0-2 「葛藤」
ガチャリ、と言う聞きなれた音。
と同時に、私の脳内に唐突かつ不本意な目覚めの信号が流され初める。
そのシグナルは、弛緩状態の私の脳神経を無遠慮に駆け巡り、無理矢理に私の覚醒を誘発させようとする。
ピリピリとした電流にも似た刺激が脱力した全身を蹂躙し、休息中の体は強制的に始動を余儀なくされた。
私は目覚めた。そして、薄汚れた天井を睨みつける。
ああ、何と不快な目覚めだろう。
こんなことならば、いつものように玩具にされながらじわじわと覚醒する方が万倍も心地がいい。
私は上体を起こし、ぼそぼそと無効のスペルを詠んで、ドアに仕掛けた発信術式と接続されたままの脳内神経端子を、半ば乱暴に解除する。
試しに使用してみたものの、こんな方法には金輪際頼りたくない。その日一日の全てを無為なものにしかねない目覚めだ。
“あ、……おきてる”
扉の方に視線を向けると、少女と目が合った。ドアノブを握り、半開きになった戸から覗き込むように私を見ていた。
……そこで何してる?
“……じゅんかい”
巡回って……
この子はつくづく、身分に合わない細事が好きなようだ。
何を見回りに来たんだ?
“……ちゃんと、ねてるか”
毎日毎日私の安眠を奪い去ってきた者が良く言う。
“どうして、おきてるの?”
……こういう日もある
君が部屋に入って来たからだ、とは言わなかった。
ドアに仕掛けたのは、単純な感知型術式の一種。
本来は外敵の侵入などの察知に使用する基礎魔術の応用で、ドアが開いた時に、神経系に直に信号を送るよう設定してある。
もっと魔術の技巧が高ければ、ちゃんと体に馴染む構造を組めるのだろうが、私の程度の腕では、負荷も不快感も伴うお粗末な経路にしかならない。
私の返答に、少女はつまらなさそうに“ふーん”と答えた。
彼女はそのまま部屋に入ってき、私のベッドに腰掛けた。……巡回はどうした?
さも当たり前のように私のベッドによじ登り、私の脚の間に座り、背を私に預けてくる。
長く麗しい銀色の髪がふわりと揺れ、きらきらと妖しい光を散らす。
それはまるで、純度の高い魔力の結晶が、昇華の際に放つ眩い閃光のようだった。
“…………”
少女は無言で振り返り、私を見上げる
…………?
そして、頭を差し出すような仕草を見せる。
何か、私の次のアクションを待っている様子だった。
私は伸びをして、体を目覚めさせる。同時に腰の上の少女の両わき腹を抱えて、
“わっ……”
小さな体をベッドの下に降ろした。
少女は一瞬、戸惑いの表情を浮かべた後、再びベッドに上ろうとしたが、私はそれを制止した。
もうこの部屋に来てはいけないと、言われなかったか?
これは彼女の父親からの厳命だったはずだ。
もしこの現場を取り押さえられれば、もう彼女と顔を合わせることすら禁止されるかもしれない。
勿論、それだけでは済まされないだろうが…………それ以外のことならば如何なる苦痛を伴おうとも耐えられないことはない。
私の諫言が気に入らなかったのか、少女は大きな丸い目を細め、ジトっと私を睨んで来た。
“わかってるもんっ”
唇を尖らせて、実に不服そうだった。
父の耳に入れば、彼女とてこっぴどく叱られるだろう。しかし、そんなことは当然承知しているということなのだろうか。
私は苦笑するよりなかった。
……起こしに来てくれてありがとう
私はベッドから抜け出して、そっぽを向く少女の頭を撫でた。
彼女は私の微笑みに釣られる様に、表情を柔らかくした。
まぁ許してやってもいい。そう言われているように感じた。
私は本当に甘いな。自分に。
手早く着替えて、彼女の手を引いて自室を出る。
ほら、もう戻りな。直にみんなも起き出すぞ
言ってから、そうか今日はやけに早いと思ったら、他の者が眠っている間に私の元へ来るためだったのか、と気づき、意外にも賢しい彼女に感心した。
“……おさんぽ、いこ?”
