プロローグ~初めまして、ウィステリア学園~
やや肌寒いとも言える涼しく清々しい空気に満ちた初夏の朝、柔らかな陽光を浴びて赤煉瓦造りの建物が静かに佇んでいる。見上げるほどに大きなその建物は汚れやくすみが見受けられ、また壁面を蔦が這っている部分もあり、その建物が辿ってきた年月の流れを感じる。その一方で玄関にあたる部分は綺麗に掃き清められていたり、窓ガラスがピカピカに磨き上げられていたりと今も建物が生きているということが確かに見て取れた。
そんな年季の入った建物の廊下を、二つの人影がゆっくりと歩いている。片方は燃えるような赤毛を頭の後ろで纏めた背の高い人物。そしてその半歩後ろに、美しい黒髪を背中の中ほどまで伸ばし、やや伸びた前髪で左目を隠すという変わった髪型をした人物が続く。
黒髪の人物は赤毛の人物よりもやや背が低く、その身長からも、顔立ちからも黒髪の人物のほうが明らかに年下であることが見て取れた。
「……エインズワースさん?」
赤毛の人物は綺麗な板張りの床と革靴が奏でるコツコツという音のリズムを一定に保ったまま、黒髪の人物にむけてどこか気遣うような声で呼びかける。
一方、呼ばれた方は豪華ではあるものの下品ではないこの建物の作りに圧倒されていたのか、この慣れない環境に緊張しているのか……それとも何か別の事を考えていたのか、びくりと大袈裟に体を震わせた。
「ひ、ひゃい……な、なんでしょうか、ミス・フロウ?」
「ミ、ミスって……固すぎよ、その言葉遣い。私はミシェル先生と呼んで。みんなそう呼ぶわ」
「え……で、でも……」
「いいのよ。ここは学校といってもそこまで堅苦しくもないのよ。教育も礼儀作法とかよりも魔法関係が基本だし……って、この話はエインズワースさんには今更ね」
「え、えっと、まあ……『パラス・アテナ』でそのあたり多少聞きましたし……」
黒髪の人物……エインズワースのどこかオドオドとした言葉に赤毛の女性――フルネームはミシェル・フロウ、ミシェル先生を自称するところから分かるように教員――が小さく苦笑をこぼす。仕事柄多くの子供を見てきたミシェルにとって、今のエインズワースの様な子供はそれこそ山のように見てきたからだ。
そしてその内心に抱えるものも……なんとなくとはいえ、想像がつく。
「……エインズワースさん、緊張してるのかしら? それとも不安?」
「えっ……!? ええ、まあ……両方、です」
ミシェルの急な問いかけに驚きを露わにしながらも、エインズワースはそれに曖昧に頷いて肯定を返す。慌てたような、どこか戸惑うような様子に見えたのは流れを切るような質問に驚いたからだろうか。
「そう……ねえ、エインズワースさん。ウィステリアは教育方針のせいでちょっと変わった子が多いけど……同じかそれ以上にいい子が多いから。貴族出身の子も大抵は偉ぶらない子たちだし、何人かあなたと似た境遇の子もいる……だから、きっと貴女にとっていい出会いが沢山あると思うの。それこそ、一生ものの宝になるような、そんな出会いがね」
「……だと、いいですけど」
「大丈夫、大丈夫。さっきも言ったけど、この学校はいい子が多いから。だから、ね? そんな風に不安に思わなくても大丈夫よ。リラックスリラックス」
そう言いながらにこりと笑いかけてくるミシェルに、エインズワースは曖昧に笑みを返す。
その笑顔はどこか戸惑いや恐れの色が入り混じっており……ミシェルの言う通りにリラックスできているとは到底思えなかった。
(――内気、引っ込み思案、人見知り……それとも知らない人が怖い? この子の境遇だと最後のが当たりかしらね)
歩きながらも不安げにきょろきょろと周りを見回し、時折ちらちらと自身に向けられる視線に、ミシェルはエインズワースの生徒資料を思い出す。そこに備考として記されていた孤児という言葉は、ありふれているとはいえ不幸であることは間違いなく……だからこそ、彼女は少し悲しくなった。
