ツンデレ天馬が人間になったら
『そこの迷子、こんな森の深くまでよく来れたものだな』
森の奥深く。帰る方角もわからず、大樹の根元で泣いていた幼いサラに声をかけてきた者は人ではなかった。
それは雪のように白い天馬。身体は真っ白で、立派な鬣だけは木漏れ日から差し込む光を反射してきらきらと輝く黄金。普通の馬と違うのはその身体に一対の翼を持っているところだ。
『儂の姿がそんなにめずらしいか?』
あまりに驚いたので、声も出せないでいるサラに、低く透きとおる声が響く。普通の人間の声とは違い、その声は耳からではなく聞いている者の身体の中に直接響く。
「ひっ……」
木を背にしていたため、逃げ出すこともできないサラはガタガタと震えながら、ただ天馬を見つめる。恐ろしい顔をしていなくても、子供にとって知らないものは怖いものだ。
『安心しろ、儂は草食動物だ。ほれ……、ふん。うまい』
天馬はサラを安心させるために、そのへんの草をむしゃむしゃと食べる。
『さあ、わかったか? この森の守護獣である儂を恐れるなど、無礼だぞ』
「ごめんなさい」
『わかればよい。さぁ、人里の近くまで送ってやろう。実はお前の父親、ロイに頼まれたのだ』
そう言って天馬は足を曲げ、腹が完全に地面につく高さまでしゃがむと、幼いサラを背中へと誘う。
父の名前を知っていたことで、サラは少しだけ安心する。
「乗せてくれるの?」
『おぬしを探しに、ほかの人間たちがやってきたら迷惑だ。……気が変わらんうちに早く乗るがいい』
「うん!」
子供とは案外単純なものである。天馬に対する恐怖心が全てなくなったわけではないが、家に帰りたいという気持ちが勝る。
サラは、地面に腹をつけてもまだかなりの高さがある天馬の背中を、鬣をロープ代わりにしてよじ登る。
『うぎゃぁぁぁ――――っ! 引っ張るでない。そこは儂の急所だ! ……だから子供は好かぬ』
「わぁ、ごめんなさい」
『よいか? 首に手を回してつかまっておれ! 間違っても儂の鬣を引っ張ってはならん』
同意の代わりにサラがその太い首に手を回し、しがみついたことを確認した天馬は、翼を使いながら森の低い位置を駆ける。
獣道しかない深い森をものすごい速さで駆けるのだ。天馬の頭には時々小枝が引っかかり、バサバサと音を立てて折れる。彼の上に乗っているサラにも、何かが当たってしまうのではないかという恐怖で、彼女はより強い力で怪物にしがみついた。
『着いたぞ』
「え?」
森の奥深く、といっても所詮は子供の足で歩いた距離に過ぎない。天馬が駆ければ、あっという間にサラの見知った場所までたどり着く。
「お馬さん、ありがとう」
『無礼な! 私はシェアトとい名がある』
「そうなんだ、私はサラ。じゃあね! ありがとうシェアト」
サラは知っている場所にたどり着いたことが嬉しくて、彼の背中から飛び降りるとすぐに手を振りながら駆け出す。
『まてまてまてぇ――――!!』
「どうしたの?」
『おぬし、世話になったらどうするべきか、ロイから教わらなかったのか?』
まったく、だから子供は嫌いだとシェアトは悪態をつく。一見不機嫌そうに見えるが、そのふさふさとした長い尾はパタパタと揺れていた。
「もしかして、タダじゃないの……?」
『儂は果物が好物である。覚えておくがいい……とくに、この森ではとれない南方の果物なら、なおよし!』
「わかった! でも、あなたに会うにはどうしたらいいの?」
『簡単なことよ。森に入ったら、儂の名を呼べばいい。心をこめて呼べば、儂には聞こえる』
「うん。じゃあね、また明日!」
サラはもう一度大きく手を振り、父や母の待つ家へ帰った。
これが、樵の娘・サラと天馬シェアトと出会いだ。
家に帰ったサラは、両親に天馬との出会いを興奮しながら語った。
サラはまったく知らなかったことだが、シェアトと彼女の父親であるロイは、ロイが幼い頃からの友人だった。
遊びに出かけたまま、なかなか帰ってこない娘を心配したロイがシェアトに森の捜索を依頼したというのが天馬との出会いの真実だった。
「それでね! シェアトはお礼に果物をもってこいって!」
