2−3 薬屋②
「やあやあ!ハルくん!久しぶりだね!」
声と共に現れたのは、眼鏡をかけた白髪の細身の男。
「どうも……」晴の苦い挨拶にも、男は一顧だにせず、
「全然顔を見せないからどうしたのかと思っていたんだよ!元気にしていたかい?」
男は満面の笑みを浮かべ、積まれた段ボールをその長い脚で蹴散らしながら、滑るように近づいてくる。
「いやぁ、久しぶりにハルくんに会えて、僕は今感動しているよ!今日は素晴らしい日だねぇ!」
晴の目の前で、大仰に両腕を広げて天を仰ぐ。かと思うと、
ハグッ
「!?」
長い腕が晴の背中をするりと滑り、生暖かい感触が全身を覆う。
「は!?ちょっ、何を!?」
「ハルくんの温もりを感じている」
背筋が凍りついた。かつてこれほどまでに明確な悪寒を感じたことがあっただろうか。
「止めて下さい……っ!」
「やだね。止めないよ」
男はとぼけた様に言い、この意味不明で脈絡の無い抱擁を継続する。
『やはりこの男は頭がオカシイ』と、晴はこの感覚に半年振りに再会した。
「離れて、下さいよ……っ!」
「離れないね。あと30秒経つまでは」
「くそっ、離れろ、このっ」
晴は目一杯の力で引き剥がそうとするが、この男、痩躯に似合わず力が強い。
一人では手に負えず、援護を求める視線を祭に向けたのだが、祭は男の後ろで立ったまま静観するのみで、微動だにしなかった。
いや、静観とは言い難いかもしれない。
晴と男の抱擁を見守る祭は、その頬を少し赤く染め、憧憬と羨望を目に据えた恍惚とした表情を浮かべている。
見てはいけない物に触れた時特有の悦に浸っているようだった。
“主が主なら従者も従者か……っ”
晴が薬屋に立ち寄りたくない“最大の元凶”は、きっちり30秒が経過するまで、晴の熱を奪い続けていった。
このふざけた男が薬屋の店主だった。
男の名は“スラウ”。
――と晴には名乗っていたが、晴は彼のことを、『怠惰』という言葉をもじり、畏怖と侮蔑を込めて“スロウ”と呼んでいた。
祭に店の運営を一任し、自分は得体の知れない研究に没頭しているのだから、怠惰以外の何物でもないだろう。
長身、痩躯、白髪、眼鏡、白衣。スロウの見た目を示すには、こういった言葉が挙げられる。
白髪と言ってもスロウの年の頃は見た目には30歳前後くらいで、少なくとも理詠花よりは若年に見える。
白髪も老化によるものというよりは、そもそも地毛が白いようだった。
年齢不詳、出自不詳、“スラウ”という名も本名か怪しい。そんな男が、この薬屋のオーナーであるというのだから、世の中が如何に狂っているかが分かる。
――そんな異常と関わっていかなければ自分は生きていけないということに、晴は不条理を感じずにはいられなかった。
「よーし、診断終了!元気でやってるみたいだね!」
スロウは白衣を翻し、晴の肩を一つ叩く。この男は『診断』と称し、事あるごとに晴の体に触れようとしてくる。
確かにスロウは“自称”医者であり、晴も実際に体を診てもらったこともある。
しかし、今回の抱擁の様な類の触診は、大抵の場合はただの悪巫山戯だ。
「やはり、若い男子から溢れる精気は良い。ハルくんからも、ちゃんと生きている匂いがしたよ」
この言葉に鉄拳を返さなかった自分の自制心を、晴は褒めてやりたかった。
「僕は早く用件を済ませたいんですが」
「用件?あぁ!そうだったね、済まない。じゃあ診断の続きをするから、まず服を脱いでくれるかな?」
「本気で殴りますよ?」
「是非!」
思わず重い溜息が出る。笑顔で左の頬を差し出しているスロウに対する怒りは、徐々に色々な事に対する嘆きに変換されていった。
「先生……ハルさんはお薬をお求めなんですよ……」祭がスロウに耳打ちする。
「ん?薬?」
「はい……。例の……」
「ああ、そうだったのか。また具合が悪くなったのかと思ったよ。例の、というとGeinoxのことだね。リエカから頼まれたのかな?」
スロウは一度奥に引っ込み、またすぐに顔を出した。手には沢山の白く丸い錠剤が詰まったガラス瓶が数個。
「はい、お望みの品だ。お代は――」
代金は基本的にスロウの言い値だった。となれば、当然、安価なわけがない。
晴は理詠花から渡された紙幣を何枚か取り出し、祭に渡した。
「いつも……ありがとうございます……」
「まいど!」
祭は深くお辞儀をし、晴は笑顔のスロウから数万円の対価を受け取った。
「リエカさんにも……宜しくお伝えください……。ハルさんも……お暇ならまた……いつでもいらしてください……。大したおもてなしは……出来ませんが……」
「ええ。また来ます。祭さんに会いに」
『祭さんに』という部分を強調して言う晴に、祭は「ありがとう……ございます……」と微笑んだ。真意はどの程度伝わったのだろう。
「ああ、そうだ」
店を出る直前、
「ハルくん。あまり激しい……、『運動』はしないほうが良い。でないと、また倒れることになるよ」
これがスロウの診断結果なのだろうか。晴には激しい運動をした覚えなどなかったが。
黙って一礼し、晴は薬屋を後にした。




