静寂の迷路、秘めたる決意
窓ガラスの砕け散った嵐の夜が明け、邸宅には痛々しいほどの静寂が戻っていた。
リュカは寝台に突っ伏し、深い眠りに落ちていた。背中に刻まれた無数の傷跡は、まゆの手によって丁寧に手当てされ、白い包帯が痛々しく彼の精悍な身体を包んでいる。
まゆは一睡もせず、彼の枕元でその銀髪を撫で続けていた。指先に残る、彼の血の熱さと、彼が流した虹色の涙の感触。それが、彼女の中にあった「育ての親」という最後の砦を、跡形もなく焼き尽くしていた。
「……っ、……まゆ?」
昼下がりの柔らかな光が差し込む頃、リュカが重い瞼を持ち上げた。オパールの瞳は、昨夜の狂気が嘘のように穏やかで、けれど自分を看病するまゆの姿を捉えた瞬間、捨てられた仔犬のような、臆病な光を宿した。
「……起きたのね、リュカ。……痛むところはない?」
まゆが努めて穏やかに問いかけると、リュカは震える手でまゆの指先を掴み、祈るように自分の頬に押し当てた。
「……ごめん、なさい。俺、……あんたを怖がらせて、自分まで傷つけて……。……嫌いになっただろ。俺みたいな化け物、もう、いらないだろ……っ」
泣き出しそうな声。その弱さが、まゆの胸を締め付ける。
まゆは、自分の漆黒の瞳に涙が溜まっていくのを感じながら、静かに、けれど逃げ場のない決意を込めて彼を見つめ返した。
「いいえ。……嫌いになんて、なれない。……なれるわけないじゃない」
まゆは、彼の大きな掌を両手で包み込んだ。
理性が、倫理が、頭の中で警鐘を鳴らしている。
「この子は貴方が育てた子よ」
「間違っているわ」
けれど、そのノイズさえも、目の前で自分を求めて震える一人の男の熱量には勝てなかった。
「……本当は、だめなはずなのに。……貴方を救ったあの日から、私は貴方の『お母さん』でいなきゃいけなかったのに。……でも、もう無理よ、リュカ」
まゆは、リュカの額に自分の額をこつんと預け、吐息が触れ合う距離で囁いた。
「……好きよ、リュカ。……息子としてでも、弟としてでもない。……一人の、男性として……貴方が、愛おしくてたまらないの」
「…………っ、……あ……」
リュカの時が、止まった。
オパールの瞳が、驚愕と、そして爆発するような歓喜の虹色に跳ね上がる。彼の魔力が、まゆの告白を受けて邸宅中の空気を甘く、烈しく震わせた。
「……まゆ。……今、なんて……。……俺を、男として……愛して、くれるのか……?」
リュカは、あの日雪の中で救われた時よりも激しく、声を殺して咽び泣いた。まゆを壊れ物を扱うように、けれど一生離さないという執念を込めて、強く、強く抱きしめた。
「……あぁ……っ、……まゆ。今、なんて……。夢じゃないだろ? 俺を、一人の男として……。……あんたのその漆黒の瞳に、ようやく俺が映ったんだな。……あの日、雪の中で拾われた瞬間から、俺、ずっとこの言葉だけを待っていたんだ。……離さない。死んでも、あんたのその言葉だけは、誰にも渡さないから……っ」
あの魂の告白から、数ヶ月。
二人の関係は「家族」という欺瞞を脱ぎ捨て、より濃密で、逃げ場のない「共生」へと至っていた。
十八歳のリュカは、あの日手に入れたまゆの愛を失うことを病的なまでに恐れ、邸宅を囲む虹色の結界を、もはや外界の光さえ歪めるほどに強固なものへと作り変えていた。
「……まゆ、どこへ行くんだ。庭の境界線に近づくなと言っただろう」
テラスから一歩、森の方へ足を踏み出そうとしたまゆの背後から、低く、獲物を抑え込むようなリュカの声が響いた。彼は音もなく歩み寄ると、まゆの腰を当然のような強さで抱き寄せ、その首筋に顔を埋める。
「……リュカ。……少し、外の風に当たりたかっただけよ。最近、この家の中は……貴方の魔力で、息が詰まりそうなほど甘すぎるわ」
まゆが困ったように微笑み、自分を拘束する腕をそっと撫でた。
邸宅内は、リュカがどこからか持ち寄った常春の花々と、彼のオパールの瞳と同じ輝きを放つ虹色の燐光に満たされている。それは一見すれば楽園だったが、外界との断絶は、まゆの心を静かに摩耗させていた。
「……不満か? 俺の魔力に包まれていることが。……外の世界なんて、あんたを傷つけるノイズでしかないんだ。ここなら安全だ。俺だけが、あんたの呼吸を、あんたの心音を、一秒も欠かさず守ってやれる」
「……いいえ、不満じゃないわ。貴方の愛は、痛いくらいに伝わっているもの」
まゆは、振り返ってリュカの頬を包み込む。
