第2章 1.夜の街
第2章 1.夜の街
ベッドにうつぶせになって手足を投げ出したまま壁がけの時計を見る。
時計の針はもう遅い時間を示していた。
少し憂鬱な気分だった。
ここに来てもう一ヶ月が経とうとしている。
あと少しで4月が終わってしまう。
街の未来を切り取る魔術について何の手がかりも見つかっていない。
少しずつでも情報を集めることができていれば良かったのだけれど。
「もっと、積極的に動かないとだめ……」
寝返って仰向けになり額に腕を乗せる。
こういうとき、あの人ならどうするかな。
私に魔術を教えてくれたあの人なら。
「そうだ」
こんな大規模な魔術、そう簡単に動かせない。
緻密に練られた術式が街に仕掛けられているはず。
記憶と照らし合わせる。
こういう時にやらないといけないことがある。
大鍵の護符の主と謁見するには、この世界と別世界とを隔てる東西南北の管理者に開門をお願いする。
他の魔術体系でも同じなはず。
東西南北にそれぞれ、かみさまがいる。
西洋だとラファエル、ガブリエル、ミカエル、ウリエル。
東洋ならセイリュウ、スザク、ビャッコ、ゲンブ。
魔法陣の四方にさらに小さな魔法陣を描くように、街全体に魔術をかけるなら街の四方にも同じようなものがあるはずだ。
それを消せば止められる。
ベッドを降りネグリジェから外着に着替える。
深夜だし、みんな、寝静まっているはず。
でも念のため……。
30分先までの未来を確定させる。
誰もこのドアを開けない。
誰にも会わずに家の外へ出る未来。
電気を消す。
薄い黄色のカーテンから漏れた月明かりが部屋をぼんやりと照らす。
魔法陣は直接描かずに幻視する。
使い魔を与えてくれる悪魔のひとつを呼び出す。
私には悪魔そのものを召喚するなんてできない。
力の一部を借りるだけ。
カーペットの上に悪魔ヴァレフォールの紋章を描く。
魔力を通す。
紋章が煌々と輝いた。
「これで部屋にシオリやトモヤが来ても大丈夫」
音を立てないように1階に降り玄関から出る。
夜空に星が輝いている。
運動はあまり得意じゃないし、体力もあるわけじゃないけれど……。
この街はそこまで大きくない。
プラハと同じくらい。
これくらいのならなんとかなる。
左手の甲にバエルの紋章を幻視する。
これで他の人に姿は見えない。
右手の甲に水星の1の護符を幻視する。
天空の精霊ヤキエルの力を背に乗せる。
背に力を込めるイメージと一緒に、一歩足を踏み出す。
ヤキエルの力で加速。
魔眼に切り替え、自分を中心に半径100メートルを観る。
私は街の北の端を目指した。
ここから先の未来は決めない。
私が今現在、知らない未来にたどり着きたかったから。
「小さなヒントでもいいから、見つけないと」
***
工場が多く立ち並ぶ区画に行き着いた。
寝静まる住宅街と違って至る所に取り付けられたライトが辺りを照らしている。
魔眼で観ながら建物に沿って歩く。
建物はチェス盤みたいに綺麗な並びをしていた。
それに沿うように木が植えられている。
その根本の草は所々枯れていた。
近くを黒い影がもそもそと動いている。
でも今は無視することにした。
どこかに術式が隠されていないか慎重に観ていく。
同時に建物の中も透視する。
夜にもかかわらず沢山の機械が動いている。
中には人も多くいた。
「ったく、やってらんねーな」
「眠いっすねえ」
「夜勤は給料いいから良いんだけどよ」
タバコを咥えてボヤく何人かの人影の横を通り過ぎる。
人の目は気にしない。
バエルの紋章は変わらず効果を発揮している。
その先にいくと半径100メートルの端に異様なものが目に入った。
「あった。見つけた……」
