いたみたいだな。ごめん」

「いいえ。もう、随分前の事ですし。すずみ、こう見えて賢いので、いつかそうなるものなんだって、ちゃんと、分かっていましたから」

 そう言うとすずみは洗い物を終え、タオルで手を拭いた。

「えっと、って事は、すずみ、この2年くらい、ずっと1人で暮らしていたのか?」

「はい。1人で生きていくのは初めてでしたけど、案外どうにかなるものですよ。雨風をしのげるお家はありましたし、食べ物も、まぁ、何とかなりました。ごはんをくれる人も何人かいましたし。いい事ももちろんあったんですよ? あっちこっち歩き回る事ができたので、行きたかった場所や、知らなかった場所も、たくさん見る事ができました。ですから、その……、そんなに大変な事は、無かったです」

 すずみは言い方をごまかしたが、つまるところ、飼い主だった婆さんが亡くなってからつい最近まで、すずみは野良犬として暮らしていたという事だ。

 俺は、てっきり、すずみは、あの黒ラブは、ずっと、最後まで何不自由なく幸せな一生を送るのだとばかり思っていた。何せ、すずみは血統書付きの名犬で、いろいろな人から感謝され、愛されている様に見えたのだ。

住む場所には困らなかったとすずみは言っているが、食べ物には困ったはずだ。犬の身では買い物もできなかっただろう。くれる人がいたとは言っているが、毎日腹いっぱい食える訳では無かったはずだ。もしかしたら、ゴミ漁りとかもやったのかもしれない。

 すずみは、そんな状態で、俺の事を探し回りながら暮らしていたらしい。これも言い方をごまかしていたが、あっちこっち歩き回ったというのは、出会った時のすずみの様子から考えて、そういう事だろうと推測は付く。

 そこで俺は、ふと、ある事に思い至った。

「って事は、もしかして、俺を探していたのって、面倒見て欲しかったとかか? 」

「ちっ、違いますよ! すずみ、野良でもちゃんとやっていました! 」

 すずみは心外そうだ。

「じゃぁ、どうして俺なんかを探していたんだ? 」

「それは……、秘密です! 」

 俺の問いかけに機嫌を損ねてしまったらしく、すずみはそっぽを向いて顔を隠した。

 何か間違った事を聞いてしまったのだろうか。俺は考えてみたが、何がすずみの機嫌を損ねたのかさっぱり分からなかった。

 そうこうしている内に、鍋が煮立ったようだった。

「すずみ、鍋、煮えてるぞ」

「あっ、そうでした! 」

 俺に言われて初めて気づいた様子で、すずみは慌てた様子で鍋の蓋を取った。それから味噌の入った容器を手に取る。

「確か、お婆ちゃんはこのくらい入れていたハズ」

 そう呟きながら、すずみは難しい顔をしながら味噌をお玉ですくい上げ、鍋の中に溶かし込んだ。途端に、味噌汁のいい香りが部屋の中に漂い始める。できた味噌汁を取り皿に少し移して味見をしたすずみは、満足そうに頷いた。

「もうすぐできますから、もうちょっと待っていてくださいね」

「おう」

 すずみに返事をしながら、俺は甲斐甲斐しく働く彼女を、俺はぼんやりと眺める。

 つくづく、不思議な光景だと思う。

 そこにいるのは、自称、犬から人間になったという少女だ。非現実的な話だし、俺の妄想が生み出した幻覚だと言われれば、信じたい。だが、そこに間違いなく、すずみは存在している。

 彼女の言い分を信じる、信じないはともかく、そこにすずみがいるという現実は受け入れなければならないという事だ。すずみが、今のところ、無理やりにでも俺と関りを持とうとしている事とも、だ。

 拒絶しようとしても、彼女はそれを許してくれない。

 俺は、嬉しい様な、困った様な、そんな、複雑な気持ちになった。

 すずみはと言うと、今度はフライパンを取り出していた。フライパンに軽く油を敷き、コンロの火をつけ、ちょうどいい感じ暖めたところで、輪切りにしてさらに半分に切った玉ねぎが投入される。玉ねぎに火が通るとすずみはそれを一旦取り出して皿に盛り付け、再び火にかけたフライパンに、2ミリくらいの厚さにスライスされた豚ロース肉を投入した。じゅわぁっ、という、食欲をそそる音と、肉の焼かれる香ばしい匂いが広がり、俺は空腹を自覚せざるを得なかった。

