第二話 いわゆる一つの洗礼
(――なんてことがあって。しかもその後、オリヴィアとレオナのチキチキ女の子講座~シノブのための特別篇~とか始まって、スカートはいてるときの歩き方とか諸々練習させられたんだっけ……あれも大変だったよなぁ……)
ここに来る羽目になった経緯を思い出し、そんなことを考えながらシノブは大きくため息を吐く。
(それにしても……流石ウィステリアっていうべきか、可愛い子ばっかりだな。なんかいい匂いしてるし……偽物女子の僕とは全然違う。お嬢様学園だし、みんな香水とか付けてるのかな……?)
教室に漂う甘い匂いをぼんやりと感じながら、イマイチ回らない頭でそんなことを考える。そしてそのすぐ後に、緊張している癖にそんなところばかりに気が付くのかと小さく苦笑した。
そんなシノブに好奇の目線を送っていたクラスメイト達はというと、数分後に始まる一限目の授業の準備をしているためシノブの周りに人が集まっているということはない。一応程度に平穏ではあるが、最初の休み時間にはその平穏も吹き飛ぶのは間違いないだろう。
そんな周りの様子をぼんやりと認識しながら、焦点の合わない目で主のいない教卓――朝のホームルームが終わってすぐで、授業まではまだ時間があるため教師は教室にいない――を眺め続ける。
一日が始まったばかりで、学校生活そのものも始まったばかりだというのに早速疲れ果てており、これからが不安になるばかりである。
「――さん? ――スさん? おーい?」
とはいえ、人は慣れるものだ。どんな環境であれ、日数を重ねていけば日常になるのが人間のいいところである。
(――なんて、厳密に言えば僕は人間ではないんだけど、ね)
上唇に指を添え、その下にある鋭く長い八重歯を感じながらそんなことを考えて、小さく笑いをこぼす。
人の皮膚ならば容易く貫くそれは母親から受け継いだ人間にはない特徴の一つであり、自身が異種族混血である証の一つ。
両親の種族が違うというのは、二人と幼くして死に別れたシノブにとってあまり実感のある話ではないが、それでも自分が貴重で希少な存在であるということは身に沁みて理解していた。
何しろ、ラウントリー家の養子になる前は中性的な容姿と、何よりその紅い瞳に目をつけた人攫い――おそらくは非合法の奴隷商人――が襲撃してくることも一度ならずあったのだから。
「エ――スさーん? おーい? き――るー?」
だから、自分の体、血筋、生まれの事を誰かに話すのはまだ怖い。ラウントリー家の人たちを筆頭にギルドの面々にはそういった事を気にする人はいなかった――というか、母がパラス・アテナに所属していた凄腕魔術師であった以上そういう偏見を持った人はいない――それでも……なんてことを考え、シノブは思わず苦笑した。
――疲れているせいか、考えが方々に飛ぶなぁ。それにしても……
「……隠さなきゃいけないこと、多いな」
「ふぅ~……何を隠してるの?」
「はあっ……んっ!?」
突然耳元に感じた吐息と小さく涼やかな囁き声に、シノブは片耳を抑えながら艶のある悲鳴を上げる。同時に、耳たぶにかかった熱い風と、鼓膜を甘く震わせる振動にゾクゾクと甘く痺れる様な感覚が耳から脳髄を伝播して全身に走り、シノブはビクンと体を大きく震わせた。
「あっ、あっ、あのっ!? い、いいい、今、何をッ!?」
「あははっ、やっと気づいてくれた。耳弱いんだねー……ゴメンね、悪戯して」
腰砕けになりながら、シノブは下手人である自身の隣に座る少女のほうへと視線を向ける。羞恥と驚きが入り混じった視線を向けられた彼女は、そんなシノブのリアクションに軽く笑った後、ウィンクしながら軽い調子で謝ってくる。
……が、その直後、その顔はぷぅと怒っているような、拗ねているような膨れっ面に変わった。
「でも、エインズワースさんも悪いんだよ? 私がずっと話しかけてるのに無視してぼーっとしてるから……」
「えっ……あ……」
責めるようなその口調に、シノブはぼんやりしていた自分に彼女がずっと声をかけてくれていたことを悟った。というか、そういえばさっきからずっと女子の声が聞こえていた気もする。……ぼんやりしていたから内容は聞き流してしまっていたが。
そしてそこまで考えた瞬間、シノブは話しかけられているのに無視し続けるという非常に失礼なことをしていたことに気付いてしまった。
「あっ、その、ごめんなさい、ぼっ……わ、私! 私、その、色々慣れてなくて……!」
そう言いながらシノブはとっさに頭を下げる。その真摯な声や、うろたえ様はシノブが本当にすまないことをしたと考えていることがしっかりと伝わってきて、だからこそ、その少女は何でもないよと言いたげに軽く手を振ってシノブの頭を上げさせた。
「いいよいいよ、そんなのホームルームのアレ見たらわかるし。気にしてないって」
「ん……そう言ってもらえるとありがたい、かな。ごめんなさい、本当に」
「うん、許してあげよう!」
