3−2 異変
「はっ、はっ、はっ、」
晴の呼吸と、タッタッタという靴音が、静かな町の中に溶けて行く。
晴はいつも決まったコースを走っていた。
家を出て、山手の方を向き、山麓へとひたすら北に進んでいく。
一部、傾斜のかなり急な場所もあるが、平坦すぎる道よりはむしろ走り易い。
住宅街を10kmほど走ると家の数もまばらになり、登山道の入り口に辿り着く。
山との境界線には巨石で出来た石碑が鎮座しており、これがランニングの折り返しの目印だった。
「よし、」 岩肌に直に彫られた文字に手を触れる。
そして少し休んでから引き返す。いつも通りだ。
“しかし、今日はいつもにも増して人を見かけないな”
この辺りは閑静な高級住宅街で、普段から夜の人通りは少ないのだが、折り返しまでに人とすれ違わないということは初めてだった。
石碑の元で腰を下ろし、一息つくと、街の静謐さがより一層際立って感じられる。
「……」
異様な静寂に包まれていると、自分一人がこの世界に取り残されたのではないかという暗鬼が心に巣食い出す。
すると途端に、街頭の少ない通りに蔓延る闇が、今にも自分に襲い掛かって来るのではないかと、本気で思えてくるから不思議だ。
晴とて、暗闇に対する恐怖心は人並みに抱く。これは人間に、本能レベルで刷り込まれた遺伝子なのだろう。
「……戻ろう」
いつもよりも早めに腰を上げる。
復路でも、やはり人とすれ違うことはなかった。
すれ違いこそしなかったが――
晴は足を止めないまま、ゆっくりと背後を振り返る。
「…………」
甲斐無し。
視線の先には当たり前のように、ついさっき通り過ぎた道が、点々と立つ街頭に照らされて浮かび上がっているだけだった。
「…………チッ」
舌打ちを棄てて、晴は走る速度をやや上げた。
それでも、背中に感じる『気配』が遠退くことはなく、家の近づくまでのしばらくの間、背中に張り付き続けた。
◇
「はぁ……はぁ……はぁ……」
肺が酸素を求めて忙しなく膨張と収縮を繰り返し、気道は痙攣を起こしたかのように震え、喉からは上ずった呼吸音が漏れ響く。
理詠花の店が遠目に見える頃には、さすがの晴でも息を乱さず走ることは困難だった。
到達まで残り数百mと迫った所で、家の前の通りに人が立っていることに気が付いた。
最初は翌日の準備か何かで理詠花が外に出ているのかを思ったが、その人影、店の前に立ち尽くすのみで、微動だにしない。
近づくにつれ、ようやくその人影の全貌が晴にもはっきりと把握できた。
“あれは……!?”
全身をすっぽりと覆い隠す濃い灰色の外套。
あのローブには見覚えがあった。
ローブの人物は店の入り口に正対し、フードに飲み込まれた頭部は、わずかに上を向いている。
顔を見ることは叶わず、視線の先を読むことは出来ないが、どうやら二階を見上げているように見える。
晴は重くなった脚の回転数を上げ、地面を大きく蹴った。
そして、店の前まで一気に詰め、ローブに向かい、
「……誰だっ!!」
「!?」
その声にローブは反射のように一歩飛び退いた。
そして、晴の存在を確認し、さらに驚いたような反応を見せる。
晴はすかさず戦闘の構えを取る。
晴が鋭い眼光を据えて睨みつけると、ローブはたじろいだ様にじりじりと後ずさる。
対峙することで、目の前の人物が、昨日交差点で見た外套の者と酷似していることを、晴は感じ取った。
しかし、ローブに一切の身体情報を遮断され、この者の体格から性別に至るまで、詳しいことは認識出来ない。
唯一分かったのは、身長が晴よりもかなり低いということと、外套の端から見えたズボンの裾と靴が銀色だということくらいだった。
「……何者だ」
「…………」
「弁天組の人間か?」
「…………」
「何の用だ。ここで何をしている」
「…………」
ローブは答えない。
体を晴の方へと向けて、ただじっとしているだけだ。構えを取ろうともしない。
晴は思案する。一気に間合いを詰めて、この者を捕らえるべきか。
この者が本当に敵かどうかは分かりかねるが、それを判断するのは捕らえてからでも遅くない。
大股ならば2歩で優に届く距離だ。相手が隙を見せている今のうちに飛び込むのも一つの手だが――
しかし、相手がどんな手の内を隠しているかは全く分からない。
外套の下に凶器が潜んでいる可能性は十分にある。いや、そうだと考えて然るべきだろう。
不用意に近づき、飛び出した暗器に腱を切られでもしては致命的だ。
思惑の読めない相手とは実に戦いにくいものだ。
「……あっ!」
逡巡による一瞬の隙を読まれ、ローブは脱兎の如く駆け出す。
「待てっ!」
その背に声を掛けるが、ローブ姿はすぐに闇に溶けて見えなくなった。
「…………なんだったんだ」
闇に投げたその言葉に応える者は誰もなかった。
ローブの人物のことを、晴は理詠花や琳には話さなかった。
ヘタに話し、二人の不安を煽るのは避けたかったからだ。
脅威が自分にだけ向けられるならば、それは自分で対処すればいいこと。
もし脅威が二人に向いたとしても、自分が必ず未然に防げば何も問題は無い。
そんな風に思っていた。
結果から言えば、事態は既に、晴一人でどうこうできるものでは無くなっていたのだが、それをこの時の晴が知る由はなかった。