 豚肉を一度引っ繰り返し、両面に軽く焦げ目ができるまで十分火を通すと、すずみは、予め用意していたタレをフライパンに回し入れた。醤油と、みりんと、すりおろした生姜がたっぷり入ったタレだ。なるほど、これは生姜焼きか。

 豚肉の香ばしい脂の香りに、焦げた醤油の香りが重なり、俺は確信した。これがまずいはずが無い、と。

 すずみが言った様に、料理はすぐに完成した。


 食卓の上に、ご馳走が並んだ。

 そう、これは、誰が何と言おうと、ご馳走だ。

 大根とキャベツ、ネギの入った味噌汁。炒めた玉ねぎが付け合わせの生姜焼き。そして、レトルトをチンした白いご飯を、茶碗に盛ったもの。

 我が家には常備されている食材など存在しないから、これだけの物が並んだのは全てすずみのおかげだ。それだけで、ご馳走と呼ぶのに値する。

「えっと……、これ、食べていいんだよな? 」

 言わずもがなの事を、対面に座ったすずみに訪ねたのは、食卓に並んだ料理が1セット分しか無かったからだった。確か、食器には余裕があったはずなのだが。

「はい。どうぞ、召し上がってください」

 すずみはにこにこしながらそう言った。

 そうか、そうか。

 遠慮しなくてもいいんだな?

「いただきます」

 正直、空腹でたまらなかった俺は、そう言って合掌するや否や、箸を手に取った。

 まずは、味噌汁を一口すする。俺の好みからすればやはりかなり薄味だったが、出汁の風味と、キャベツの甘みが効いていて、ほっとする味だ。薄く扇形にされた大根には適度に出汁の味が染みており、白米を一口、口に含むと、それだけで何杯でもご飯が食べられる様な心地がした。

 さて、次はメインだ。俺ははやる気持ちを抑えながら、生姜焼きに箸を向けた。

 とかく、肉と言うのは火を通し過ぎると固くなるものだったが、この生姜焼きは焼き加減が調度よく、柔らかかった。柔らかいという事は肉汁がしっかり残っているという事で、噛みしめると香ばしい脂がじゅわわっと口の中に広がる。メイラード反応って奴だ、間違いない。同時に、醤油の香ばしさ、みりんの甘さ、生姜の風味が混然一体となって広がり、俺はたまらず、茶碗を手に取ってご飯を口の中にかきこんだ。

 止まらない。ああ、箸が止まらない!

 行儀が悪い? それがどうしたっていうんだ。

 こんなにも美味い生姜焼きを食ったのは初めてなんだ。

 俺は、感動のあまり目頭が熱くなるような思いだった。

 そうして、俺が食卓に並んだ料理を、半分ほど平らげた時だった。

 俺は、すずみが、何とも羨ましそうな顔でこちらを見ている事に気付く。

 何となくデジャビューを感じる光景だ。

「えっと……、食べるか? 」

 俺は、昨日と同じ様に、すずみに提案した。

 すると、すずみは、うんともすんとも言わなかった。ただ、静かに立ち上がると、とととっ、と俺の隣まで小走りで寄ってきて、床に膝をつく。

 そして、昨日と同じ様に、

「あーん」

 俺に、食べさせてくれとねだる様に、大きく口を開いたのだった。

 その瞬間、俺の全身に、再び電流が走った。


 くそっ、なんてこった。

 まただ。

 また、何だよ。

 俺は昨日と同じ様に、それからの数分間の記憶を失っていた。

 美少女にあーんして食べさせるという甘々な瞬間を、そうだ。全く覚えていないんだ。

 気づいた時には、食卓の上にはもう何も並んではいなかった。かちゃかちゃと音がする方に視線を向けると、そこには後片付けのために皿を洗っているすずみの姿があった。

 何だか上機嫌だ。表情がさっきまでより明るくなり、微笑んでいる様に見える。

 俺は何だか狐に化かされた様な気分だった。ご馳走を食べたと思ったら、実は葉っぱと石ころでしたっていう、昔話によくある奴だ。だが、俺の腹は確かに膨れているのだから、夢では無い事は確かなんだ。

