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0−4 「きっかけ」

ガチャリという音を、私は眠った耳で聞いていた。


ペタ、ペタ、という音がゆっくりと近づいて来る。

その音は私のすぐ傍まで来ると止み、次にギシギシという軋みと共に、地が小さく揺れたような感覚を覚えた。


そして、腰の辺りに、ふわりと弱い圧力が掛かる。何か柔らかい物を押し当てられているような感じだった。


やがて、頬の辺りに羽根で擦られた時のような感触が走り出す。

羽根は頬から鼻、額、唇、首と様々な場所を伝って掠めていく。

それがくすぐったくて体を(よじ)ると、羽根はすぐにどこかへ消えた。「んふふ」という笑い声のようなものが聞こえた。


かと思うと、次は頬に鞭で軽く叩かれたかのような振動を受ける。ぺちぺちと渇いた音がする。

ああ、なんと煩わしい振動だ。眠りの中特有の心地良い脳状態が、その振動によってぼろぼろと崩されてゆく。

頬の感触に掻き乱され、いよいよ私の意識は覚醒を迎え、そこで初めて自分が眠っていたことに気がついた。



霞んだ視界の真ん中に、少女が居た。


日が昇り切らない空から降る薄明りに、長い銀の髪を輝かせて、少女は私を見ていた。


彼女はパジャマのまま、仰向けの私の体の上に居座り、眠る私の頬を弄んでいた。

その表情は楽しそうにも、つまらなさそうにも見えたが、寝起きの脳には彼女の感情を推察するまでの力はなかった。



 “おきた?”


目が合い、私が目を覚ましたことを察すると、少女は少し笑ってそう言った。


 ……そこで何してる?


あまりにも軽い体を馬乗りにさせたまま、私は掠れた声で問うた。


 “れんしゅう”


私の問いに少女は全く悪びれず答える。


 練習って、何の?


 “おこすれんしゅう”


人の顔をそんなものの練習台にするな。というか、練習法を改めるべきだな。……いや、そもそも、そのご身分で人を起こすことなど今後一生無いと思うが。


 誰を起こすんだ?


 “―――”


少女の口は私の名を発した。


 いやいや、張本人で練習をするなよ


 “いいの”


彼女は全く表情変化を伴わず、さも当たり前のことのように、こう続けた。


 “けっこんしたときのれんしゅうだから”


尾を引いていた眠気が吹き飛んだ。


 結婚(けっ…こん)……?


 “うん。けっこん。おこしてあげる。まいにち”


私は思わず絶句する。


唐突に交わされる婚約。

しかも、従者としての役割を果たさなくてもいいどころか、私の目覚めを促してくれるという特典付きの破格の高待遇。


……またお付きのメイドたちに要らぬ知識を吹き込まれでもしたのだろうか。

荒唐無稽だと思いながらも、私は二の句が継げない。


彼女の大きな瞳に映る自分と目が合った。視線は私を捉えて放さない。



 ……歳、結構離れてるけど?


ようやっと出せた言葉がこれだ。阿呆か私は。


 “おっきくなる。おとなになる”


 いくら君が大きくなっても、歳の差は埋まらないぞ?


20年も経てば、色々な面で今ほど大きな差とはならないのは事実だが。


 “いやなの?”


異存を認めないというよりは、渋る理由が分からないとでも言いたげな口調だった。私の自由意志は考慮されていないらしい。


 嫌じゃないけど……


などと、馬鹿正直に答える私もどうかしているが。


 “……?”


少女は首を傾げていた。



私が上半身を起こすと、少女は体の向きを反転させ、私の腿に座り胸にもたれかかってくる。


 “ね、ぽんぽんして”


 ぽんぽん?


 “あたま。ぽんぽん”


 あぁ、頭ね


私は少女の頭にぽんぽんと手を乗せ、時折撫でたり、あるいは指で髪を梳いたりした。

少女は満足そうだった。



――嫌などということは当然ないにしても、私と彼女では身分の差がありすぎる。

今こうして同じ空間を共有し、触れることが許されていることさえ、本来ならば奇異なことだ。

それが結ばれでもすれば、どうなる。

私の身か、彼女の身分のどちらかは確実に失われるだろうということは想像に難くない。


いくら子どもの言うこととはいえ、安易な返事は出来かねた。



 ……なぁ、散歩でもするか?


私は、ふと思いついたことをそのまま口にした。


黙ってじっとしていると、婚約云々の話の返答を迫られているような気になり、居たたまれない。

ごく適当な提案だったが、少女は目を輝かせ、


 “……さんぽ? する!”


少女にしては珍しく、とても元気な声で返事をした。


以来、朝の散歩が私と彼女の日課になっていた。

邸宅の外に出、敷地内をぷらぷらと、陽が完全に昇るまで、当て()なく歩く。

庭はいつ見ても雪が積もっており、足場の悪さや外気の冷たさには辟易することもしばしばだったが、彼女と手を繋いでいると不思議と辛いと思うことはなかった。



 ただその前に、ちょっと二度寝を……


 “あぁーもぉーさんぽー”


ゆさゆさと肩を揺られながら、私は再び眠りに落ちた。

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