「そうか、サラ……いいか?」
「どうしたの? お父さん」
「父さんも昔、シェアトに助けてもらったことがあるんだ。だけどな、シェアトのことは友達にも村の大人にも絶対に話してはいけないよ?」
ゆっくりと諭すように、父は娘に言葉を紡ぐ。父のその表情から、この話はきちんと聞かなければならない真面目な話なのだとサラは理解した。
「いいかい? 天馬がもし人間に見つかれば、捕まって殺されたり、見世物小屋に連れていかれるかもしれないんだ。そうなったら嫌だろ?」「うん……」
「シェアトのことは、私たちだけの秘密だ」
「わかった! サラは絶対に誰にも話さないよ」
サラが強い意志でそう言えば、ロイは娘の決意を歓迎する気持ちを態度で示すように、ニカっと笑う。
「さぁ、夕食にしましょう」
母が大きな鍋を机に置いて、二人に食事の準備ができたことを告げる。シェアトのことを知っているのはサラたち家族三人だけ。それを少し残念に思うサラだが、素直な少女は父の言いつけをずっと守り続けるのだった。
***
翌日、母が用意した果物をバスケットに詰めて、サラは森の中に入る。できるだけ森の奥まで入り、周囲に誰もいないことを確認してから、心を込めて、彼の名前を呼んだ。
「シェアト、果物持ってきたよ!」
サラが天馬の気配を探して、耳を澄ますと森はいつもの静寂につつまれたまま、なんの変化もない。声が小さくて、聞こえなかったのだろうかと心配になった彼女は、もっと大きな声で彼の名を叫ぼうと息をたくさん吸い込む。
その瞬間、バキバキバキという明らかに枝の折れる騒がしい音がして、真っ白な天馬が姿を見せる。
「こんにちは。急いできたの? 枝や葉っぱがたくさんついているよ?」
シェアトは尻尾をパタパタと振りながら、大きな鼻からフンと鼻息を吹き出して彼女の問いに答える。
『急いでなどいないわ。食前の運動をちょっとな』
サラが小さい身体から手を伸ばして彼の鬣に触れようとすれば、シェアトはもう一度鼻息をフンっと鳴らしてから、幼い手が届く位置まで頭を下げる。
金の鬣に絡まる細い枝や葉を丁寧に取り払うと、シェアトはなんだかんだ言っても満足そうである。
『サラよ。その籠の中身をよこせ』
「はいはい、昨日はありがとうございました。お礼のオレンジとリンゴです」
サラは籠の中からオレンジの実をまるごと彼に差し出して、大きな口に近づけた。
『おぬし! 自分ではオレンジの皮など食べないくせに、儂には皮ごと食せともうすか!』
「え、でも……お馬さんは……」
『儂は馬ではない! 馬がしゃべるか、たわけもの』
フンフンと彼が鼻息を荒くすると、眉のあたりで切りそろえられたサラの前髪がなびいた。
「そうなの? じゃあ、むいてあげるね」
ナイフなしでオレンジの皮をむくのは、それなりに大変だった。サラは不器用な手つきで硬い皮をむいて、少し果汁がこぼれたまん丸のオレンジをもう一度天馬に差し出す。
『ふん、なかなか甘いな』
シェアトはそのオレンジをほぼ丸呑みにし、満足そうにふさふさの尻尾を振る。
『いつかはパイナップルかマンゴーでも食べてみたいものだな』
「ぱいなっぷる? まんごう?」
それは聞いたこともない果物の名前だった。サラが首を傾げるとシェアトは文句を言いながらも結局説明をしてくれる。
『ここよりもっと南、海を渡らないとたどり着けない異国でとれる果物だ。こんな田舎では手に入らないだろうよ』
「……ふーん。シュアトは森の外のこと、とっても詳しいんだね!」
『当然だろう。儂はもう何百年も生きておるのだし、夢の中ではどこへでもいける』
「夢?」
『そうだ。この身体は森とともにあるが、心は世界を旅して、世界を見て……ほかの守護獣たちとも話ができる』
「へぇ! じゃあ、寂しくないんだね」
「……いいや、見ることはできても花の香りは知らないし食べ物の味もわからない。最近では森が少なくなって守護獣の数も減っているから、話す相手も減ったな』
「死んでしまったの?」
『森がなければ、儂のような存在は生きられないからな。森とともに消滅したも者もいれば、人間になって最後に短い生を楽しんだ者もいる。まったく、酔狂な者もいたものだ。儂には理解できん』