 だからこそ、なおさら、すずみにあーんしている瞬間を覚えていないのが悔しい。

 俺が内心で地団駄を踏んでいる間に、すずみは手早く片づけを終えてしまった。タオルで手を拭き、エプロンを取って折りたたむと、丁寧にテーブルの上に置いた。

 それから、すずみは俺の向かい側に腰かけると、両肘を机につき、組んだ手の平の上に自身の顎を乗せて、満足そうな表情を俺へと向けた。

 そんなすずみに、ふと疑問を抱いた俺は問いかける。

「なぁ、すずみ」

「何ですかー? 」

「すずみは、いつまで家にいるつもりなんだ? 」

 俺の問いかけに、すずみは不思議そうな顔をした。

「いつまでって? 」

「いや、昼飯を作りに来ただけなのかって事。他に、何か予定は無いのか? 」

「ああ、なるほど! 」

 すずみはぽんっ、と手の平を打つと、左手の人差し指を顎に当てながら考え込む。

 つい1ヶ月前まで犬だったという割には、随分と人間臭い仕草だな。

 俺はすずみの言い分に対する疑惑を深めたが、しかし、それは今となっては些細な問題だ。

「すみません、何も考えていませんでした」

 しばらくして、すずみは申し訳なさそうにそう言った。

 そんな様な気はしていたが、それでは困る。

 俺は今日、一日中ゲームをする計画だったのだが、さすがにすずみの事を無視して没頭しようという気分ではない。かといって、このまますずみと睨めっこしている訳にはいかない。そんな気まずい空間に、俺の精神は耐えられる自信が無い。

「なぁ、何か無いのか?すずみからして、あれがやりたい、これがやりたい、とかさ。何かあれば、俺も付き合うよ」

「本当ですかっ! 」

 俺は何気なく提案したつもりだったが、すずみは勢いよく食いついた。がばっ、と立ち上がり、きらきらと瞳を輝かせている。

「おっ、おぅ。美味い飯の礼もしなきゃだしな」

 俺はその勢いにたじろぎながらも、どうにか笑顔を見せた。

 あんまりすずみの食いつきが良かったので、面倒な予感を覚え、俺はその提案をした事を既に後悔し始めていたが、今更、撤回すると言う訳にもいかない。

 すずみはと言うと、何やら必死になって考え込んでいる。あーでもない、こーでもないという感じで、両手をあたふたとさせている。せわしない奴だ。

 やがて、すずみは何がしたいかを決めたらしい。ぱしん、と両手の平を打つと、テーブルの上に勢いよく身を乗り出して来た。

「キャッチボール! キャッチボールがしたいです! 」


 俺は、自分から言い出した手前、すずみの提案を断れなかった。

 キャッチボール。キャッチボールか。

 それをやるのは、いつ以来になるんだろうな。

 俺は久しくキャッチボールをやっていないが、我が家には道具だけはきちんと残っている。グローブが2つと、ボールが1つ。十分だ。

 グローブの1つは、俺が少年野球をやっていた時に使っていたものだ。もうとっくに俺の手に合わなくなっていたが、これはすずみに使わせればいいだろう。俺は、もう1つの、使われる事の無いまましまわれっぱなしになっていた方を使えばいい。これも今の俺には少し小さいし革が固いままだが、まぁ、使えない事もない。

 ボールの方だが、生憎と野球用のボールでは無い。小さい子供用の、柔らかくてフニフニしたボールだ。投げても大して飛ばない軽いボールだが、ちょっと遊ぶ分には十分だろう。

 しかし、こんな形で、この新しいグローブを使う事になるとは思わなかった。

 とにかく、一通りの道具を取りそろえた俺は、ウキウキとしているすずみを伴って、近くの公園へと向かった。我が家は庭付きの持ち家だったが、さすがにキャッチボールをするには狭い。

 向かったのは、近所にある小さな公園だった。生垣で囲まれたちょっとした広場に、東屋、水飲み場、滑り台とブランコ、砂場があるだけだが、キャッチボールをするのには充分な広さがある。俺もチビだった頃は、親父と何度もここでキャッチボールをしたものだ。

 土曜の昼下がり。公園は小さな子連れの親子で賑わっていても良さそうなものだったが、幸いな事に空いていた。それもそのはず、数年前にもっと大きくて設備の整った公園が造成され、ご近所さん含めて大体の人がそっちを利用する様になっているからだ。

 おかげで、こちらの小さな公園は穴場的なスポットになっている。人混みが苦手な俺にとっては何ともありがたい話だ。

 狙い通り、貸し切り状態だ。これなら、ヘタなキャッチボールをやって、ボールをあさっての方向へ投げてしまっても周りに迷惑はかからない。通りに面しているので車にはちょっと気を付けなければいけないが、まぁ、大丈夫だろう。

