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倭王の軍  作者: 讃嘆若人
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プロローグ

 この国の歴史は、今から四千年近く前の天孫降臨に始まる、と信じられている。

 太陽の女神である天照大神の孫、瓊瓊杵(ににぎ)(のみこと)が九州の地に天下って建国したのが 倭国である、という神話が古くから伝わっている。

 倭国、九州王朝は、古代において中国の史書には、邪馬台国、邪馬壱国等と記されることもあった。

 かつて、大和地方に倭国王家の一員である磐余彦(いわれひこ)という人物が東征して、倭国の分国である「日本」を建国したが、大和政権が九州王朝を超えることは、なかった。

 その理由は、九州王朝の持つ優れた官僚システムにあった。

 農耕民と海洋民とを、効率的に支配するために整備された官僚システムは、倭国の統治体制の盤石化に大きく貢献した。

 九州王朝は、その優秀な官僚システムの下に、列島各地の政権をも組み込んだ連合体である「大倭帝国連邦」を結成することに成功した。大和政権も、倭国の軍門に下って行った。

 さらに、倭国政府は、海洋民たる国民を中心として、古代から東南アジアにも進出した。一説によると、中国から「邪馬台国」と呼ばれていたころには、(すで)に南米大陸まで植民していたとされるが、一応、はっきりしている記録によれば、倭国が南米まで勢力を伸ばしたのは、中世の頃とされる。

 そのころには、東南アジアからポリネシアの一部にまで、倭国は勢力を伸ばしていたのである。さらに、朝鮮半島の国々も、大倭帝国連邦に所属するようになった。




 そうなるまでの間に、倭国には二度、危機があった。

 白村江の戦と、元寇である。

 話は、倭国の朝貢国であった百済を、唐と新羅が侵略したことに始まる。

 すでに、国内を連邦制とはいえ、優れた官僚たちが厳格に運営する律令制によって統制していた倭国は、連邦に所属する各国から国民を徴兵、日頃から民衆統治が徹底していたために、多くの国民は倭国政府による徴兵には大して反感も抱かず、極悪非道の中華帝国を膺懲(ようちょう)するために戦場へと向かった。

 膨大な数の兵士が、百済救援に駆け付けた。さらに、一部の兵士は、百済戦線に力を割かれて本土の防衛が手薄になっていた新羅を攻撃した。

 結果は、明白だった。

 数も多く、さらに、大人数であるにもかかわらず、統制のとれた倭国軍に対して、新羅軍は惨敗した。

 唐は、当初は倭国の軍隊も、百済軍のように内紛ですぐに分裂するであろう、と予測していた。しかし、新羅軍の惨敗の知らせを聞き、さらに、白村江でも倭国が善戦していることを受けて、一時的に撤退することを決断した。

 その間に、倭国は百済と新羅とを、自国の官僚制度に組み込んで、連邦の構成国とした。

 さらに、高句麗をも自国の傘下に置こうとしたが、好太王(こうたいおう)の時代以来、倭国を宿敵とみなしていた高句麗は、倭国の軍門に下ることを拒否した。

 これを奇貨とした唐は、高句麗と手を組んで百済と新羅へと攻め込んだ。しかし、倭国の反撃が予想以上に強固であったこと、極めて短時間の内に倭国の官僚たちが朝鮮半島での権力基盤を固めていたこと、百済や新羅の民衆の間では、長年の宿敵である高句麗への反感が大きかったこと、等から、苦戦した。

 しかし、唐の目的は、別のところにあった。倭国征伐の名目で唐軍を高句麗の領内へと入れてクーデターを起こし、高句麗を属国化する――これが、唐の本当の目的だったのである。

 このクーデターは成功したが、一部の高句麗の遺民らが倭国と組んで抵抗し、新たに「渤海国」を結成、大倭帝国連邦に加わった。そして、唐が安史の乱等の内乱により衰退する間、渤海国はきゅ高句麗領の大部分を支配するようになった。

 時代は下り、この渤海も、遼や元といった、モンゴル族の帝国の侵略に苦しむようになった。

 これが、元寇である。

 一時期は、渤海、百済、新羅の王族・貴族が倭国へと亡命し、元軍が倭国の首都である九州にまで上陸する事態となった。

 しかし、「神風」によって元軍は退却し、倭国政府の優秀な官僚たちは大した混乱もなく統治を続け、さらに、渤海、百済、新羅といった領土も奪還した。




 この、倭国の官僚システムは、内政面では、民衆の不満を最低限に抑えつつ、律令制を維持するという、かなり難しい政策を実行していた。

 班田収授制を徹底して適用し、貴族に対しても、職田や位田をこえる広さの私有地(荘園、等)の保有を認めなかった倭国の官僚は、間違いなく、世界一優秀な官僚集団であった。