聞きなれた提案だったが、こんなにも恐る恐ると話す少女を見るのは初めてのことだった。
外は寒いぞ?
“だいじょうぶ。ふく、いっぱいきる”
こんな時間に出ても暗いだけだ
“ひ、もやす。あかるい”
魔物が出るかも
“……たおす。ひでもやす”
炎蜥蜴か、君は。
少女はやけに強情だった。行こう行こうと私のズボンの裾を引っ張ってくる。
私は腰を落とし、少女と目線を合わせて言い聞かせた。
お父さまに言われただろう?庭は危険だから出てはいけないって
少女の父曰く、ここ最近、庭園には獰猛な魔物が出現するとのことだ。
もっとも、よくよく話を聞くと、どうやら魔物が出るというのは本当らしいが、決して危険種ではないそうで、むしろ人を見ればすぐ逃げ出すような臆病な種らしい。
……つまりは、彼女を庭に出さないための都合の良い口実というわけだ。
少女はまたしても不満そうに唇を尖らせる。
出来ることならば彼女の言いなりになりたいが、散歩などして誰にも知られずに帰ってくるというのは流石に無理があった。
心苦しが、ここで退くわけにもいかない。
本当に魔物が出てくるかもしれないぞ?
“……”
食べられてしまうかも
“……”
私は少女の父の虚言を借り、怖がらせるつもりで言ったのだが、少女の反応は私の意図とは異なったものだった。
“…………まもって、くれないの?”
ッ……!
私は言葉に窮した。
私を真っ直ぐと見つめる少女の目に、初めて疑いの色が差す。
…………そんなことあるものか。守ってやるよ、絶対に。当たり前だろ?
彼女の大きな瞳に吸い出されるように、喉の先の方から、そんな言葉が零れ落ちた。
“じゃあ……”
光を取り戻しかけた彼女の瞳に、暗幕を降ろさなければならないことを、私は心底呪った。
悪い……。でも、やっぱり散歩にはいけない。私は、お父さまの言いつけを守らないとダメなんだ
少女の表情が暗転する。私は奥歯を噛み締めた。
じゃないと、君と会うことすら出来なくなってしまう
少女は俯いたまま、私の言葉を――さて聞いているのか、それとも聞かないようにしているのか。
どちらにしても、私には少女の願いを拒む以外には選択肢はなかった。
済まない……
私は少女を抱きしめて、頭を撫でた。彼女は私にされるがままだった。
少女を彼女の部屋に返した後、私は自室に戻った。そして、そのまま夜まで過ごした。
次期当主である少女の父は、この数日で、私に家の中でのありとあらゆる行為を禁止していった。
今の私にとっては、この狭く埃っぽい自室のみが残された居場所だった。
特別な場合を除いて、部屋の外に出ることさえ禁じられていた。
明言こそされていないが、少女が私と接触することを避けるためであることはすぐに察しがついた。
元々異分子であった私を、唯一慕ってくれていた彼女から引き離すことで、いよいよ存在しない物として扱う腹積りらしい。
ベッドに身を寝転がると、さっきまで上に乗っていた矮躯を思い出してしまった。
勿論、彼女にも、私に関わるなという父からの言いつけがあっただろう。
この日以来、少女は私に不用意に関わることをしなくなってくれた。
それでも彼女は、人目を盗んで毎朝私を起こしに来た。
毎日毎日、私は彼女を乗せて目覚めるのだった。
これほど目覚めが恋しいと思った事は無かった。
やがて、目覚めの瞬間だけを、私は生きがいに思うようになった。
しかし、少女が私と会っていることは、間もなく父にも伝わった。
戦争が激化し、国家連盟が大規模な募兵を行っているという噂を聞いたのも、ちょうどその頃だった。