「さて、ご要望通り、キャッチボールをしようじゃないか」

「はい! 幸太郎さん! 」

 さっきからずっとはしゃぎっぱなしのすずみは、鼻息荒く、両手で握り拳を作っている。

「まずは、グローブをつけようか。つけ方、分かるか? 」

「分かりません! 」

 オーケー。そうだろうと思っていたけど。しかし、無駄に元気のいい返事だ。

 俺はすずみにグローブを渡すと、まず、自分の手に新品のグローブをはめて見せた。

 そんなに悩む様な事じゃないが、指の入れ方とか、分かりにくいところもある。かくいう俺自身も、野球を始めて1月ほどは1つの穴に指を二本入れていたものだ。ま、とにかくやってみるのが一番早いだろう。

 すずみは自身に手渡されたグローブと、俺の手にはめられたグローブを、しばらくの間、交互に見ていた。

「幸太郎さん! つけてください! 」

 やがて、理解する事を放棄したのか、すずみはグローブを俺の方に差し出す。

 仕方ない。まぁ、最初はみんな、こんなものだろう。俺だって、覚えちゃいないが、親父にこうやって教えてもらったんだろうしな。

 俺がグローブをはめてやると、すずみは何だかいたく感動した様子で、グローブをした自身の手を眺めた。思った通り、俺の小学校時代のグローブはすずみの手に合った様だ。見た感じ、指の位置も正しそうだ。

 きつくないか、緩すぎないか確認して、大丈夫です、との返答をもらった俺は、ボールを握りながら、すずみから数メートル距離を取った。

 さて、まずはグローブの使い方から慣れないとな。最初は、普通に投げるんじゃなく、軽くトスして、グローブの使い方に慣れてもらおう。

 そう考えながら、俺はすずみがいるはずの方向を振り返った。

「わっ! 幸太郎さん、急に止まらないでくださいっ! 」

「おぅわっ? 」

 そこには、すぐ目の前にすずみの顔があった。もう少しで衝突するところだった。

 どうやら、ボールを投げるために距離を取ろうとした俺の後を、そのままついて来ていたらしい。

 ああ、そうか。こいつは少年野球時代のチームメイトではないんだ。キャッチボールをする時にはある程度距離を取るっていう、俺達にとっては自然な行動が分からなかったのだろう。

 まぁ、俺の説明不足という事だ。

「あのな、すずみ。ちょっと距離が無いとキャッチボールにならないだろ。だから、すずみはさっきの場所に戻ってくれないか? 」

「……? あっ、はいっ! 分かりました」

 すずみはちょっと首をかしげたが、とりあえず元の場所へと戻っていった。

 俺は、何となく不安を抱いたが、幸いボールは子供用のふにゃふにゃして柔らかい奴だ。まかり間違っても怪我をする様な事は無いはずだ。

 それから、すずみに身振りを交えながらグローブの構え方を教え、何とか形だけでもキャッチボールの体裁が整った。

 一発目でうまくボールをキャッチできるとは思えなかったが、誰だってそんなものだろう。やっている内に慣れるさ。

「よーし。じゃぁ、投げるぞー」

 合図のために声を出した俺は、すずみが構えたグローブをめがけてボールをトスした。

 ボールは緩やかな放物線を描き、そのまますずみのグローブにすっぽりと収まる。

 そのはずだった。

 すずみは唐突に身体を低くすると、勢いよくボールへ向かって顔から飛びついていった。

 ボールはすずみの口元に当たり、当然、跳ね返されて、明後日の方向へと転がっていく。

「わーっ! まって、まってぇーっ」

 そのボールを、すずみは猛然と追いかけて行った。

 俺は、すずみの予想外の行動に唖然とする他無い。

 何だ? 今、すずみは、ボールを口でキャッチしに行ったのか?