彼の瞳は、かつての傲慢な魔王のそれではなく、今にも消えてしまいそうな「不安」に濡れた虹色を湛えている。
「……でもね、リュカ。人は、自分の足で外を歩く時間も必要なの。……そんなに不安なの? こんな風に、私を閉じ込めるような愛し方じゃ、貴方自身が一番苦しいでしょう……?」
その問いかけに、リュカの身体がわずかに強張る。
まゆの掌に深く顔を押し当て、子供のように、あるいは祈りを捧げる騎士のように、掠れた声で囁いた。
「……苦しくたって構わない。あんたを失う苦しみに比べれば、こんな執着なんて、蜜のようなものだ。……俺は化け物なんだよ、まゆ。あんたが俺を『一人の男』として受け入れてくれたその瞬間から、俺、あんたをこの世界のすべてから奪い去ることしか考えられなくなったんだ」
リュカはまゆの漆黒の瞳を、射抜くような烈しさと、縋るような脆弱さが混ざり合った眼差しで見つめ返した。
「……ねえ、まゆ。あんたのその漆黒の瞳に、俺以外の何かが映るのが耐えられないんだ。……あんたを狂わせたのは、俺だろ。……だったら、責任、取れよ。俺のこの歪んだ檻の中で、ずっと……俺だけを見ていろ……」
その瞳には、救済された喜びと、それ以上に深い「所有」への乾きが、凄絶な虹色の光となって渦巻いていた。
まゆは、彼の歪な愛を拒みきれない自分自身の弱さを悟り、深く、長く、溜息をついた。
それは諦めではなく、この「愛の化け物」と共に奈落まで堕ちることを選んだ、静かなる覚悟の証でもあった。
リュカが放つ虹色の魔力は、日を追うごとにその色彩を濃くし、邸宅を外界から完全に切り離された「止まった時間」の中へと沈めていった。
まゆは、窓の外に広がる、季節を無視して咲き誇る花々を眺めながら、静かに物思いに耽っていた。
背後には常に、愛しさと狂気が混ざり合ったリュカの視線を感じている。彼は、まゆがペンを手に取れば「誰に書くんだ」と指先を絡め、彼女が深い溜息をつけば「俺の隣は退屈か」と、そのオパール色の瞳を絶望的な虹色に染めて問い詰めてくるのだ。
(……この人は、まだあの日、雪の中で震えていた五歳の子供のままなのね)
まゆは、自分の心臓を握りしめられているような圧迫感を、悲しみと共に受け入れていた。
リュカが自分を閉じ込めるのは、支配したいからではなく、「いつかまた独りに戻る」という恐怖から逃れるための、彼なりの必死な防衛本能なのだと。
それからの数日間、まゆは邸宅の図書室に籠もり、古い魔導書を読み漁っていた。
どうすれば、この孤独な怪物を真に救えるのか。
どうすれば、彼は「自分はもう捨てられない」と心から信じ、その苛烈な独占欲の檻を解いてくれるのか。
「……まゆ。最近、あんな古い本ばかり読んで、俺を見てくれないな」
リュカが背後から忍び寄り、まゆの首筋に熱い吐息を吹きかけた。
リュカの体温は驚くほど高く、まゆを包み込む腕の力は、かつての「守ってあげる」という約束を逆転させたような、圧倒的な所有権を主張している。
「……リュカ。貴方に贈る、一番強い『おまじない』を探しているのよ」
まゆが漆黒の瞳を和らげ、彼の銀髪を優しく撫でると、リュカは怪訝そうにオパールの瞳を瞬かせた。
「おまじない? ……そんなもの、いらない。あんたがここにいて、俺だけを見ている。それだけで十分だろ」
リュカはまゆの手首を掴み、自分の唇を押し当てました。
彼は全く気づいていなかった。
まゆが探しているのは、彼を「永遠の不安」から解き放つための、まゆの覚悟の証であることを。
(……言葉だけじゃ足りない。今までの『家族』という絆を壊してしまったのなら、もっと強くて、もっと残酷なほど確かな『何か』をあげなきゃいけないわね)
まゆは、自分の未来も、自由も、そしてこの命さえも、リュカという名の深淵に捧げる覚悟を固めていました。彼が欲しているのは
「一緒にいること」ではなく、
「一生逃げられないという確信」なのだと悟ったからだ。
一方のリュカは、まゆが自分の腕の中で大人しく従っていることに、歪んだ法悦を覚えていた。
まゆが何を計画しているかも知らず、ただその漆黒の髪を指に絡め、香りに溺れながら、この「完璧なふたりの世界」が永遠に続くことを盲信していたのだ。
あまりに甘美で、危うい静寂。
二人の間にある「所有」の天秤は、まゆが下そうとしている決断によって、大きく傾こうとしていた。
狂おしいほどの独占欲に、聖域の慈愛がどう応えるのか。
神凪の檻が、真の形を成す運命の夜が始まります。




