柳の下には、やはり幽霊がいるらしい
慶長11年8月。徳川家康が徳川幕府を開闢してより3年後。蝉時雨もかしましい、盛夏の頃よりこの物語は始まる。
その日、大和を治める柳生藩当主の末子、柳生新兵衛輝賢は、城下の見廻りと称して稽古をサボり、お気に入りの茶屋でたらふく団子を食った後、無意識に鼻歌までしてしまうほどの上機嫌で、城へと向かう街道を歩いていた。元服も済ませた新兵衛の腰には二本の刀が差されている。そして、帯には〈命石〉が入った袋が提げられていた。着物もそれなりに上質なものだった。ひと目で町人とは違うことが見て取れる。
「ヒメヒメ、ヒーメヒメヒメー、ヒメなのーだー♪」
新兵衛が歌っているのはアニメ「弱虫ペダル」の劇中歌「恋のヒメヒメぺったんこ」である。この時代、もちろんアニメなどは無い。そもそも電気すら普及していない。発電機が発明されるのは、まだ200年ほど先のことなのだから。それでも新兵衛がこれを歌えるのは、あるラノベ作家が「人の意思は時空を超えるという説がある。意志とは光をも超える物質なのだ」という持論を元に作品を書いていたことに由来する。今、新兵衛は無意識という曖昧な状態にいるのだから、このようなことがあってもなんら不思議では無いと言えるだろう。……無いか。じゃああれだ。新兵衛は凄い作曲的な才能があるに違いない。太鼓や三味線などしかないこの時代に、これほどの先進的な鼻歌が作れてしまうのがその証拠だ。
「……はっ。やばい。俺は今、なんて歌を歌ってたんだ? あっついから、意識がどっか飛んでたかも」
なにしろ人通りの多い街道だ。日はまだ頭の上から少し傾いたところにある。新兵衛は周りを行き交う人々から「なんかおかしいぞコイツ」的な視線を浴びていることに気づくと白昼夢から目覚めたように意識をしっかり持ち直した。照れくさいのか、頭をぽりぽりかきながら、口笛とか吹いちゃったりもしているが、それで誤魔化せるほど小さな声で歌ってはいない。
「あれ、柳生の坊ちゃんだよな」
「坊ちゃんは相変わらずのほほんとしてるなぁ」
「なによ、そこが可愛いんじゃない。坊ちゃんて結構もてるんだから」
「ねー。ちっちゃいし細いし頼りないし。守りたくなっちゃうわー」
以上は街の声である。柳生家の末っ子である新兵衛は、皆に若様ではなく坊ちゃんと呼ばれることが多かった。将軍家兵法指南役にまで採り上げられた剣法一家の血筋とは思えない新兵衛の優しい風貌は、町民の、特に女子への受けが大層いい。だが攻めなどいない。そういう腐った目で少年を見る女子は、幸いここにはいなかった。紫式部の毒牙は、まだここには及んでいない。それでもショタコンはいたようだ。新兵衛の小さな頃など、一人で街に出れば良く町娘に連れ去られたりしていたくらいなのだから。まぁ、結局は一緒に団子を食べるくらいで無事に帰ってくるから、誰も問題にはしなかったが。それでも城主の子息としては放任に過ぎる扱いだった。新兵衛ののんびりとした性格は、この頃に育まれてきたのだろう。
そんな新兵衛も現在は15歳。さすがにもう攫われることはない。そろそろ、身の立て方を考えなければならない時期だった。
「うう……。みんな、まだ俺を見てる……。仕方ない。ちょっとそこの茂みで一休みしていこう」
もにょもにょと独り言ちた新兵衛は、ごそごそと街道脇の茂みへと分け入った。腰掛けるのにちょうど良さそうな切り株があったからである。横には、風に吹かれて妖艶にしなだれかかる柳の木。夏の昼でありながら、そこは妙に薄暗い。足を休めて涼を取るには良さそうな場所ではあるが、切り株の周りの草が立っている様子から、誰もそうしてはいないようだと新兵衛は予想した。新兵衛は「おかしいな?」と思いながらも草を踏んで切り株に腰掛けた。途端、……ザワ……、ザワ……と、命懸けのギャンブルをしているかのような胸騒ぎが新兵衛を襲った。その時、柳の葉がざわめいた。
「とーりつーいたっ」
「は?」
次の瞬間、新兵衛は肩に重みを感じていた。それはひんやりと新兵衛の背筋を冷やす。夏には持って来いな現象だったが、変な汗がぶわりと噴き出たところを見ると、どうやら実際に冷たいわけではないらしい。むしろ不快な感覚だ。
「な、なに?」
驚いた新兵衛は首を後ろに巡らせた。そこには。
「私、あなたに取り憑きましたっ。私を成仏させてくださいねっ」
「はぁ?」
首筋に絡みつく、真っ白な細い腕。耳元で囁かれたにも関わらず息遣いは感じない。新兵衛の頬には、曖昧ながらもやけに柔らかい感触があった。真っ黒な、それでいて輝きを放つまあるい瞳が、新兵衛を覗き込んでいる。長い黒髪はさらさらと、柳のように揺れていた。
それは、美しい少女だった。真っ白な着物をまとった、十兵衛と同じ年くらいの少女だ。少女は新兵衛の背中にしがみつき、そのふっくらとした頬を新兵衛の頬に寄せていた。普通の健康な男子であれば、非常に喜ばしいことだった。だが。
「……お前、もしかして幽霊なの?」
「はいっ。私、幽霊ですっ。名前は澄ですよろしくですっ」
はつらつとした笑顔を新兵衛に向けて、そう答えた少女の姿は微妙に透けていた。
――ここから、剣が嫌いで気弱な〈柳生新陰流剣士〉柳生新兵衛輝賢と、死んでいるのにやけに明るい〈幽霊少女〉澄との、天下を揺るがしたり揺るがさなかったりする珍道中が始まった――