 グローブを使え、グローブを。せっかく用意したんだぞ。

 まったく、犬じゃあるまいし。

 そう思ったところで、俺は、すずみが自称「元わんこ」であるという事を思い出した。

 まさかな。

 演技に違いない。俺は騙されないぞ。

 俺が内心でそう決意する一方で、すずみはと言うと、追いかけて行ったボールを確保したらしく、こちらの方へと戻ってきている。

 だが、何だか悲しそうな顔で、足取りもとぼとぼとしている。

「……どうしたんだよ? 」

「ふぇぇっ。お口が小さくって、ボールを上手く取れないんですっ」

 怪訝に思って尋ねると、すずみはとても悲しそうにそう言った。

 演技とか何でもなく、本気で言っているらしい。

「ほー、そうか、そうか」

 俺は適当に相槌を打ちながら、すずみからボールを受け取った。

 ふぅむ。これは困った。

 キャッチボールに関する俺の説明は、確かに不十分だったかもしれない。せいぜいグローブのつけ方を教えたくらいだ。

 後は、実際にやって見ながら、徐々にキャッチボールの事を教えて行こうと思っていたのだが。少なくとも俺はそんな風にキャッチボールのやり方を教えられた。

 俺の場合は、それで済んだのだ。

 すずみの場合は、どうやらこのやり方ではだめらしい。何か、こう、根本的なところでズレている。

 どうやら、キャッチボールという遊びについての定義が、そもそも異なっているらしい。

 まず、一般的な知識を有している者であれば、そもそもキャッチボールがお互いにボールを投げ合うものだと知っているはずだ。そして、ボールを掴むのにグローブか、それでなくても手を使おうとするだろう。

ボールを口で受け止めようと考える事は、まずあり得ない。

 だが、それが犬であれば別だ。犬のキャッチボールと言えば、ほーれ、取ってこーいと、ボールを放ってやり、わんこがボールをキャッチして戻って来るのが定番だ。当然、わんこには人間ほど器用な手は存在しないので、ボールは口に咥えるものだ。

 要は、人間が考えるキャッチボールと、わんこが考えるキャッチボールとは、違うものという事だ。

 だから、すずみには、俺からグローブのつけ方を教わったのにも関わらず、グローブを構えていたのにも関わらず、それを使ってボールを取るという発想自体が存在しないのだ。しかし、人間の姿である以上、犬と同じ様に口でボールをキャッチしようとするのは至難の技だ。本人も言っていたが、骨格の構造的に、人間の口は犬のようには開かない。

 俺はもちろん、すずみが犬だったなんぞと言う話を信じちゃいない。そんなものがあり得るわけが無いだろう。

 そんな、バカバカしい。

 俺は信じないからな。

 だから、この際考慮するべき問題は一つだ。

 このままではキャッチボールにならない。それを何とかしなければ。

 いや、別に、犬相手にする様に、俺がすずみにほーれ、取ってこーいとボールを放ってやればいいのかもしれないが……。

 何か、それって変に思われそうじゃん?

 確かに、この小さな公園で遊ぶメリットは、人が少ないという事だった。だが、近くには住宅がたくさんあるし、人通りも少しはある。公園に面している通りは、ぼちぼち車が通る。