 人口が増大した時代において、様々な例外規定は追加されたものの、倭国政府の統治体系自体が揺らぐことはなかった。

 それこそが、平和な時代であったのかもしれない。

 貴族は、その官位に応じた特権以上の特権は与えられなかったが、一方で、優れた官僚システムに組み込まれることにより、この地位は絶対的に保障された。

 一般民衆は、身分制度による差別はあったものの、同じ身分の者同士での格差は、中国や西洋の庶民と比べても小さく、何よりも、厳格な法治主義を政府が採用したため、秩序ある社会において平和を満喫できた。

 中央の貴族が勝手に地方に荘園を築いて栄華を誇り「この世をば わが世とぞ思ふ」等と歌う、というようなことは、なかった。

 武装農民が蜂起(ほうき)して、倭国・九州王朝の天皇を無視して勝手に政治を行う、といようなこともなかった。

 内乱が皆無だったわけではないが、(おおむ)ね、四千年近くにわたり、倭国は、平和な時を過ごしていたのだ。

 大倭帝国連邦全体を見ると、南米や東南アジアの植民地の一部が、白夷人(カトリック信者)や紅毛人(プロテスタント信者)の手によって奪われる、ということもあった。しかし、それでもなお、連邦は滅びなかった。




 欧米列強の脅威は、倭国に多少の混乱をもたらした。

 連邦加盟国の中には、鎖国政策をとる国多かった。

 また、さらに過激に攘夷政策を取る国もあった。

 一方で、一部の加盟国は通商も続けていた。

 ただし、キリスト教の流入を恐れる連邦政府の方針により、多かれ少なかれ、どこの国も外国人には警戒的であった。南米で彼らが何をしていたか、は、南米の植民地から亡命してきた倭国人の口によって、かなり広まっていた。

 例のごとく、優れた官僚システムにより、通商を認めていた国においても、民間人の交易は(たく)みに統制されていた。

 だが、いつまでも、そうしたことを続けているわけにはいかないことも、事実であった。




 「大倭帝国連邦を近代化して、欧米列強に対抗しよう!」――この方針を実現するには、当然、困難もあった。

 官僚組織というものは、変革を好まない人間も多い。

 しかし、多少の武力衝突もあったものの、倭国政府は近代化へとかじを切ることが、できた。

 すでに、近代国家に必要な官僚制度は整備されており、官僚たちさえやる気になれば、近代化は簡単だったのだ。

 古代以来の身分制度も残しながら、議会制度や資本主義が導入された。

 『大倭帝国憲法』が制定された。従来の律令政治が、立憲政治に変化しただけ、と考えれば、官僚たちも比較的対応はスムーズにできた。

 班田収授は、正式に廃止され、私有財産の考えが確立した。

 貴族は、これまでは官僚組織の内部から政治を行っていたが、これからは、貴族院議員として、政治に参画することになったのである。

 一方、官僚には「良民であれば」誰でもなることができる、とされた。




 欧米列強は、倭国のことを、最初は軽視していた。

 植民地主義の時代において、南米やポリネシア、東燃アジアの植民地を巡り、数百年も防戦一方であった倭国が近代化を行ったところで、「黄色いサルの悪あがき」ぐらいにしか、思われていなかった。

 無論、イギリスの一部の貴族をはじめ、倭国の近代化を支援した欧米人も存在した。

 しかし、その彼らも、予想できなかったであろう。――あの、ロシア帝国を、倭国が破る、とは。


 倭露戦争――大倭帝国連邦の構成国である渤海国、流鬼国、千島国、角陽国といった国々に、ロシア帝国は侵略の魔の手を伸ばしていた。

 これに対して、近代化を終えた倭国軍は、ロシア帝国に対して奇跡的な大勝利をおさめた。

 北の守りを、辛勝とはいえ、守ることのできた倭国は、中世からの宿敵であるスペインとの対決に備え、南進の準備を進めた。

 その一環として、ハワイ王国を大倭帝国連邦の加盟国にするなどのことを行っている。


 敗北したロシアは、今度は、イギリスや倭国との友好関係の樹立に専念し、英仏ロ三国協商の締結やモンゴルの倭国との共同開発などを行い、さらに、ウイグルの属国化や、当時の中国の王朝である大順帝国への進出を始めた。

