第9話
それは、春の名残のやわらかさと、梅雨の気配を孕んだ湿り気とが、まだ互いに譲らずにせめぎ合っているような一日だった。
時はゴールデンウィーク明けの月曜日、昼休み。
校舎の空気には、休日の余韻がまだ薄く漂っている。
彼らは連休中の出来事を断片的に交換しながら、言葉の往復によって友情の温度を確かめ合っていた。
そのとき、ひとりの男が教室へ戻り、何気なく放った一言が場の空気を一変させる。
三者三様に揺れた視線。やがて一点に収束する。
その先にいたのは、瀬野。
彼の目はすでに光を失い、つい先ほどまでそこにあったはずの飲料へと、虚ろに注がれている。
そして、喉の奥で擦れるような乾いた声で、彼は呟いた。
「・・・俺のお茶、誰か飲んだ?」
瀬野はこの事件の容疑者である俺、寺田、吉川の3人から事情聴取を行った。
俺:吉川が瀬野のペットボトル持ってたぞ。
寺田: 吉川君が瀬野君のペットボトル持ってたよ。
吉川: 僕以外はペットボトルを持ってないね。
「くそッ、これはもしかして一人だけ嘘をついていて犯人を当てるアレか!?」
頭を抱える瀬野。
ちゃんと確認しろよ、瀬野。
全員の供述は一致してるぞ。
「ちょっと待て、現場にいたのは楠本、寺田、吉川。そしてこれまでの話を踏まえると・・・」
良かった。
ちゃんと気づいたようだ。
「犯人はこの中にいるはずだ!!」
それは最初からわかってるんだよ。
「いや犯人は吉川だって。お前のペットボトル持ってたのあいつしかいないんだぞ?」
俺は瀬野に説明する。
「いや、本当にそうかな?楠本くん」
これまで存在感を消していた吉川は話始めた。
「よく思い出してほしい。僕たちが把握している事実はただ一つ、『僕がペットボトルを持っていた』ということだけ。本当に僕がお茶を飲んだかどうかわからない」
いや、お前自身は飲んだかどうかわかるだろ。
「確かに・・・つまり・・・」
おっと、瀬野が何か閃いたようだ。
「犯人はこの中にいるはずだ!!」
そのセリフ、2回目だぞ。
「・・・なんなら俺、吉川が瀬野のペットボトルを持って飲んでるの見たからな」
絶対吉川だろ。
しかし当の本人は肩を竦めて溜め息を吐いた。
「よく聞いて、楠本くん」
「なんだ」
「今この瞬間は、誰が瀬野くんの飲み物を飲んだのか確認することはできないよね?」
「まぁそうだな」
今この瞬間に限って言えば、だけどな。
「つまり僕たちの胃は不確実性を持っているわけだ」
なんだその世俗的なシュレディンガーの猫。
「そもそも、目撃者の証言が本当に有効であることは30パーセント以下という話もある」
だから楠本くんの意見も絶対に正しいとは言い切れない、と付け加える。
こっちまで攻撃してきた。
このままでは埒が明かない。
「・・・そうか、ルーレットで決めればいいじゃないか!」
瀬野は閃いた。
ルーレットで決める、とは?
1. 紙に円を書く。
2. 3分の1に分割してそれぞれの名前を書く。
3. シャーペンをくるっと回してペンの先にあった名前の奴が犯人な。
超シンプル。
俺たちは自分の名前を書き、瀬野はペンを持つ。
ペンは半時計周りに回転をし始めた。
時計の針を巻き戻すように、と言えば聞こえはいいが。
そしてペンは止まる。
その先端が指し示す名前は、
「楠本・・・お前だったのか」
「だから吉川だって」
俺じゃねぇよ。
ただ3人はその結果に納得した様子だ。
溜め息を吐いて俺は続ける。
「ランダムでも一応犯人ってなったわけだし、それでいいけど」
どうすればいいんだ?と尋ねた。
少し考えたのち、
「そうだな、俺の飲み物を買ってきてくれ」
瀬野は千円札を俺に手渡す。
釣りは取っといていいから、と言われたので、俺は駆け足で自動販売機へ向かった。
授業開始のチャイムが鳴る。
科目は数学。
楠本、空席。
「あれ、楠本くんはどこに?」
ガラッ。
丁度その瞬間、教室に戻ってきた。
楠本の手にはペットボトルが。
飲み物を買いに行って遅れたのか。
しかし彼が向かったのは自分の席ではなく、顔が怖い生徒として有名な瀬野の席。
瀬野は当たり前のようにそれを受け取ると、楠本は何事もなかったかのように自分の席へと戻っていった。
しばらくの間、瀬野がクラスメイトにパシリをさせているのではないか、という噂が先生の間で出回ったそうだ。




