2-5 記憶と存在証明②
もうすっかり日も落ちて、街頭や車のライトの明かりが目立つようになった頃。
二つ目の大通りの交差点で信号待ちをしている時のことだった。
晴がぼんやりと往来を眺めていると、晴たちが待っている所の横の、青になっている方の横断歩道の向こう岸に一つの人影を見た。
その人影は黒っぽいローブのような外套を纏い、顔が隠れるほどフードを目深に被っていた。
青信号の前で立ち尽くすその姿は、忙しなく行き交う人々の流れから浮き出る異質さを帯びて居り、晴は遠目ながらもその姿に大きな違和感を覚えた。
もう一つ気になる事は、その人影が真っ直ぐと、こちらの方向を見ている様に見えたことだ。
顔は外套に隠れて一切見えないのだが、体の向きは一直線に晴たちのいる方を向いている。
それでいて、目の前に青信号は渡ろうとせずにいた。
晴が警戒心を増して人影を注視していると、
「晴くん?」
「は、え?」
「どうしたの?信号青になったよ?」
「あ、あぁ、うん」
琳に促され、晴は帰途に意識を戻す。
最後に一瞥した赤信号の向こう側には、先程の人影はもうなかった。
◇
「おかえり」
軽く夕食の買い物をして帰宅すると、既に理詠花が閉店準備を始めている頃だった。
「ただいまー」
「ただいま帰りました」
二人は横着をして店の方から家に入る。
「あたし、すぐにご飯の支度するね」
と、琳は鞄を階段下に置き、制服のまま台所へと向かった。
晴も即座に理詠花の手伝いに入る。
棚を動かしたり、外に出ているプランターをしまったりと、閉店作業には力仕事もある。
「悪いね、晴くん」
「いえ、これは僕の仕事ですから」
「ふふ、そう思ってくれているのなら、私としても心強い」
手早く作業を済ませたところで、
「晴くん。例のモノは買って来てくれたかい?」
晴は首肯と、実際の品を見せることで返事をした。
「確かに。ありがとう」
理詠花は晴から小瓶を受け取って確認すると、すぐに封を開けて、
「よし。――では晴くん、飲みなさい」
と、瓶の口を晴に向けて差し出して来た。
晴はしばらく、中の白い錠剤たちを眺めた後、
「僕は、いいです」
「ん?『いい』とは、どういうことだい?」
「えっと、今日は、飲まないでおきます」
薬屋で渡した数枚の紙幣が今、晴の脳裏にフラッシュバックする。
残念ながら、晴にはまだ現代日本での正しい貨幣感覚は身についていない。
が、それでも、この目の前の小瓶の一錠一錠が、通常では考えられないほどの高い値を付けられていることは十二分に理解出来ていた。
それを思うと、易々と薬を消費してしまうことは憚られた。
「何故?もう今日の分は飲んだということかい?」
「いえ、そういうわけでは……」
理詠花は怪訝そうな表情を深めた後、何かに合点がいったようで、
「晴くん。遠慮が必ずしも美徳とは限らないとは、以前に教えたはずだが?」
溜め息を吐きつつ、呆れ顔で晴を見つめる。
本当に、理詠花には読心の能力が備わっているのではないか。時々、本気でそう思うことがある。
「これを飲まなかった日、君は自分がどうなったのか、覚えているか?」
晴は俯き加減に、「はい」と返事する。
晴は理詠花の勧めで、もう何ヶ月もこの薬を恒常的に摂取しているが、一日だけ口にしなかった日があった。
遠慮と、『もう自分に投薬の必要は無い』という過信からの行動だった。
そして、それは正しく過信であり、結局その日、晴は40度近い高熱を出して、倒れた。
「晴くんの気持ちはありがたいが、君は気遣う部分を誤っている。君に倒れられる方が、私たちにとってはよっぽど一大事だ。お金のことだけではない。私たちの心境的にも、日々の生活的にもだ。わかるね?」
全く同じ科白を、熱の下がりきらない体で聞いた覚えがある。
理詠花は、複雑な表情の晴を見ると苦笑し、ほら、と錠剤の摂取を促した。
晴は小さく「いただきます」と言って、取り出した白い一錠を胃に落とした。
不服だった。薬に頼って生きなければいけない自分が、憎かった。
この薬を飲んだからと言って、何か体に変化を感じるわけではなかった。
精力が溢れ出すわけでも、脳が冴えわたるわけでもない。
しかし、摂取しなければ、まともに動く事すらままならぬ体になってしまう。
人並みの『生』を、薬に縛られているわけだ。
空恐ろしい話だった。
とは言え、現時点では晴はまともな生活を送る事が出来ている。
副作用を感じる事も全くない。
高価に見合うだけの効果がこの薬にはあるようだった。
「理詠花さんは、どうして僕にこんなに良くしてくれるんですか?」
そんな科白が口をついて出た。
「ふむ。君には私が、行き倒れた若者を見殺しにしたり、野に放り出したりする、非情な人間に見えるのかい?」
理詠花は冗談めかして答えた。
「いえ、そういうわけでは……」
「ふむ。まあ、晴くんにしてみれば、『自分の世話をすることが私に何の利をもたらすのか』を想像できないのも、無理からぬことだろうね。自分の貢献が、受ける待遇に不釣り合いであると感じているのだろう?」
「はい……。僕のような、どこの馬の骨とも分からない男を、家にまで住まわせてくれるなんて。勿論、そのことに感謝はしていますが……」
対価を求められない善意を向けられることは、時に、心にむず痒い空白を作り出す。
「確かに、晴くんには分からないことが多い。晴くんが知りたがっている、私たちと晴くんとが出会う以前のことは、残念ながら、私にも何も分からない。……しかし、」
理詠花は、思考を巡らせるよう、視線を泳がせる。そして、
「この一年間の晴くんのことなら、もう十分に知っている。君は心優しく、義理堅く、そして真っ直ぐだ。腕も立つし、よく働いてくれる。女二人で暮らしていた時と比べると、助かっていることも多々ある。私が、『ただの同情』や『人助け』だけで、君を置いてるわけではないのは分かるだろう?」
言い聞かせるように、晴の目を真っ直ぐに見て言った。
「そしてなにより、」
言葉を切って、晴の胸をトンと小突く。
「娘が、君を気に入っている」
何か、心臓を強く押されたかのような衝撃を感じた。
理詠花はニコリと笑い、
「それだけでも、君を追い出さない理由としては十分なんだ。私にとってはね」
その言葉が建前でもなんでもないことは、晴にも何となく伝わった。
しかし、その言葉の真意はどうにも掴めなかった。
「そんな難しく考える事は無いよ。私が望むことはただ一つ。晴くんが今のまま、何も変わらずこの家で暮らしてくれることだけだ。それが満たされる限り、君は私たちの家族だ」
理詠花はそれだけ言うと、言葉を失う晴を残し、晩御飯の匂いに釣られるように、ダイニングへと歩いて行った。