シェアトの使う言葉は時々難しくて、幼いサラは全ての意味を理解することはできなかった。サラはそのことが少し寂しくて、彼に追いつこうと必死に本を読むようになった。
知りたいこと、わからないことがあるたびにサラは果物を持ってシェアトに会いにいく。
そうやって穏やかにゆっくりと、サラは大人になっていった。
***
サラがシェアトと出会い、様々なことに興味を持ったことが、結果的にはふたりの別れにつながった。
十六になったサラは、高等教育を受けるために村を離れることになったのだ。村から丸一日以上離れた街で、サラは遠縁の家で世話になりながら勉学に励んだ。
実際に会いに行くことはできないが、シェアトは遠い街に住むサラの夢に時々会いに来るようになっていた。
『街は楽しいか?』
「うん。でも、学校の先生も友達も……シェアトには及ばないよ。私にとって一番の先生は、やっぱりシェアトなの」
『そうか』
サラは大好きな天馬の首にぎゅっとしがみつく。夢の中で出会うときはどこかふわふわとしていて、つかんでいるのにつかんでいないような、無機質ではないが、ぬくもりも感じない。そんな感覚を切なく思う。
『これ、やめなさい』
「どうして? 夢なら痛くないでしょう」
『おぬしはもう、子供ではないのだから。……大人になったら、むやみに異性に触れないものだ』
「そうだね。気をつける」
出会ったばかりの頃から、サラの好奇心を満たしてくれるのはシェアトだけだった。小さな頃は博識である彼のことを純粋に慕っていただけだ。
(でも、今は違う……)
違うのだと気がついてしまったことが、大人になった証拠なのだろう。それが別れにつながるのならば、一生知らないままでもサラはかまわないというのに。知ってしまった気持ちを、なかったことにはできないのだ。
『さて、儂はもういく。おぬしも深く眠るといい』
「うん……また会いにきてね!」
注意されたばかりだというのに、サラは彼の鬣を撫でる。彼はサラの行動をたしなめることはなかったが、尻尾を揺らすこともない。
『サラ、いい夢を……』
それきり、シェアトはサラの夢には現れなくなった。
シェアトは何でも知っていて、サラの何倍も賢い天馬だ。サラが気づいた彼女の想いを、彼はとっくに知っていたのかもしれない。
寿命の違うふたりは、互いにその距離を間違えていた。シェアトが会いに来なくなった理由を、彼女はそう理解した。
***
シェアトと会えないまま一ヶ月が過ぎたある休日の早朝、下宿先の女将が、サラの眠りを覚まさせる。
「大変だよ! あんたの村が昨日から山火事だって! いま連絡が」
「え……山火事?」
その言葉は寝起きの冴えない頭を一気に覚醒させるほどの衝撃だった。村に住む両親が巻き込まれていたら、そしてシェアトが住む森が全て焼けてしまったら。恐ろしい想像が頭をよぎり、ガタガタと足が震える。
おぼつかない足でなんとか立ち上がり、彼女はすぐに村へ向かう準備をする。
「サラ! およしよ。あんたまで巻き込まれたらどうするんだい!? 行ってもなにもできやしないんだから」
「女将さん、でも……、でも、行かなきゃ。森には大切な、大切なものがあるんです!」
女将は結局サラに協力し、彼女に馬を貸してくれた。荷物を持ってすぐに村へ向かったサラだが、彼女が村にたどり着いたのは翌日の朝。その時、山火事はすでに鎮火していた――――シェアトの住む森の大半を焼いて。
「お父さん! お母さん!」
サラの両親は無事だった。ただ、父は生まれながらにして森の男だ。生まれ育った森の大部分が消失し、おそらくは仕事も失うであろうことに憔悴していた。
「お父さん、シェアトは……?」
「あ、あぁ……逃げろって言ったんだが、森を出たら、どうせ長くは生きられないと……」
言いながら、ロイの目には涙が浮かんでいる。父にとっても彼は友人だった。つきあいはサラよりもずっと長いのだ。
「シェアト……、シェアト!」
両親の制止を振り切って、サラは焼けた木の残骸しか残らない森に向かって駆け出す。