知らない場所、知らない集団に所属することになって不安なのはまだ分かる。だが、今のエインズワースの態度からは過剰ともいえる警戒心が透けて見えていて……きっと、知らない人の事をそうやって警戒するのが当たり前の生活を送ってきたんだろうなと考え、こんな可愛い子がそんな生活を強いられてきたであろうことに強く胸を痛めた。
そして同時に、この幸せを知らない不幸な子がこの学園で幸せな時間を過ごせるようにしようと強く誓う。
「うん……慣れないと思うけど、困ったことがあったら相談して。学園の先生はみんな、貴女の味方だから」
「えっ、あっ、はい……ありがとうございます……?」
にっこりとした優しい微笑みとともに告げられた言葉に、戸惑いながらもうなずくエインズワース。その戸惑いは、初対面であるはずの先生から向けられる好意と妙な距離の近さへの戸惑いなのだが、ミシェルには優しい言葉をかけられ、どう対応すればいいのか戸惑っているように見えた。
さて、そんな風に会話を続けることしばし、二人は一つの扉の前にやってきていた。ミシェルの身長の一、五倍ほどの大きさのそれは、黒に近い色をしている木製でそこまで大きくはないはずなのに妙に重厚な印象を受ける。
よくよく見てみれば扉の内部には魔力が通っており、扉が強化されているのだとわかる。おそらくこの扉の強度は同じ厚さの鉄にも引けを取らないだろう。エインズワースはさすがお嬢様学園、と内心感心していた。
そんな固い扉の向こう側からは、扉に阻まれて幾分くぐもったものにはなっているもののやや高めの声がいくつも混ざりあったざわめきが聞こえてくる。
エインズワースが扉の上へと視線を向けると、そこには「1―A」と刻印されたプレートがあった。つまりはここがクラスのための教室なのだろう、と学校について触り程度にしか知らないエインズワースでも簡単に予想できた。
「もう鐘が鳴るわね……じゃあ、私が呼んだら入ってきて」
こちらを見てミシェルがそういうとほぼ同時、どこか――おそらくは学園の外からも見えた時計塔だろう――から響いてきた鐘の音が空気を震わせる。そのあまりのタイミングの良さに驚きを露わにしているエインズワースを見てニコリともう一度笑みを浮かべると、ミシェルは内開きの扉を押し開け、教室の中へと姿を消した。
「――この前あなたに貸してもらったあの小説、すごく面白かった! 特に……」
「――あなたたち、今日の放課後何か予定はあって? 昨日実家から良い茶葉が届いたのだけど……」
「――聞いた聞いた? 閃火のオリヴィアの話!」
「――ねえ、昨日、私服着てる知らない子を見たんだけど、あれ誰だろう? 誰か見た?」
部屋の中を少女達の雑多な言葉があちらこちらから飛び交う。朝の休み時間は何処の学校も生徒たちの話声で騒がしいものだが、それはこのウィステリア学園でも何ら変わることはない。
娯楽小説の話をする者、早くも放課後の話をする者、有名人や学園の噂を口にする者。
年頃の少女にとって一番手軽で人気の娯楽はおしゃべりであるという話もあるが……あながち嘘ではないかもしれない。
そうやって楽しくおしゃべりに興じる少女達の耳に、大きく重厚な鐘の音が響く。
その音が教室の空気を震わせるのとほぼ同時、教室の前にある扉が音もなく開いて一人の女性が教室に入ってきた。鐘が鳴るよりも早く来ることもなければ、遅れることもない彼女の行動に最初は驚いていた生徒たちだが、入学から一ヶ月も同じ行動が続けば習慣として流石に慣れる。
彼女が教室に入ると、少女たちは皆一様に口を閉じ、自身の席へと戻る。それまでの喧騒が嘘のようにぴたりと静まり、教室中が静寂に包まれる。
そのことにミシェルは小さく頷くと微笑みながら口を開いた。
「おはようございます。今日は休日明けだけど、きっちり気持ちを切り替えて授業に臨んでね。それじゃ、出席を――」