そう言ってにっこりと笑う少女を改めて見て、シノブはわぁ、と小さく声をこぼした。
その少女の印象は太陽。明るく、朗らかで、爽やかな、そんな印象を受けるきれいな笑顔だった。そういった顔立ちをしていることもあるのだろうが、やはり彼女の場合はその明るい性格が表れている部分も大きいのだろう。
右側、やや高めの位置でサイドテールに束ねられた鮮やかなブラウンの髪も、初夏に芽吹く新芽の様なライトグリーンの瞳も、ぱっちりとしたつぶらな目も、整った顔立ちも、その爽やかで健康的な彼女の印象を引き立てている。
笑顔という明かりを周りに振りまく太陽……そんな風にシノブが思ってもちっとも不思議ではないくらいに、彼女は美少女だった。
そんな太陽のような少女にむけて、シノブは戸惑うように口を開く。
「それで、その、ええと……」
「んー? あ、そっか。私はアリッサ。アリッサ・ミンスター。アリッサでいいよ」
(――ミンスター……そうか、彼女が)
少女の姓を聞いたシノブの目が一瞬スッと細くなる。ミンスター、それは王国に広く根を張るミンスター商会の創始者の姓であり、今現在も商会のトップを張っている一族の姓でもあるからだ。
つまり彼女は貴族ではないものの相当なお嬢様であり、狙われる理由を十二分に持っている人物でもあるのだ。とはいえ、そういう視点で見るなら、この学校に通っている人間は大抵狙われる理由を持っている人物なわけだが。
そんなことを短い間に考えながらもシノブはそれを表面上には全く出さずに、軽い微笑みを浮かべながら口を開いていた。
「……うん、アリッサさん。えと、私の事も、シノブで」
「おっけー、シノブ。それじゃあ……」
そう言いながら、アリッサはシノブのほうに右手を差し出す。それに気付いたシノブは慣れないことに戸惑いながらも同じように右手を差し出し、彼女の手をそっと握った。
(――うわ……柔らかい……女の子の手ってこんなに繊細で柔らかいんだ……)
(シノブ、顔とか腕とか、手の甲とかは滑らかできれいな肌をしてるけど、手の平は固い……ギルド推薦って言ってたし、苦労してきたのかな……)
お互いの手の感触を感じてそんなことを考えていたのはご愛敬。シノブにとって同世代の女子とは色々と未知の存在であり、アリッサにとっては季節外れの、それもギルド推薦の編入生ともなれば色々と好奇心が刺激されても仕方のない存在なのだ。
「お隣同士、これからよろしくね、シノブ」
「えっと、その……うん、よろしく、アリッサさん」
「ん……ちょっと固いけど……まあ、その辺はおいおい変えていってもらうし、今はそれでいいよ。困ったことがあるなら何でも言ってね、力になるから」
シノブの手を握りながらにっこりと笑ってそういう彼女に、シノブは少し考え込むような素振りを見せた後、だったら、とやや控えめな声を発した。
「その、今日一番の授業と、それに使う教材を教えて欲しいんだけど……」
「うん、お安い御用!」
さっそくのお願いに、アリッサはうれしそうに笑いながら胸元をぽんと叩く。そんな彼女の様子にシノブはアリッサの性格をなんとなく察した。人に求められること、人の世話をすることがうれしくて楽しい、そんな世話好きな性格なのだろうと。
☆ ★ ☆
朝から友人もでき順調に始まったかに思われたシノブの学園生活だが――もちろん、そううまくいくはずがない。良くも悪くもシノブの受けてきた教育――興の乗ったギルドメンバーに得意な事や専門の知識を叩き込まれたことを教育と呼ぶのなら、だが――は普通ではない。
戦闘技術、サバイバル技術、星見の技術、考古学に遺跡踏破の心得、ルーン魔術に儀式魔術……その他諸々、シノブが学んだ知識の大半は任務で生きるために必要なものか、ギルドメンバーの趣味が炸裂したものかのどちらかだ。
彼があそこで学んだうち、一般的なことは読み書き計算くらいなものであり、当然知識には著しく偏りが生まれる。そうでなくとも、シノブは他の生徒たちに比べて一月の遅れがあるのだ。
そうなると当然、高い確率で授業についていけなくなるわけで……
「うおぉ……さっぱり分からなかった……」
最初の授業が終わると同時に、シノブが頭を抱えながらそう呟くのもまあ仕方のない事であろう。
「シノブー、ウィステリアの授業はどう……って、その様子じゃ聞くまでもないかな……?」
「ああ……うん……ホント、全然……」
「あー、まあ、あの先生は話分かりにくいって有名だから……」
虚ろな目で頭から煙を吹きそうなシノブに、苦笑しながらフォローを入れるアリッサ。
実際、先ほどまでシノブたちが受けていた「王国近代史」の教師は生徒たちの間で「話が無駄に長い上に要点がまとまっていないから分かりにくいし、つまらない。授業では言わずもがな、説教ではいつものそれに輪をかけて酷い。ついでに話し方から予想できるけど、性格もねちっこくて酷い」と散々に酷評をされている。
