雨の降る街に
それは少し肌寒い、夏にしては肌寒い朝だった。窓の外からは雨の音が聞こえる。子供の頃は、雨の日は碌なことがないと嫌いになったものだ。雨の日に限って車に水を撥ねられる、大切に抱えた本はびしょ濡れになる。それよりも何よりも雨の日は自分自身が風邪をひきやすかったのであった。
その日も用事があった。私用で街に本を探しに本屋へ行く。それが唯一の趣味でもあった。街の本屋には色々と特徴があって巡るのが楽しかった。
雨という所為もあるだろう。大通りにこそ人は多けれど、一本通りに入ってしまうと人の数もまばらだった。
「今日も、お目当ての本はナシか…。」
確かに、ネットで調べれば容易に手に入るだろう。だけど、本屋でじっと血眼になって探して、あったという時が気持ちいいのだ。
そして店を出る。雨はまだ降り続いている。
ふと一筋の強い風が通りを吹き抜けた。
余りにも強い風なので顔を手で覆ってしまう程であった。風が治まると、さっきまでそこに居ただろうか、見覚えのない白いワンピース姿の少女が傘もささずに立っていた。
その姿が余りにも可憐で、憐憫の情を駆らせるものだから、つい話しかけようと足が動いていた。心なしか、傘が大きく見えた。
「そんな恰好じゃ、風邪ひくよ。ほら、入りなよ。」
彼女は、一瞬驚いた顔で僕を見て、それから微笑んだ。
「ありがとう。あなたは人間よね?」
変な質問をするものだ。大体が自分も人間なくせにと思いつつも、なぜだろう。彼女の隣にいると懐かしいような落ち着く感じがこみ上げて優しい気持ちになれたのだった。
「モチロンじゃないか。じゃなかったら何だというんだい? 僕が化け物にでも見えるかい?」
彼女は、クスクスと笑った。
「うぅん。いいえ、ごめんなさい。ただ貴方のようなヒトは初めてだったから。みんな私を見て見ぬ振りよ。」
それもそうだろう。こんな雨の中、裏通りに傘もささずに佇む少女。そんなものを見つけて万が一厄介なことにでもなったら…
そこまで考えて、
「でも僕は話しかけてしまった。どうしても君を放っておけなかった。」
少し気障だったろうか? だけど僕は少女の顔を見られなかった。
「おかしな人間ね。」
彼女はよく人ではなく人間という言葉を使った。
「イッタイ君はこんな所で何を…? そんな恰好じゃ寒くはないか? 家はどこ? 送ってあげようか。」
「何をしていたか…ね。理由なんてあるのかしら? 多分貴方を待っていたのかも。寒い? 分からないわ。寒いのかしらね。 家は…」
そこで彼女は言葉を詰まらせた。
「ココにはないわ。もっと遠い場所よ…もっと別の場所に…・」
「とにかくウチに来ないか?」
気づくと、また気障な言葉をつぶやいていた。全く普段は言わないような科白が今では恥ずかしくはなかった。
「そうしないか? 君さえよければ。」
少女は小さく頷いた。
そして僕らは雨霧の向こう側を目指した。
家に着いて、服を乾かす。
彼女は今、バスタブの中。
なぜだろう。どうしても彼女を想うと今までの自分でいられないような、もう一人の隠れていた自分が今の自分を蝕んでいるような気がする。
「拭くものは…? 」
彼女は、いきなり目の前に、しかも裸で出てきた。だから、さすがに驚くだろうと自分でも思っていたのに、その瞬間、見惚れてしまった。別にソレは初めてでは無かったし、別段特徴があるわけでもなかったが、それこそ彼女の口癖のように意味もなく見惚れてしまった。
「拭くものは…? 」
彼女の二度目の質問で醒めた僕は慌ててバスタオルを彼女に渡すと、漸く羞恥心が湧き出てきて彼女を直視できなくなった。
「ご、ごめん…。」
「別に…」
ただ そう とだけ彼女は言った
。
「貴方は入らなくていいの?」
いつの間に着替えたのか、多分ぼうっとしていたせいで服を着た音など聞こえなかったのだろう。
「ぼ、僕は大丈夫さ。ずっと傘を差していたし。そんなに濡れてもいないからね。」
彼女は怪訝そうに床に座った。