次の角を右に曲がって70メートルくらいに黒いモヤの塊があった。
魔術で隠蔽されているのか認識しにくいけれど確かにある。
魔眼では見えるけれど生身の目では見えないと思う。
きっと本命――。
その周りには大きな事故があったのか鉄骨がばらばらと無造作に散らばっていた。
立ち入り禁止のテープがそれを囲んでいる。
黒いモヤの中に何かがいるような気がした。
はっきりとしない。
でも術式を守るための使い魔だと思う。
警備服を着た男の人が近くを歩いて行った。
使い魔は始めは気にも止めていないようだった。
男の人が使い魔の横を通り過ぎるくらいになったとき、ようやく目を向けるような動作をした。
男の人に異変が起きた。
息苦しそうにし始めた。
胸を押さえて苦しそうにした。
最後に手を壁に付けて蹲った。
「ぐ、はあ、あぐ……」
使い魔は特に気にした様子もなく、その人から目をそむけた。
急に胸の苦しみが無くなったのか、男の人はゆっくりと立ち上がった。
額にかいた油汗を拭い、不思議そうにしてふらふらとその場を立ち去っていった。
警備員の人は瘴気にあてられたんだと思う。
もしかすると、そのまま見られ続けていたら命を落としていたかもしれない。
目を向けられるのは危険。
慎重に進み、曲がり角に差し掛かる。
黒いモヤは警備員の人に襲いかかりはしなかったけど、魔術師が相手だったら違うかもしれない。
ドクンドクンと心臓の音が耳障りに聞こえてくる。
息を飲んで恐る恐る顔を出す。
そこにいるはずの使い魔に目を向けた途端、全身に鳥肌が立った。
すぐに顔を戻して建物の影に隠れた。
足から力が抜けた。
壁に体を預けてしゃがみ込んでしまう。
「なに……あんなの……私には無理……」
怖かった。
禍々しかった。
邪悪の塊。
私の知っている悪魔と違う。
分からないけれど純粋な悪魔崇拝の類に近い……。
昔一度だけ似た体験をしたことがあった。
でもその時はあの人が側にいた。
今は独り。
ガタガタと震える体を両腕で抱きしめる。
もう眼で観ているのも嫌で魔術を解除したかった。
でも。
「逃げないと……」
アレは私に気づいていない。
でもいつ気が付くか分からない。
竦む足を手で抑えて立ち上がる。
お願い……こっちに気付かないで……。
***
帰り道はとても時間がかかったように思えた。
ようやく家に着いて玄関を開けると、そこにトモヤが立っていた。
壁に寄りかかったまま顔を上げてこちらを向く。
うそ……。
ミスをした……。
なんで……私は扉の向こうに人がいることを確認しなかったの……。
眼を使って家の中を透視するだけなのに……。
なんだか頭がきちんと働かない。
「ナタリアさん……なんだよな?」
手の甲にはまだバエルの紋章があって、姿は見えないはずなのに……。
なんだかもう良く分からない……。
トモヤは私の方に少しだけ歩み寄る。
「見えないけどさ、よくわかんねーけど、居るんだろ?」
……そっか。
見えてないけど、トモヤには私だって分かるんだ……。
どうしてだろ……?
疲れていたからかもしれない。
なんだか考えるのが嫌になっていた。
頭の中が混濁している。
気がつくと私は魔術を解いて、トモヤの胸に倒れ込んでいた。
「ちょっと、ナタリアさん!?」
急に姿が現れてびっくりさせちゃったかな……?
肩を抱いてくれるトモヤの手。
外は少し寒くて、中にいたトモヤの体の温もりが心に沁みた。
なんだかほっとした。
こんな温もりは初めてだった。
少し涙が流れた気がした。
---
月代さんの占い。
トモヤが不幸になる。
……これが原因?
街に施された魔術は私の手に負えそうもない。
もしもトモヤを巻き込んでしまったらどうなってしまうのか分からない。