そう口にしながら、出席簿を開いて出欠をとり始める。
出欠確認、連絡事項の伝達……ここまではいつものルーチンワーク。だが、今日はそれで終わりではない。他の先生達からの連絡を伝えた後、ミシェルはパンと軽く手を叩いてもう終わりだと思っている生徒たちの注目を引き戻した。
「さて、それでは最後に一つ。諸事情により今日から一人、このクラスに生徒が新しく加わるから、その子を紹介するわね。エインズワースさん、入ってきて」
ミシェルの呼びかけに答える形で教室の扉が開き、一人の人影がおずおずといった様子で教室に入ってくる。そしてどこか戸惑うようにゆっくりと教卓の前まで来ると、教室のほうを向いてぺこりと軽く頭を下げた。
下げられた頭が上がって、その顔を正面から見た生徒たちはその姿に目を見開き、教室の空気がざわりと揺れる。
その容姿に何人かの生徒はうっとりとした怪しい目つきをしながら、ほう……と小さくため息をついた。
まるで黒曜石を紡いで糸にしたような美しい黒髪は、開け放たれた窓から吹き込んでくる風をはらんでふわりと舞い上がり、降り注ぐ光を惜しげもなく振りまいてキラキラと輝きを放つ。
その肌は雪の様に白く、絹のように滑らかで、玉のような肌とはまさしくこのような事をいうのだろう。
細く伸びた柳眉に、ややツリ目ながらもぱっちりした目は可愛らしさの中に凛々しさがちょっぴり混じったような、不思議な印象を見る人に与える。
その目の中にある黒い瞳はまるで夜闇を切り取ったような混じり気のない漆黒で、吸い込まれるような美しさを宿している。
形の良い小鼻や、やや朱の差した頬、艶やかで瑞々しい桜色の小さな唇も美少女というにふさわしい。
戸惑うように小さく開かれた口元からは白く鋭い八重歯が覗き、整った顔立ちの中で軽いアクセントになっておりチャーミングで……どことなく感じられる異国風の造形と、左目を前髪で隠すという変わった髪型のせいもあり、その風貌はどこかミステリアスな雰囲気を醸し出していた。
まあ、要するに……編入生は結構な美人だった。
入学式から一月という編入の時期、ミステリアスな雰囲気、さらには美人となると、この学園の女子達の好奇心もバリバリ刺激されるわけで……教室中の生徒たちは期待や関心を視線に乗せて編入生を穴が開くほど見つめ続ける。そんな視線たちに気圧されたのか、編入生の顔色がさっと青くなるものの、気合を入れるように一度大きく息を吸い込むと、きっと表情を引き締めた。そうしながらも顔が少々引き攣っているのは緊張からであろう。
「い、一身上の都合で編入となりました、シノブ・エインズワースです。えっと、パラス・アテナの推薦で来ました。趣味は料理、あと、体を動かすのも好きです。こ、これからよろしく、お願いします」
桜色の唇からやや低めの声が紡がれ、教室の空気が揺れる。どことなく中性的な響きを持った声でそう告げると、編入生……シノブはペコリと軽く頭を下げた。
震える声に、スムーズとは言い難いつっかえつっかえな自己紹介……不安と緊張が明らかなシノブを見て小さく苦笑すると、ミシェルは生徒たちに声をかける。
「はい、そういうわけで、今日からエインズワースさんがあなたたちと机を並べる学友となるわけだけど……まあ、この子にいろいろと聞きたいこともあるでしょうけど、節度をもって行動すること。まあ、あなたたちならわかっていると思うけれど」
そう言ってはしゃぎ過ぎないように、と釘を刺した後彼女はシノブの方を向いた。
「それで、あなたの席だけど、あそこ――窓際の後ろに空いている席があるでしょ? あそこだから」
「あ、はい」
そう言いながら指をさす彼女に従って、教壇から離れて空いている席に向かう……のだが。
(き、きまずいっ……なんでみんなこっちに見るんだよ、前向けよ……!!)