「ところで、貴方を迎えたいのだけれど良いかしら?」
「迎えるって?」
「交わることよ。」
「いきなり何を言い出すんだい? あって間もない男と君は関係を持つような人なのかい? そんなようには見えないし、何より意味が見いだせない? 僕と関係を持って何になる?」
彼女は窓の外の雨を見遣りながら、
「わからないわ…。 理由なんて必要かしら。 気に入ったヒトと交わりたいと思うのは当然じゃないかしら…?」
つくづく変わった少女だと思った。
「それで、どうなの? していいかしら?」
どうしていいか分からなかった。
「分からない。君は何者なんだ? 君は一体…?」
突然、体が宙を舞ったかと思うと、ベッドに横たわっていた。
「いったい、君は…?」
「じれったいわね…。
するわ…。」
その後の記憶は定かではない。
気づくと彼女は窓の外の雨を眺めていた。
「ねぇ。貴方たちは死ぬんですってね。」
「何を言い出すんだい。」
「いいえ、おかしなこと、と思って。」
「君だって同じだろう?」
「分からないわ…。」
「分からないって… 君は人間じゃないか?」
急に彼女は顔を向けて、微笑んで言った。
「本当にそうかしら…ね?」
その笑みは、僕の心奥深く突き刺し、核心に触れたかのように心が冷たくなった。
「私が人間だろうと無かろうと…貴方は私を放っておけない。そうじゃないの?」
言われてみれば彼女を助けようと思ったのは、彼女を見捨てたくはなかったからだ。
「そうだね…。」
朦朧としていたのは意識だけだったのだろうか…。
「そろそろ、行かなきゃね…。色々と世話になったわ。」
「どういうことだい?」
「忘れていて当然よね。最後に思い出させてあげる。」
そういって彼女が口づけをした途端、意識が遠のいた。
そこは夏の雨雲の下。神社の木蔭に傘を差した一人の少年。
『あれは…私か?』
「おーい、おーい…。あれえ、オカしいなあ。確かにこっちだと思ったのに。」
少年は一人、社にたどり着く。
『そういえば、ここは故郷の神社だったな。確か女神を祀っていたような…。そうか!』
その瞬間、目の前が明るくなった。
「思い出した?」
何もかもハッキリと鮮明に蘇った。あのとき少年だった自分は、普段は閉じられていた神社の扉が開いていたことに興味が湧き、中に入り込んでしまった。中には一つの鏡があった。だけどその鏡がどうにも汚くて、持っていたハンカチで埃を掃ったのだった。そのときの輝きは、それまで見たものよりも美しく、映った自分がなぜか自分でない気がした。その時、外から声がしたので怖くなって飛び出し、傘も差さずに逃げている途中で何をしていたのかを忘れてしまっていたのだった…。
「君はあの時の…。」
「そう…よ。」
「あの日はさすがに参ったなあ。傘を差していたのに、随分濡れてしまって… その所為で熱が二日も続いたんだった。」
「…。」
「鏡を綺麗にしたお礼に来たのか…」
こくりと彼女は頷くと、俯きこういった。
「貴方が鏡に映った時から、いつか会いたいと願っていました。しかし、その時はまだ時期ではなかったのです。そして今日、私と貴方は結ばれました。貴方も神と成り得たのです。」
もう一度、顔を上げると彼女の顔は大人びていて立派な女性になっていた。
「さあ、一緒に行きましょう。私とともに…。」
「悪い。」
咄嗟に、意表を突くかのように、考えもせずに口走った。
「悪いけど、それは出来ない。いくら神になり得たからって、僕はあくまでも人間さ。人間として生まれてきたんだ。人間を捨てるなんて真似したくない。」
一瞬、彼女は悲しんだが、すぐに微笑んで言った。
「分かりました。それでは遠い思い出として貴方の心に残しておきましょう。次起きるときは心の片隅に私を思い出すでしょう。」
すると瞼が重くなって…。
雨の音で目が覚めると、涙を流していた。部屋にはただ一人。湿ったバスタオルを僕は手に握っていた、まだ…温もりを…感じて…。