 当時の中国は、明を農民一揆で打倒して成立した王朝である順が支配していたが、華南を中心とする中国南部は明の残党である南明が支配していた。南明とは言えど、国号は「大明帝国」であり全中国の領有権を主張していたが、アヘン戦争でイギリスの攻撃を受けた後は順や欧米列強の侵略に苦しんでいた。

 1912年、中国の革命家らが華南で武装蜂起し、明を滅ぼして「中華民国」の建国を宣言した。辛亥革命である。彼らは中国統一を悲願とする順とも全面的に対立、武力衝突に発展した。

 これを受けて、倭国・ロシア・イギリスは、順を支持して軍隊も派遣した。中華民国はこれを「干渉戦争」であるとして非難し、ドイツやスペイン、ポルトガルに救援を求めた。

 結果、中国は北部は大順帝国が、南部は中華民国が、それぞれ支配することで、ひとまずの決着はついた。

 だが、面子を重んじる順王朝と中華民国とが、合意文書への批准を渋っている間に、第一次世界大戦が発生した。

 サラエボ事件に始まる欧州の戦火が、中国の内戦にも飛び火し、イギリス、フランス、ロシア、倭国、順国などの連合国と、ドイツ、ハンガリー、スペイン、オスマン帝国、中華民国などの同盟国による、文字通りの「世界大戦」が発生したのである。

 最終的に、アメリカの参戦で連合国が勝利したこの戦いだが、連合国も決して無傷ではなかった。

 イギリスがこの戦いで「三枚舌外交」を展開してオスマン帝国を崩壊させ、後々まで禍根を残したことはあまりにも有名であるが、ドイツの支援を受けた共産主義者によってロシア帝国が崩壊し、ソヴィエト社会主義共和国連邦が結成、さらに、ソ連の支援を受けた中国共産党員らが順王朝を倒して中華人民共和国を結成するなど、混乱は広がった。

 イギリスやアメリカは、共産主義革命を同盟国側の謀略であり、さらに、自国の体制にとっても脅威であると判断、シベリア出兵を呼ばれる干渉戦争を行う。

 倭国は、スペインから奪ったフィリピンやオセアニアの領土の領有を米英に認めさせたうえで、ドイツから奪った山東半島を足掛かりに、中国・モンゴル・シベリアへ出兵、共産党と戦った。

 しかし、こうした干渉戦争は失敗に終わり、倭国は戦争特需で一時期は好況となったものの、その反動での不況と格差の急激な拡大による世情不安が高まっていった。


 また、アメリカが「真珠湾問題」で強硬な姿勢をとったことへの反発も大きかった。

 倭国が太平洋へ勢力を伸ばし、最終的には、南米大陸への進出をももくろんでいるのではないか――そう恐れたアメリカは、ハワイ王国に対して、最後通牒をもって真珠湾の租借期限の延長を求めた。ハワイ王国は、倭国連邦に加盟する前から、真珠湾をアメリカに対して租借していたのである。

 アメリカと戦火を交える余裕のなかったハワイと倭国とは、アメリカの要求に屈した。




 そうした中、大資本や貴族階級、そして、アメリカに代表される自由主義国家を敵視する思想が現れた。

 国家社会主義、である。

 賤民出身の里高隆一は、『大倭帝国改造法案大綱』を出版、「賤民階級の解放、貴族制度の廃止、身分制度の撤廃、連邦内の各民族の平等、大企業の解体、富裕層からの資産没収、労働者の地位向上」を天皇の権限によって実現し、憲法を停止することを訴えて、ベストセラーとなった。

 さらに、「天皇が現人神として無謬の神として国民道徳の最高規範として君臨することと同時に天皇は元首として過ちと失敗を繰り返さざるを得ない政治権力の最高責任者に位するものと定めた『大倭帝国憲法』の二元性」をも指摘、場合によっては天皇制を廃止することにも含みを持たせつつ、表向きは「天皇陛下の下で一君万民の理想国家を建設し、賤民や労働者を解放すること」を訴えて、支持を集めた。

 このような活動は、当然に当局の弾圧も受けたが、近代化されたのちも制度的に明確に差別されている賤民(身分制度の廃止は行われなかったため、いわゆる「解放令」が発布されることはなかった)や、急激な資本主義経済の導入による格差の発生に苦しむ労働者にとっては、福音であった。

 共産主義のように、従来の伝統文化を全面的に否定するものではないことが、農村出身の労働者に受け入れられた面もある。

 また、里高の演説の能力が高かったことも、彼の思想が広まった原因の一つであろう。

 さらに、何千年間も差別され続けていた、賤民階級の民衆の「声なき声」を里高が代弁したことを受けて、賤民階級の間では、急速に国家社会主義が広まることとなる――――

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