4−2 焦燥
「……琳さん、ここを出よう」
小さく低い声で言い、手荷物をまとめ始める晴。
買い物の荷で片手が塞がってしまうのが気がかりだ。いざとなれば、そこらに捨て置くしかないだろう。
一方の琳は、「ん?」と首を傾げ、その言葉の意味が読めない様子で、
「でもまだジュース残ってるよ?晴くんのも」
暢気にストローをくわえたまま、ちゅごごぉと小粋な音を立てている。
その間にも、移動しようとする気配を晴たちに感じ取ったのか、ローブ男はこちらを向いたまま、階段の方へと歩き出した。
「さあ、早く!」
「あっ、ちょ、ちょっと!」
晴は半ば強引に琳の腕を掴み、早足に建物の出口へ向かう。
「ちょっとどうしたの、晴くん?」
「怪しい人影を見たんだ」晴は琳を振り返らずに説明する。「ローブの男が向かいの棟の三階から僕たちを見ていた。今も多分、追って来ている」
「え……?」
琳の手を握る力が、少しだけ強くなる。
「それって――もしかして、弁天組の……」
「それは……分からない。ただ、ここ数日で、僕たちの周りをうろついている姿をよく見かけた。僕らに対して、何かしようと企ててると考えて間違いないと思う」
「そ、そんな……」
あのローブは、確固たる意思を持って、晴たちの行く先に姿を現している。晴はそう確信した。
普段の生活範囲から離れたこの場所で出会ったことは、決して偶然などではない。
ローブが後をつけてきていたと考えるのが自然だろう。
しかし、裏を返せば、その事実は、後を付けられていたにもかかわらず、今その姿を目にするまで、晴は尾行されていることに気が付きもしなかった、ということを意味する。
晴とて警戒を全く欠いたわけではなかった。幾分気を緩ませていたのは事実だが、それでも最低限は周囲に目を配っていた。
つまりこれは、単に相手が晴の警戒を上回って、人ごみに紛れる能力に長けていたということ。
その上で、晴たちが人目に付かないところへ移動するのを待っていたのだろう。何度も訪れたであろう襲撃のチャンスを、全て見送って。
白昼堂々と諍いを起こすほど馬鹿ではない。その上、並の人間よりも数段は確実に荒事に慣れている。
そうなれば、あのローブが弁天組のようなチンピラ風情であるとは考えにくく、相手に交戦の意図があるかは定かではなくなるものの、そのことを熟慮するには、今は距離が近すぎる。先に距離を取ることを優先すべきだろう。
あえて晴の目に付く場所に姿を晒したのは、何らかのアクションを起こそうという意思の裏返し。
この人海の中、琳を伴っている状態でそれに対応するというのはリスクが大きすぎる。
帰路はどこも人でごった返しており、全速力で駆け抜けるのには無理があった。
晴はチラと振り返って後ろを確認するが、行き交う人の群れに隠れてか、ローブ姿は認められない。
そればかりか、縦横に交差する人混みは、まるで人壁のように晴たちの進路を妨害し、逃げようにも思うように前へと進むことすら容易くない。
皆が帰宅し始める時間に当たった不運だ。
「琳さん、こっちへ」
晴は順路を離れ、迂回を決めた。
人が溢れ返る駅への最短ルートを強引に突き進むよりは、その方が迅速かつ安全だと判断したからだ。
適当な出入り口を通じて建物から這い出て、少し進むと人気が一気に少なくなった。
そこは建物の裏手の通路で、立体でない駐車場が隣接していた。おそらくは従業員や業者専用のパーキングだろう。そこには乗用車のほか、バンや軽トラが、施設の盛況さにそぐわずにまばらに止まっていた。見晴らしがいいのは都合がいい。
もう一度振り向いた時にも、背後にはローブ男の姿は認められなかった。
“……撒いたか?”
晴がそう思ったのと、琳が手を離したのはほぼ同時だった。
琳は足を止めてその場に立ち止まり、
「ちょ、ちょっと、晴くっ、ごめっ、休憩、させて」
膝に手をつき、苦悶の表情を浮かべている。
「あっ、ごめん!琳さん。気が付かなくて。大丈夫?」
琳ははぁ、はぁ、と肩で息をしながら僅かに首肯。言葉を発するのも辛そうだった。
人混みの歩きにくい道を無理矢理に引っ張られて来たのだ。無理もない。
しかも間の悪いことに、琳はヒールのあるサンダルを履いていた。服装に合わせたのだろうか。
ヒールの高さこそ大したことはないが、紐が食い込んだ痕が、痛々しい赤色を帯びた細い線となって足に刻まれていた。
これ以上走るのは酷というものだ。
「琳さん、歩ける?」晴は跪き、琳の顔を伺う。
歩みを止めるのは得策ではない。牛歩でも進まないよりはいい。
「足、痛くない?おんぶしようか?」
その提案に琳は苦笑して答える。
「だいじょうぶ、歩けるよ。でも、ちょっとゆっくり歩いてほしいけど」
笑顔を上塗りし、苦痛を覆い隠そうとしているのがありありと理解できた。
「うん、 気をつけるよ。行こう、駅はこのまままっすぐ進めば――」
再び琳の手を取ろうとした時、晴を見る彼女の表情が変化した。
何かに気が付いたのか、あるいは驚いたかのように目を見開き、晴を見つめる。
――いや、視線は晴を捕らえてはいない。正確には、晴を通り越してその背後に向けられていた。
「晴くん、あれ……」
琳が晴の後ろを指差したのと、晴が、背後から放たれる尋常ならざる圧力に気が付いたのはほぼ同時のことだった。
「なっ……」
一も二もなく振り返った晴から、驚愕が声となって漏れる。
晴の目に映った光景は、彼から正常な感情のコントロールを奪うに容易かった。