当然、生徒たちからの人気や人望はない。生徒たちに教師人気のアンケートを取れば熾烈なワースト争いを繰り広げてくれるだろう。
シノブたちの担任であるミシェルの「規律には厳しいけれど意外と優しいし、相談にもよく乗ってくれる。困ったときに頼れるいい先生」という高評価とはえらい違いである。
「ノートは取ってたんでしょ?」
「まあ、うん……」
「だったら大丈夫。歴史って結局のところ暗記だから、見直しできるようにしてるなら問題なし」
「そうなの?」
「そうそう。それにこの学校、こういう教養科目ってそこまで重視してるわけでもないから定期試験のボーダーも低いらしいし、多少あやふやでも気にしないでいいんだよ」
薄い胸を張って得意げな表情を浮かべ、ピッと人差し指を立てながらアリッサは語る。
どこか気取ったような話し方だが、入学一か月にもかかわらず試験の情報を持っているあたり、偉そうにできるだけの情報は持っているらしい。
しかし普通の人がこんなことをしたら鬱陶しさが鼻につくだろうに、アリッサの場合は全くそんなことがない。むしろ何処となく似合っているというか、自然ですらある。
全く、どんな顔をしていても絵になるんだから美人はずるい……などと考えながら、シノブはアリッサに頷きを返した。
「――あの、シノブさん」
そうやってアリッサと話しているシノブの耳に、名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
声のした方へ視線を向けると、シノブの前の席にいる眼鏡をかけた真面目そうな少女が座ったままこちらを向いていた。
無表情に近いその顔はお堅い印象を見る者に与えるのだろうが……シノブを見つめるその瞳は抑えられない好奇心でキラキラと輝いており、どこか小動物じみた可愛さが滲み出ている。
「えっと……なに、かな?」
「私も、推薦組なんだけど……シノブさんはどこから来たの……?」
「えっ、えっと……一応、ルナフレストから……」
「わっ、すごい! ルナフレストってパラス・アテナの本拠地でしょ!?」
今度は斜め後方から興奮したような声が飛んでくる。
はっとして振り返ると、そこにはまた別のクラスメイト――だけではなかった。
シノブが慌てて周りを見回すと、いつの間にやら多くのクラスメイト達がシノブの机を取り囲むようにして集まり、そろいもそろって好奇心丸出しの表情をシノブに向けていた。
彼女らの視線の圧力に忍は思わず怯んでしまう……が、そんなことは彼女らのあふれ出る行動力の前には何の意味もない事だったらしい。
シノブが口を開くよりも先に、間髪入れずほかのクラスメイト達から質問が雨あられと飛んできたのだ。
「ね、ね、もしかしてシノブさんってパラス・アテナの本部に行ったことあるの?」
「そんなことより~シノブさん、料理得意って言ってたよね~? お菓子とかってどうかなぁ~、作れる~?」
「シノブさんの髪って遠目で見てもすごくきれいよね……その、ちょ、ちょっとだけ触らせてもらってもいいかな……?」
「あ、エナちゃんズルい! 私も髪……もいいけど、お肌もいいなぁ。近くで見るとシノブちゃんのお肌ってすっごい綺麗。どういうこと? 推薦ってことは普通の平民だよね?」
「スリーサイズ! スリーサイズプリーズ!! ペタンコでも気にしないからさぁ!!」
「え、えっと、えっと……!?」
あちらこちらから飛んでくる脈絡のない質問の数々……そんなものにシノブがしっかりと対応できるはずもなく、目を回しながらあたふたすることしかできない。
(ちょ、待って、そんな一度に色々言われても分からないって……!! ヒィッ、誰だよ手とか髪とか触ってるのっ!! うわっ、ちょっ、待って待って待ってー!!)
女子達の姦しさとパワフルさに混乱しながらも、シノブは友人第一号に視線を向けて助けを求める。
(アリッサさん、助けて、本当助けてッ……!!)
その半泣きに近く、すがるような必死さを湛えている潤んだ黒い瞳はシノブのミステリアスな美しい容姿も相まって、絶大な破壊力を伴ってアリッサの胸を撃ち抜いた。
――そう、主に悪戯っ子気質とサドっ気の部分を撃ち抜いたのである。
「……シノブ、ゴメン、ちょっと無理」
小さくそう言いながら、アリッサは右手を拝むように顔の前に立てると、片目をつむって申し訳なさそうな表情を浮かべる。
そんなアリッサを見たシノブはあからさまに顔色が悪くなっているが、まあ仕方ない。
そして、そんなシノブは周りを囲んでいるクラスメイト達に質問攻めにされながら触られたり撫でられたりしているが……流石にこれをどうにかするのは難しい。
そもそも、勢いのついた乙女、それもウィステリアに入学してくるようなタイプを止めるのは至難の業といっても大げさではないのだ。
アリッサがシノブを助けられないのも仕方のない事なのだ。仕方のない事なのである。
ちなみにだが、シノブへの質問攻めは次の授業の開始を知らせる鐘が鳴るまで途切れることなく続いていたのだった。