助けたいという我儘
「そう驚くな。俺は、少し特殊でな。今宵は戦いに来たわけでもない」
「う?」
業刹は奪った命石を新兵衛に向けて放り投げた。ゆるやかな放物線を描き、命石が新兵衛の手元に戻った。呆然と口を開けた新兵衛と澄に、業刹は自分の目的を打ち明けた。
「他でもない。澄を俺に預けてくれ」
「えっ?」
澄がきょとんと業刹を見つめた。
「……何のために?」
新兵衛が声を落として聞き返した。ぎゅっと小さな拳を握った澄の喉が、ごくりと鳴った。
「……それは、澄を……」
業刹の表情が悲しげに歪んだ。
「澄、を?」
新兵衛が身構えてさらに尋ねる。新兵衛は素早く目を配らせて、刀の位置を確認した。刀は枕元に置いてある。
「澄を! この世から消し去る為に!」
意を決した業刹が、力強く言い放った。
「逃げろ、澄!」
「ふぇ? ふえぇっ?」
直後、新兵衛が刀を手に取り腰に引き寄せた。左手で鞘を持ち、右手は柄をすぐ握れる位置に置く、いつでも抜ける体勢だ。澄の大好きな優しくてユルい新兵衛はいなくなり、柳生家の”剣士”としての新兵衛がそこにいた。澄は初めて見せる新兵衛の戦う姿勢に戸惑うばかり。新兵衛は業刹をきっと見据えた。
「俺は、戦いが好きじゃない」
「ほう。貴様は剣の道で高名な、柳生一族の者だろう? それが、ずいぶんとぬるいことを言うのだな」
業刹はゆらりとその身を揺れさせた。ゆら、ゆらと揺れる業刹の体は、まるで実体のない霞のような印象を新兵衛に与えている。新兵衛とて、天下一とも言われる剣豪たちの側で生まれ育った者である。体捌きや纏う空気を見るだけで、相手の力量はほぼ間違いなく予測出来た。新兵衛から見た業刹は。
はっきり言って、”最悪”だった。
これほどの”気”を見せる者など、新兵衛の記憶では兄十兵衛か父石舟斎しかいなかった。しかし、その二人をもってしても、この業刹という”魔物”に抗せるのかが疑問に思えるほどだった。
「し、んべー……?」
新兵衛の後ろでは、澄の不安げな黒い瞳が揺れていた。
「ぬるい、か。兄者に良く言われるよ。でも、まさか魔物にまで言われるとはな」
新兵衛がにやりと笑った。しかし、目はまるで笑っていない。見開かれた目は、瞬きを忘れたように業刹を映していた。
「ふ。それは失礼した。では、もう分かるだろう? 貴様は俺には勝てない、と」
「…………」
新兵衛は答えない。これに答えてはいけない。認めてしまえば、後には敗北が待っている。新兵衛はそのことを知っていた。業刹も、新兵衛にそれくらいのことは分かるであろう力量を感じていた。だからこその問いかけだった。命石は通じない。刀でも敵わない。新兵衛に打てる手は限られていた。
「なぜ、澄を消そうとする? それは……、成仏させるって、意味なのか?」
残された手段は”話し合い”だ。しかし、これは同等の力を持つ者同士でなければ交渉にすらなりにくい。詰まるところ、力の強い者は圧倒的に有利である。最後は力で従わせればいいだけなのだから。
「いや。それとはおそらく違うだろう。言葉通り、”消す”のだよ」
「それは、澄にとって、幸せなこと、なのか?」
新兵衛はちらと後ろを見遣った。
「さぁ、な。だが、少なくとも。俺は、そうだと信じている」
「消えるのが澄の為だと? 澄の為に消すと?」
「そうだ。それが、我々魔性生物の為でもある」
業刹はふっと赤い目を翳らせた。
「ふぅん。もしお前の言うことが本当だったとしても、そんなの納得出来ないな」
「貴様に納得してもらう必要は無い。そうする理由も俺には無い。邪魔だてするのであれば、ただ排除するのみだ」
「俺が簡単に排除されてやるとでも?」
「力の差は明らかだ。貴様の意思など関係ない」
「はいっ! 分かりましたっ!」
「む?」
「澄?」
新兵衛の後ろで、澄が元気よく手を挙げた。
「じゃあ、私が消されれば全て丸く収まるってことですねっ。では、さっそくお願いしますっ」
「な! 馬鹿! 前に出るな、澄!」
「澄……」
澄がずいっと前に出て、新兵衛と業刹の間に割り入った。
「お前、消すとか言われてはいそーですかって聞くのかよ!」
新兵衛は怒っていた。この男が怒る事など滅多にない。新兵衛自身、こんなに腹が立ったのはいつぶりなのか覚えていない。だが、これは澄に対してのものではない。自身の無力さに対しての怒りだ。
「だって。そうしないと新兵衛が殺されちゃうもん。私、そんなのイヤだもん。新兵衛が死んだら、イヤだもんっ!」
「馬鹿野郎! 俺だってこう見えても侍だ! 柳生家の剣士だ! 死ぬことなど怖くない! 俺が怖いのは、誰も助けられないことなんだ! さぁ、分かったらそこをどけ! 俺の後ろに隠れてろ!」
「そんなの全然分かりませんっ! そんなの新兵衛の勝手じゃないですかっ! 新兵衛の自己満足の為に、目の前で死なれても我慢しろって言うんですかっ! 助けたいのは、私だって一緒ですっ! 勝手なこと……、勝手なこと、言わないでぇっ!」
澄も、怒っていた。澄の笑顔しか見たことの無い新兵衛にとって、それはかなりの衝撃だった。それよりも、なによりも。澄の言うことは尤もだ、と気づかされている自分にも驚いていた。助けるのは自分の勝手。助けたいという我儘。自分はそれでもいい。だが、助けられた相手はどうか? それで本当に嬉しいと思うだろうか?
全ての解決策は、新兵衛が業刹に勝つことだ。だが、それは出来ない叶わない。新兵衛が業刹に勝つことなど、絶対に無いことだった。
業刹が動いた。
「偽善だな。どちらも」
「はっ!」
「きゃあああああっ!」
業刹の朱鞘から、雷光のごとき青い光が煌めいた。