まだ教壇に先生が立っているからか、あからさまに顔を向けている生徒は少ないもののチラチラと視線をよこしてくる生徒は多い。多いというか、ほぼ全員である。何人か我関せずといった態度をとる生徒もいるが、本当に片手で数えるほどしかいない。
そして、視線の数が多いだけあってそこに含まれている感情も好奇心や関心といったものから侮りや値踏みといった物まで様々だ。数としては好奇心や関心といったプラスのものが圧倒的に多いが、それは今のシノブにとってあまり慰めにならない。
何しろ大勢に注目されているという現状がシノブにとっては針のむしろなのだから。
そんな多くの視線にさらされながら短い距離を――本人からすれば非常に遠い距離を、永遠と錯覚するほど長い時間かけて――歩き、席に着く。
その一挙手一投足にまで視線が集まり、シノブは冷や汗をかきながら生唾を飲み込んだ。
そんな注目のされ方も恐ろしいのだが、それ以上に恐ろしいのは現状ですら抑えが効いているという事実だろう。クラスメイト達はちらちらと視線を向けては来るものの、逆に言うとそれ以上の行動はしていない。曲がりなりにも名門校だからか、線引きはしっかりしてあるようだ。
しかし、やたら注目されている今ですら抑えが効いているのだから、自由に動いていい休み時間などになると彼女らがどういう行動に出るのか……想像に難くない。
(……気まずい、居心地悪い……帰りたい……)
注目のされ過ぎで顔を青くしながら、内心で頭を抱えるシノブ。
教壇の方ではミシェルが何かしら話をしているようだが、教室中からのプレッシャーにさらされているシノブの耳には何一つ内容が入ってこない。
(やめてよ本当に……なんでみんなそんなに注目してくるんだよォ……!!)
慣れない視線にさらされて神経をゴリゴリと削られながら、心の中で愚痴る。
額にはじっとりと冷や汗がにじみ、視線は落ち着きなく教室中を彷徨い、顔色もやや悪い……転校初日ゆえの緊張、と考えるにはちょっとばかり大げさすぎるだろう。
無論、それにはれっきとした理由がある。
大勢の視線にさらされて緊張している? 理由としては大きいだろう。
慣れない環境で戸惑っている? 無論それもある。
同年代との付き合いがほとんどないから対応に困っている? 勿論それも正しい。
しかし、シノブが神経をすり減らしている一番の原因は全く別にある。
(人目は慣れてないんだよ……というか、なんで問題なくここまで来れたの……? 普通にみんな気づいてないっぽいし……気づかれたらダメなのはそうなんだけど、そうなんだけどさっ……納得いかない……!! そもそも――――)
シノブには秘密がある。それも特大級の、バレたらただでは済まない秘密が。
たとえシノブがミステリアスな風貌をした黒髪美人であっても。
たとえシノブが深窓の令嬢の様な、女性の羨む美しい肌の持ち主であったとしても。
たとえシノブがウィステリア魔法女学園の制服――やや丈の短いプリーツスカートと長袖のブラウスに前開きのベスト、それから肩の部分に藤の校章が入った短いマント――を文句のつけようのないほどに着こなしていたとしても……
(――そもそもっ、僕は本当はッ、男なんだよッ……!!)
……そう、非常に驚くべきことに、シノブ・エインズワース――実のところこの名前も偽名であり、彼の本名は望月忍という――はこの顔で、この見た目で、このナリで……間違いなく、正真正銘、紛うことなき、男性なのである。