理性の残火、略奪の夜 ②
その日は、朝から不穏な湿り気を帯びた風が吹き荒れていた。
十八歳のリュカが仕掛ける、日常を装った「侵食」は日増しに激しさを増し、まゆの心は一睡もできないほどの緊張感に削り取られていた。
「……リュカ。もう、これ以上は無理よ」
午後の陽光が虹色の結界に遮られ、邸宅が不自然な静寂に包まれた時。まゆは、背後から抱きしめようとしたリュカの腕を、初めて明確な力で振り払った。
「……無理? 何が無理なんだ、まゆ。俺はただ、あんたを愛でているだけだろ」
リュカの声は低く、地を這うような不穏な響きを帯びた。オパールの瞳が、拒絶された衝撃で、暗く濁った虹色に明滅する。
「……育ての親として、貴方をこれ以上甘やかすわけにはいかないわ。貴方はもう、立派な大人。……いつまでも、私のスカートの裾を掴んで離さない子供のふりをするのは、おやめなさい」
まゆの声は震えていた。それはリュカを嫌いになったからではない。
むしろ、彼を一人の男として求めてしまいそうな自分自身の本能に対する、「育ての親」としての最後の、そして悲痛な抵抗だった。
まゆは、あの日雪の中で救った純粋な少年の面影を、必死に守り抜こうとしていたのだ。
「……子供のふり? ……ふん、そうか。あんたにとっては、俺のこの焼き付くような執着も、ただの子供の我が儘に見えるんだな」
リュカの魔力が、主の絶望に呼応して爆発的に膨れ上がった。
邸宅中の空気がパチパチと虹色の火花を散らし、窓ガラスが内側からの圧力に耐えかねて、悲鳴を上げ始める。
「……だったら、分からせてやるよ。あんたが『お母さん』を気取って俺を拒むなら、俺は、あんたの世界を全部壊してでも、俺だけを見させてやる……っ!」
リュカが吠えた瞬間、凄絶な魔力の衝撃波が走り、邸宅中の窓が一斉に粉々に砕け散った。
ガラスの破片が虹色の光を反射しながら、雨のようにふたりの間に降り注ぐ。
「……っ、リュカ! やめて!」
まゆが顔を覆って蹲ろうとした刹那、リュカは光のような速さで彼女を抱きすくめた。
砕け散ったガラスがリュカの背中を切り裂き、銀髪が赤く染まっていくが、痛みなど感じていないかのように、ただ、まゆを腕の中に閉じ込めることだけに執着していた。
「……離さない。……嫌だ、嫌だまゆ……! 俺を『息子』という檻に閉じ込めて、安全な場所から見下ろすのはもうやめろ! ……あんたが俺を救ったんだ。あんたが俺を、狂わせたんだ……っ!」
リュカはまゆの肩に顔を埋め、獣のような、けれど泣き出しそうなほど切ない声を漏らした。
彼の魔力が暴走し、邸宅を囲む虹色の結界がドーム状にひび割れていく。その凄まじい破壊のなかで、彼はただ、捨てられたあの日と同じように、まゆの愛だけを乞うていた。
まゆは、自分の肩を濡らすリュカの血と涙の熱さに、心臓を直接握りつぶされるような衝撃を覚えた。
育ての親としての理性が、その熱量に焼かれ、灰となって崩れ落ちていく。
(……ああ。私は、もうこの子を『子供』として守ることはできないのね……)
まゆは、震える手をゆっくりと伸ばし、血を流し、泣き叫ぶ「魔王」の背中に、そっと回した。
砕け散った硝子の破片が床を埋め尽くし、虹色の魔力の残光が、チリチリと空気を焼く音が響いている。
まゆは、自分の肩に顔を埋めて震えるリュカの背中に、そっと、けれど壊れ物をかき抱くような必死さで腕を回した。手のひらに触れる彼の背中には、飛散した硝子が深く突き刺さり、その温かな鮮血が、まゆの白い指先を容赦な染めていく。
(……ああ、なんてこと。私はこの子を『守る』と誓ったはずなのに。私がこの子を、こんなにも傷つけてしまったのね……)
まゆの胸を支配したのは、恐怖でも、支配されることへの嫌悪でもなかった。それは、自らの「理性」が、救ったはずの少年にこれほどの苦痛を与えていたのだという、引き裂かれるような自責の念だった。
「……っ……リュカ……。こんな風に……自分を傷付けるようなことは、もうしないで……っ」
まゆの声は、嗚咽に混じって小さく震えていました。
自分の背中を切り裂かれているかのような痛みが走り、漆黒の瞳からは、大粒の涙が次から次へと溢れ出す。その涙は、リュカの血に濡れた銀髪の上に、赦しの雨のように落ちていった。
リュカは、まゆの腕の震えと、自分を案じるその涙の熱さを感じた瞬間、硬直した。
荒れ狂っていた虹色の魔力が、雪解けのように一気に霧散していく。彼は信じられないものに触れるように、ゆっくりとまゆの顔を覗き込んだ。
「……まゆ。あんた……俺のために、泣いているのか? 俺を拒絶したはずのあんたが、どうして……」
リュカのオパールの瞳は、驚愕と、そして言葉にできないほどの法悦に濡れていた。
まゆが自分の「暴力」に怯えるのではなく、自分の「痛み」に心を痛めていることを悟ったのだ。
その瞬間、彼の内にあった「魔王の傲慢」は崩れ去り、あの日雪の中で拾われた時と変わらぬ、剥き出しの孤独が露わになった。
「……俺は、あんたを壊してでも繋ぎ止めたかった。……でも、あんたがそんな顔をして泣くなら、俺……どうすればいいのか分からない。……まゆ。お願いだ。俺を、……独りにしないでくれ。俺のこの呪いごと、あんたが引き受けてくれよ……っ」
リュカはまゆの手首を掴んでいた力を抜き、代わりに、壊してしまいそうなほど深く、切実に抱きしめ返した。
傷口から流れる血がふたりの服を赤く染め、一つの色へと溶け合っていく。
まゆは、リュカの背中から硝子を抜き去ることも忘れ、ただ、自分の腕の中で泣きじゃくる「大きなな子供」であり「一人の男」である彼を、受け入れる決意を固めていた。
育ての親としての「正しい愛」は、今、彼を救うための「狂おしい情愛」へと、完全に塗り替えられたのだ。