そこは彼女の知っていた、色鮮やかな色彩で満たされたかつての姿はもうない。灰と空の青、たった二色しかない世界だった。綺麗な空の青すら、焼け焦げた森の悲しさを強調する役目しか負っていないような、死んだ世界。
焦げ臭い臭いに包まれたその場所を、サラは必死で歩き、彼の名を呼ぶ。
「シェアト……」
心を込めて呼べば、必ず聞こえるのだと言っていたのに。天馬がいつものように頭に葉っぱをつけたまま現れることはなかった。
風向きの関係だろうか。少しだけ緑の残る一帯に身体を横たわらせた白い馬を見つけたのは、森の中を一時間以上歩いたときだった。
「シェアト!」
シェアトは地面に寝そべったまま、瞳をうっすら開けてサラを見つめる。白い身体も金の鬣もススで汚れ、呼吸には力が無い。
『なんだ? 帰ってきたのか……』
「どうして!? どうして……? どうして勝手に死んでしまうの?」
『儂は森の守護獣だぞ、森とともに消滅するのが理だろう』
「前に、人間になった仲間がいるって言ってたよね? 人間になれるなら、なればいいじゃない」
『四百年以上生きてきた……。たかが数十年、生きのびてどうする? なんの意義があるのだ? それに、儂にはもはや方法が…………ん? いや、方法がない』
「……今の言いかた、なに!?」
サラと彼は長い付き合いだ。シェアトの言いかたがおかしいことに気がついた彼女は、天馬の顔をじっと見つめる。
「ありがちな伝承だと『愛する乙女の口づけ』とか?」
単なるおとぎ話だと侮ってはいけない。おとぎ話は実際にあった話を後の世に伝えている場合があるのだ。
『……いや、違う』
「じゃあ、なに?」
『…………』
黙り込むのは彼女が正解を導き出した証拠だ。サラは身を低くして、シェアトの唇に自身の唇を重ねる。
するとシェアトの身体が光に包まれ、ゆらゆらと輪郭が変えられていく。
だんだんと光がおさまって浮かび上がるその姿は――――。
「う、うぎゃぁぁぁぁ――――っ!!」
「おぬし、開口一番にそれは無礼ではないか!? 繊細な儂の心が傷つく!」
そこにいたのは身長二メートル超、推定体重かるく百キロ超、屈強な戦士でも彼の前では赤子にしか見えないほどの肉体をもったワイルド系全裸美中年であった。――――あくまで中年である。
サラはとりあえず着ていた上着を差し出し、せめて大切な部分だけは隠してもらうことにした。
「質量保存の法則を知っているか?」
「……知ってるけど」
「馬の体重は知っているか?」
「五百キロぐらい?」
「ふむ、よく勉強しているな。見た目は百五十キロくらいに見えるが、実際には五百キロある。儂の取り扱いには十分注意せよ」
人間の姿になった瞬間から、弱りきっていたのが嘘のように元気よく立ち上がったシェアトの姿は「ギリギリ人類」に見えた。
「シェアトって、結構おじさんだったのね」
「……悪いか?」
「いや、お父さんたちになんて説明しようかなって。お婿さんが親と同世代って親にとってはショックでしょう?」
「う、うむ。それは儂がきちんと説明しよう」
シェアトは「婿」と呼ばれたことに顔を真っ赤にした。馬時代は表情から感情が読み取れず、もどかしい思いをしていたが、人間になったシェアトは素直な中年のようだ。そのことが、今のサラにはとても嬉しい。
「さあ、参ろうか!」
シェアトは軽々と愛おしい恋人を抱き上げる。
「うわぁ! シェアトの胸、金属みたいにかちかちだよ。前のほうがよかったな」
「仕方がないだろう、この肉体に五百キロの物質を圧縮して詰め込んだのだから」
「……ねぇ、それって本当に人間なの?」
「失礼な! 解剖せねばわからぬ程度には、人間だ」
サラは彼への評価を「ギリギリ人類」から「見た目だけはギリギリ人類」に変更した。
彼に抱き上げられて、焼けた木々の隙間から見上げる空はとても綺麗な青に見えた。
その後、家の床を何度か壊しつつ、なんとか婿入りを認めてもらったシェアトは、サラと一緒に村と森の復興に全力を尽くす。
彼にとっては一生のうちのたった一瞬でしかない人間としての数十年。
愛する者と一緒であるならば、その人生はきっと――――。
(終)