2-5 記憶と存在証明①
「もうっ!ほんと信じらんないっ!みんなしてからかって!」
帰路の途中でも琳の憤懣はなかなか収まらなかった。
顔を赤くし、肩を怒らせて歩く琳を見ていると、晴は頭を下げずにはいられない気持ちになる。
「すみません、琳さん」
「え?何が?晴くんが謝るようなことないじゃない」
「いえ、僕があの場に現れたせいで、琳さんが揶揄われる原因を作ってしまいました」
「それはあの子たちが悪いの!晴くんは何も悪いことしてない!違う?」
「ですが……琳さん、怒っていました。やはり、僕のような得体の知れない男と関わっているというのは、琳さんへの周りからの心象を悪く……」
「もう!誰もそんなこと言ってないでしょ!あれは、ちょっとからかわれてムカついただけで、」
「しかし事実です。琳さんの隣に立つことが、琳さんにとって良くないことを引き起しかねない、ということなのではないでしょうか」
晴もこんなことを自分の口から発したくはなかった。
それでも、そう思わざるを得られなかった。
そして、琳の怒りはますます増幅される一方だった。
「だから!そんなこと誰も思ってないってば!なんでそんなに自分を卑下するの!?」
「でも……」
「でもじゃない!あたしは晴くんのこと、迷惑だなんて一度も思ったことない!」
琳は強く晴の言葉を遮る。
晴に向き直り、頭一つ低い目線から、真っ直ぐに晴の瞳を見て、体の奥から湧き出る感情に押し流されるように琳は言葉を紡ぐ。
「もう一年も一緒に住んでるんだよ?血のつながってない人と、『迷惑だ』って思いながら、そんな長い間暮らせると思う?……そりゃあ、身元が分からないとか、晴くんが人と変わった部分があるのは分かるよ?でも、それが何?あたしはそんなことで晴くんを評価しない!しないし、誰にもそんなことさせない。だってあたし、知ってるもん。晴くんが優しくて、強くて、あたしやお母さんのことを一番に考えてくれてること、知ってるもん!」
「琳さん……」
いつだってそうだ。
いつだって、琳の言葉、琳の笑顔は晴の中に生まれた空虚を埋めてくれる。
何度彼女に救われたことだろうか。
晴は感謝の言葉も紡ぎだせない。
『満たされる』という感覚に、理性を保つだけで精一杯になる。
「だからあたしは晴くんとずっと一緒にいたいと思ってるし、そんな晴くんのことが―――」
ピタっと、琳の言葉が切れる。
喉に何かを詰まらせたかのように、急に声が止まった。
声だけでなく、琳は唇を尖らせて目を見開いた状態で固まってしまった。
そして、見る見るうちに頬に朱が差していく。
晴の不思議そうな視線から逃げるように俯き、下を向いたまま家の方へと早足で歩いて行こうとする。
「琳さん」
「……」
「琳さん?」
「……来ないで」
「え……?」
「来ないで!!晴くんの、ばかっ!!」
「え、えぇ……?」
琳は晴を置いてずんずんと歩いて行く。
一瞬戸惑ったものの、その背中が言葉通り「ついて来るな」と言っているようにはどうしても思えず、晴は琳の少し後ろを歩くことにした。
晴の気配を後ろに確認しながらも、それから逃げるように歩いていた琳だが、さすがに車が行き交う交差点を、信号無視で突っ切る蛮勇は持ち合わせていなかったようだ。
すぐに晴は琳の真後ろまで追い付いた。
帰宅ラッシュの大通りの喧騒に紛れて、琳は小さくこんなことを尋ねた。
「ねぇ、晴くん。記憶がないのってさ…………やっぱり、怖い?」
「え?」
晴は思わず尋ね返す。
琳が晴の記憶について言及することは非常に珍しいことだったからだ。
晴は、有り体に言って記憶喪失だった。
記憶はちょうど一年前から現在までのものしかなく、それ以前のことは殆ど、全くと言っていいほど、憶えていなかった。
思い出すことが出来たのは、当時18だった年齢と、『ハル』という名だけ。
それ以外は、幼い頃特有の判然としない曖昧な記憶のみで、自分の出生、親の顔や名前、兄弟姉妹の有無、生い立ち、今この町にいる理由まで、物心ついてから今までの自分の人生が、頭からすっかり抜け落ちてしまっているという状況だった。
晴が琳と出会ったのは一年前。
行き倒れ、衰弱し切っていたところを理詠花に助けられたのがきっかけだった。
「自分が何者か分からないのって、不安?」
「それは……」
晴は言葉に詰まる。図星以外の何物でもなかったからだ。
理詠花に拾われてから数か月間の晴は酷い有様だった。
容態はなかなか回復せず、身体能力の低下から来る不安と、記憶を失っていることに対する恐怖から、うつ病とノイローゼを併発しているような状態にあった。
よく一年足らずでここまで正常な状態に復帰できたと、晴自身驚いている。
それも、理詠花の献身的な看病や、琳の精神的な支えがあったからだ。そのことを思うと、晴は二人に対する感謝の念に堪えない。
「ごめん、変なこと聞いて。……うん、不安だよね。絶対。自分がその立場だったらって思うと……それだけで、怖い」
琳は噛み締めるようにゆっくりと言う。
「当たり前だよね……。いくら時間が経っても、その怖さが薄れることはあっても、癒えることなんて、あるわけないよね……」
信号は青に変わったが、琳は歩きだそうとはしなかった。
琳の言葉は、全てが真実だった。
晴は常に探し続けていた。
自分という存在の在り方。在るべき理由。
自らの意識や、生そのものを支える根源的な存在理由。
空白を埋める答えについていつも考え続けていた。
しかし、幾ら頭を巡らせども、腑に落ちる答えは見つからない。
抜け落ちた部分を自分の力で埋めるには、ピースの欠損が多すぎるのだ。
この一年間、そのことに恐怖しない日は無かった。
「あたしは、晴くんの居場所を作ってあげられているのかな……。晴くんの欠けたピースを、埋められてるのかな……」
琳が何かを呟いた。その小さな声は晴の耳には届かなかった。
「そうだ。……ねぇ、晴くん」
「はい?」
「その丁寧口調、やめない?」
「……口調ですか?」
「そう、それ」
琳は晴の口元を指差して言う。
「よく考えたら、なんでそんなかしこまった話し方するの?あたし、晴くんより2つも年下なのに。さっき、あの子たちに言われた通りだよ」
「何で、と言われましても……。琳さんや理詠花さんには感謝してもし切れないほどの恩があります。置いて頂いている身として、けじめはしっかりとつけなければと……」
「そんなのお母さんにだけでいいじゃん!家主はお母さんなんだし」
「でも……」
「でもじゃなーい!あたしがイヤなの!傍から見たら、あたしが偉そうぶって晴くんに敬語使わせてるみたいじゃん!」
ね?ね?、と琳はぐいぐいと迫ってくる。
頑固なところのある琳のことだ。こうなっては晴が首を縦に振るまで放してはくれないだろう。
「わか……った。もう余所余所しい話し方はしないよ」
その言葉を確認すると、琳は満足気に微笑み、再び信号が青に変わった横断歩道をスキップでもしそうな勢いで進んで行った。
なかなかすぐには口調を変えることに慣れない晴は、帰り道の間中ずっと、琳に砕けた口調で話す練習をさせられることになった。




