3−1 閑話②
一方で聴者の晴は、
「すごい…………。すごい、琳さん!知らなかった……。琳さんがそんな選ばれし人だったなんて……っ!」
いいカモだった。
「ええ~そんなことも~あるような~ないようなあ~えへへ」
晴の無垢な羨望の眼差しに、琳は喜びと照れになじられてくねくねと体をよじる。
「理詠花さん、これはぜひ見に行きましょう。見に行くべきです!行かないと損ですよ。こんな将来有望な娘さんの雄姿を見ないなんて、こんな勿体ないことはありません。琳さんは、いずれ導く存在になるかもしれませんよ!?」
「もぉー晴くんったら~。分かってるぅー」
「おい、琳。いい加減に晴くんにデタラメを教えるのはやめなさい。彼が今後生きにくくなったらどうする」
娘に諫言する母を尻目に、晴は夢中で琳の手を取って、
「……そうか。やっと納得がいった。琳さんの声がどうして、こんなにも心に響くのか」
「え、あぁー、――うん……」
琳は思わず目を逸らす。琳にとっても晴のこの反応は予想外だった。
琳の言葉に何ら懐疑せず、得心を抱く晴を見て、琳も一抹の後ろめたさを感じたものの、自らの快感を捨てて、晴の救われたような様子にわざわざ水を差すというのも、琳には出来かねた。
「是非見に行きましょう!理詠花さん!」
「ふむ。……まあ、一日くらいなら店を開けても問題無かろう」
「やったー!」
琳と晴は手放しで歓喜した。
「そうだ。休みで思い出したが、私も伝える事があった。明日の夕方から丸一日ほど、留守にする」
「え、そんな急に?」
「ああ、済まないが、家のことは任せた」
「また出張?」
「ああ」
「ふーん」
自営業ながら、理詠花は出張で店を開けることがたまにあった。
曰く、材料の調達や、ある特別な客に商品を届けたりということを行っているそうだ。
大抵は1日2日で戻って来るが、詳しい行き先を教えることはなかった。
神崎家では、晴がくる以前より、理詠花のたまの不在は既に当たり前になっていたらしく、琳が母の所在を気にする様子もなかった。
「明日は午前で店も閉める。明後日も休みにするだろう。晴くん。急で悪いが、たまの休みだ。ゆっくり養生してくれ」
「あ、はい」
休みなどもらっても困るだけなのだが…………そんな本音を漏らすことなど、晴には出来なかった。
◇
話し終えると晴は一度部屋に戻り、動きやすい服装に着替え、一人で玄関に向かう。
晴が日課にしているのが、夜のランニングだった。
戦うことに一定の自信は有していたが、残念ながら、今の生活では体を頻繁に動かす事は無い。肉体は鈍る一方だ。
琳や理詠花を守れるだけの強さ、それこそが今の晴を支える重要な存在意義の一つである以上、戦う力を鈍らせるわけにはいかない。
走ることが強さを保つことと直接的な関係を持つかは定かでは無いものの、何もしないよりは格段にマシであることは明らかで、かつ、流れる汗は内在するストレスもまとめて一緒に排出してくれるため、ランニングは晴に取っては欠かせないルーティンの一つになっていた。
外に出て、ストレッチをしていると、
ガチャ
玄関戸が開き、
「晴くん?」
「え?琳さん?」
琳が顔を覗かせた。
「走りに行くんだ」
「はい。……どうかしましたか?」
「……晴くん、丁寧語」
「あ。すみま……ご、ごめん、つい」
「もう、晴くんったら。早く慣れてよねー?」
「はい、すみま…………ごめん」
「……」
「……」
「……んふっ」
沈黙のにらめっこで、最初に吹き出したのは琳だった。晴も釣られて笑うってしまう。
そしてしばらく二人で笑いあった。
理詠花に見られれば、また『胃もたれを起こしたかのような顔』をされるんだろうな、などとどこかで客観的に考えながら、それでも二人とも笑いが止まらなかった。
『可笑しさ』とはまた別の、心の底にある暖かいものに腹部をくすぐられているような奇異な感覚が溢れ、二人は対峙したまま笑い続けた。
「あ~あ、おかしい。あははっ」
「僕、こんなに笑ったの、久しぶりだ」
「あたしも~。ばかみたいだね、あたしたち」
琳が呼吸を整え、目尻を拭う。
「で、どうしたの?琳さん」
「あ、うん。ちょっと晴くんに聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「うん。えっと、さっきお母さんが、明日は午後からお店お休みにするって言ってたよね?でさ、晴くん……明日のお昼からって、何か予定あるの、かな?」
「え、予定?……いや、特に何もないけど」
予定などあるはずが無い。むしろ、どうやって時間を潰すか悩んでいたくらいだった。
「だよね!じゃあさじゃあさ、その、よかったら……ちょっと買い物、付き合ってよ。あたしも、明日は顧問の先生がさっき言ったステージの打ち合わせとかでお休みで、部活ないんだ」
「買い物?もちろんいいけど、」
「そう?よかった~」
晴の快諾に琳は安堵を漏らすが、元より、琳にお願いに対して晴に是非など無い。
「重い物でも買うの?」
「えっ?ううん、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ何を買うの?」
「何って……特に決めてないけど」
「? 決めてないのに買い物?」
「……っ! いいの!とりあえず行くの!行ってから考えるの!」
「??」
「と、とにかく、明日約束だからねっ!」
「う、うん」
琳は勢いで晴を押し切って、すぐに家の中に引っ込んでしまった。