 もし、俺がすずみにほーれ、取ってこーいとかしていたら、何か変な目で見られそうじゃん? 気にしなければそれまでだが、俺はご近所さんの視線が気になるんだ。

 少なくとも、すずみには口ではなく、グローブでボールを取らせるようにしなければ。

「なぁ、すずみ。ちょっと、いいか? 」

 俺が話しかけると、すずみはちょっと嬉しそうだった。

「何ですか、何ですか? 幸太郎さん! 」

 何だかこっちまで嬉しくなってくるような笑顔だ。

 おっと、今は浮かれている場合じゃぁ無い。

「あのな、すずみ。ボールを取る時は、グローブを使ってくれ。こんな風に」

 俺は右手から左手のグローブに何度かボールを放って見せた。

 すずみは、眉をひそめ、俺の行動を不思議そうに眺めている。

「どうしてですか? 」

「自分の身体がどうなってるか、ちょっと確認してみてくれ」

 俺の言葉に、すずみは怪訝そうに、自分の身体を見下ろし、右手を見て、左手を見る。

 視線をあげたすずみの表情は、やっぱり怪訝そうなままだった。

「見ましたけど、すずみがどうかしましたか? 」

「確認したか? なら、すずみ。すずみは今、人間の姿だっていうのが分かっただろ? 」

 すずみは、首を傾げた。

「はい。すずみは、神様に人間にしていただいて……」

「その話はいいから。とにかく、すずみ。お前は人間なんだ。人間は、キャッチボールをする時、ボールをグローブで取る。口で咥えたりはしない。いいね? 」

「はぁ、なるほど」

 イマイチはっきりしない表情だったが、すずみは一応、俺の言わんとしている事を理解した様子だった。

 やっぱり何か不安だが、これ以上口で説明しても同じな気がする。やっぱり実践して見せるのが一番手っ取り早いだろう。

「なら、よし。それじゃ、もっかい、ボールを投げるからな。ちゃんとグローブで取るんだぞ? すずみはそこにいてくれ」

「分かりました! 」

 まったく、返事だけは元気がいい。

 数歩、距離を取った俺は、再びボールを投げるためにすずみを振り返った。

 よしよし、ちゃんと、すずみはグローブを構えている。表情も引き締まって、気合十分、と言ったところだろうか。

「いくぞー」

 俺はそう合図すると、すずみの構えたグローブめがけてボールをトスしてやった。

 すずみは、俺の言った事をちゃんと守った。本能が邪魔をしたのか、一瞬ボールを口で咥えようとしたのか姿勢が下がりかけたが、何とか思いとどまった様子だ。

 だが、グローブの位置が少しだけずれた。おかげで、グローブの中心に収まるはずだったボールはグローブに弾かれ、ころころと転がって行ってしまう。

「ぁあっ、まってぇっ」

 すずみは、大慌てでボールを追いかけて行った。

 これだけだったら、大きな進歩だ。俺はただ、すずみの進歩に感心していればいい。

 だが、すずみと、転がっていくボールの行き先を目で追った俺は、戦慄した。

 胸の辺りに急にでっかい氷の塊でもできた様な感覚だった。全身の筋肉が強張り、息が詰まる思いだった。

 ボールは、公園の外へと転がって行った。公園は生垣で囲まれているが、ボールは狙いすましたかのようにその生垣の切れ目へと向かっていく。すずみは、わき目もふらずにそれを追いかけており、周りの事が何も見えていない。

 その先は、そう。

 道路だ。

 間の悪い事に、近所に宅配中だったらしいバンが一台、向かって来ている。

「ばかっ! 前を見ろっ、すずみ! 」

 俺は叫ぶや否や、全力でダッシュを開始した。

 すずみはと言うと、道路に飛び出たボールをようやく捕まえ、どこか得意げな顔で立ち上がったところだった。

 道路のど真ん中だ。

 バンの運転手が、急ブレーキを踏んだ。

 急ブレーキのけたたましい音で、すずみはようやく車が近づいている事に気付いた様だった。どこかのんびりとした動作で車の方へ顔を向ける。

 それで、咄嗟にすずみが車をよけてくれればよかったのだが、そうはならなかった。

 目の前に突進してくる鋼鉄の塊の重圧に、すずみは身体を強張らせてしまう。

 ダメだ。バンは止まりきれない。

 俺は、すずみに体当たりする勢いで地面を蹴った。

 自分も車にひかれるかもしれないとか、大怪我をするかもしれないとか、そんな事を考えている場合じゃなかった。

 やらなきゃ、すずみがひかれちまう。

 俺はすずみの肩を右手で掴むと、地面を力いっぱい蹴った勢いのまま、彼女を引き倒した。それに加えて、倒れる間に、自分は身体をひねって左肩を下の方にし、すずみの下に自身の身体が来る様にする。

 やれるだけはやった。後は、祈るだけだ。

 俺は、そのまま、肩から地面に落ちた。その勢いのまま、2mくらいはアスファルトの上を滑っていき、ゴツンと道路の縁石にぶつかって止まった。

 かなり、痛い。

 だが、確認しなければならない。俺は痛みで思わず閉じていた目を開いた。

 ぱっと見では、考え得る限りで、最良の結果だった。

 宅配のバンは、ちょうど、すずみが立ち止まっていた場所を1mほど通過したところで停車していた。やはり急ブレーキは間に合わなかった様だが、ぶつかった感触は無かった。

 肝心のすずみはと言うと、ちゃんと俺の腕の中にいる。

 相当びっくりした様子で、双眸を見開き、カチコチに表情をこわばらせていた。だが、見た感じ、怪我は無さそうだ。本人に確認しないと詳しい事は分からないが、とにかく、俺は意図した通り、彼女を庇う事ができた様だった。

「すずみ、平気か? 」

 そう尋ねると、すずみは何度も頷いて肯定した。

 俺は、ほっとして嘆息するのと同時に、酷く後悔をした。

 ああ、やっぱり、キャッチボール何てするんじゃなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