1−1 諍い④
だが、一息つく暇などない。
気が付くと丸刈りが背後まで迫っており、晴はその太すぎる剛腕で羽交い締めを決められてしまった。
「図に乗っとんちゃうぞ、クソガキ!」
耳元でドスの聞いた声が鼓膜をつんざく。
物凄い怪力だった。晴がもがくも、締りは一切緩まる隙を見せない。
“くそっ、抜かった……”
瞬発力こそないものの、丸刈りの力の強さは相当なものだ。
角刈りが起き上がってくれば、いいサンドバッグにされてしまう。そうなれば流石に勝ち目は薄い。
「こら、大人しいせんかい!」
じたばたと暴れる晴を抑えようと、丸刈りが晴を体ごと路地の壁面に押し付けようとする。
晴の体を壁と自分の巨躯で挟み込み、身動きを封じようという企みだろう。
しかし、それは晴にとっての好機となった。
晴は迫り来る壁に脚を水平に突き立てた。
「無駄な抵抗しとんちゃうぞ!」
その言葉は、丸刈りが晴の思惑を勘違いしていることを如実に物語っていた。
丸刈りは一層強い力で晴を壁に押し付けようとする。それが完全に裏目に出るとも知らずに。
晴は地に着いたままのもう片方の脚を上げ、壁に突き立て、そのまま、垂直な壁を歩き始めた。
「は、はぁ!?」
素っ頓狂な声が耳元で上がる。
丸刈りが目の前の出来事を理解するよりも速く、晴は勢い良く壁を駆け上がる。
締められている部分を基点にして、時計の針のように、身体の向きを45度 、90度 、135度と変えていく。
後ろを屈強な男に支えられているのだ。落ちる心配など全く無い。
そして最後に壁を強く蹴り、頭を下に、重力に逆らった体の向きのまま、宙へと舞い上がった。
それはさながらムーンサルト。壁蹴りからの美しい宙返りだった。
体を上へ引っ張って羽交い絞めから抜け出だし、くるりと反転して着地すると、晴は自然に丸刈りの背後を取っていた。
このクソ猿ゥ!
そう言い放とうと振り向いた時、丸刈りは視界の右端から靴の裏が飛んでくるのを、辛うじて視認することが出来た。
そのことに、結局何の意味もなかったのだが。
ぐごっ
円運動のエネルギーが乗った晴の右足の踵が、丸刈りの顔にめり込み、頭蓋が鈍い音を立てて鳴く。
体を後ろに旋回させて放った後ろ回し蹴りは、この上ないほどのクリーンヒットをし、丸刈りの巨躯を軽々と吹き飛ばした。
大玉よろしく、巨漢はごろごろと地面を転がり、それからもう起き上がることはなかった。
“これで、二人……”
「ええ加減にせえよ!小僧!」
ついに、我慢の限界を向かえたリーゼントが啖呵を切った。
他二人に比べれば標準的な体型なので非戦闘員かと思ったが、意外にもリーゼントは未だに戦意をむき出しにしていた。
「やめときな、オッサン。もう勝負はついた」
「はっ、抜かせガキ」
部下の大男を目の前で二人も伸されてなお、その表情には余裕が伺えた。
リーゼントは不気味にニヤつきながら、懐に手を伸ばした。
取り出されるのは黒光りの得物。
「はっはっはっ!遊びは終わりじゃ、小僧!」
高笑いするリーゼントの手にはリボルバー。回転式弾倉を有する、小型の拳銃だった。
“この程度の喧嘩で銃をひけらかすなんて……”
晴は恐怖するよりも先に、思わず呆れ返えってしまう。
「なにボケっとしとんのじゃ!さっさと手ェ上げんかい!」
こんな小さな拳銃に敵を戦闘不能にさせる程の威力など当然なく、そもそも晴のように俊敏な動対象に弾を命中させるには相当な腕が必要であり、リーゼントにそれがあるとは到底も思えない。かと言って、理詠花や店に被害が出ても困る。
仕方なく晴は素直に従い、両手を上げる。
一方のリーゼントは、よほど拳銃の力を過信しているのか、もう完全に形勢を逆転させたつもりらしく、やけに満足げな表情を浮かべている。
きっと、この男は拳銃を使ったことなどない。
本当に使ったことがあれば、ここまで油断は出来ないはずだ。
それでも力の象徴として、拳銃ほど手軽かつ覿面なものもないだろう。
一般人を脅すだけならば技量など二の次だ。
リーゼントにとって、拳銃は武器ではなく、人を従わせるための道具。
威の虚栄を顕現させるためツール。
だからこそ、この男は拳銃の利点を捨てるという愚行を犯せたのだ。
「覚悟せいよ、小僧」
従順な晴を見てリーゼントは得意げに、晴へと近づく。
ゆっくり、じりじりと、一歩一歩近づく。
そう、近づいてきたのだ。
『リーチ』という飛び道具の最大の強みを捨てて、わざわざ距離を詰めて来たのだ。
舞い上がってしまったのだ。
圧倒的不利な状況下から一転、自分が場を支配し切ったと錯覚し、晴の怯える顔見たさに、リーチを捨てるという愚を犯したのだ。
一歩……。二歩……。三歩……。四歩……。
その四歩目は、既に晴の間合い。足の先が易々と届く距離だった。
晴はノーモーションで、リーゼントの右手目掛けて脚を振り上げる。
「え?」
勝利を確信し、危機感が緩み切っていたリーゼントには、その蹴りを察知することも、まして避けることなど、到底不可能だった。
「し、しまっ……」
リーゼントが事態を把握したときには、得物はもう空中。
蹴り上げられたリボルバーは宙を舞い、着地したのは、不幸にも、戦いを見守っていた理詠花の足元だった。
理詠花はすかさずそれを拾い上げ、シリンダーから弾を抜き、弾と拳銃を別々に、ショートパンツのポケットにねじ込んだ。
「さあ、どうする。オッサン。まだやるか?」
勝負ありだ。
さすがにこれ以上の抵抗は、自分の身を傷つけるだけの行為だと知ったのか、リーゼントは苦虫を噛み潰したような顔で、
「覚えとれよ、小僧……。絶対後悔させたるからのう……」
「負け惜しみはそれだけか?」
「ワテらを敵に回して、タダで済むと思うなよ……」
「アンタらが勝手に敵になったんだろ?それに、こんな無駄な時間を取らされたことだけでも、十分大きい支払いだと思うけどな?」
「減らず口叩いてられるんも今のうちだけじゃ!どう足掻こうがもう逃げ場なんか無いからのう!」
「はいはい。言いたいことが済んだら、さっさと帰ってくれ。僕らの願いはそれだけだから」
「いいや、まだや……。まだ、終わっとらん……」
言いながら、リーゼントは「ふっふっふっ……」と不敵に笑む。
「まだ何か?だったら、さっさと済ませてとっとと帰っ
カラリ
何かの音がした。
金属を引きずるような音だった。