揺らぎの決壊、虹色の追跡 ①
夏の湿った夜気が、虹色の結界に濾過され、ひんやりとした静寂となって図書室を満たしていた。
リュカは、壁一面を埋め尽くす古書の影に身を潜めるようにして、机で調べ物をするまゆの背中をじっと見つめていた。
かつては「読み聞かせて」と無邪気に膝に乗っていた場所。けれど今の彼にとって、この図書室は知の宝庫ではなく、逃げ場のない「熱病の檻」へと変貌していた。
(……あぁ、まただ。視界に、あんたの姿だけ焼き付いて離れない……)
リュカのオパールの瞳は、暗闇の中で凄絶な虹色の光を放っていた。
まゆの細い首筋、ページを繰る白い指先、そして時折、考え込むように動く柔らかな唇。そのすべてが、リュカの胸の奥で燻り続ける「独占」という名の火種に油を注ぐ。
かつてのように甘えることは、もうできない。
かといって、この衝動を「男」としてぶつけるには、自分の心はまだあまりに幼く、彼女の聖域を汚してしまう恐怖が勝っていた。
「……リュカ? そこにいるのね。……どうしたの、そんなに遠くに立って」
まゆが顔を上げ、漆黒の瞳を和らげて微笑んだ。彼女の放つ漆黒の魔力は、リュカの荒ぶる熱を吸い込み、凪がせるような深い慈愛に満ちている。
「……なんでもない。……ただ、少し目が冴えただけだ」
リュカは、絞り出すような低い声で答えた。声変わりを終え、胸に響くようになった自分の声さえ、今は自分を裏切る武器のように感じられて仕方がない。
「そう。……なら、こっちへ来なさい。この古い記述、貴方の魔力特性に似ている気がするの。……一緒に見てくれる?」
まゆが隣の椅子を軽く叩き、無防備に彼を誘う。
リュカは、一瞬だけ呼吸を止め、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、抗いがたい力で彼女の隣へと歩み寄った。
(……近い。……まゆの、花の匂い。……あんたは、どうしてそんなに無防備なんだ。……俺が、どれほど狂おしい思いで、あんたをこの腕に閉じ込めたいと願っているか、……気づいていないのか)
リュカはまゆの隣に腰を下ろした。肩が触れそうな距離。
まゆが身を乗り出して古文書を指差すたび、彼女の漆黒の髪がリュカの頬をかすめ、甘い拷問のような熱が彼を襲う。リュカは拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、辛うじて理性を繋ぎ止めていた。
リュカのオパールの瞳が、心の葛藤に呼応し、重く、危うい光を脈動させている。
「……リュカ? 貴方、顔色が……。……どこか、具合が悪いの?」
心配そうに顔を覗き込んできたまゆの手が、リュカの額に触れようと伸びてくる。
その瞬間、リュカは弾かれたようにその手を払い、立ち上がった。
「……触るな!!」
「…………っ」
静まり返った図書室に、リュカの叫びが虚しく響いた。
まゆは驚きに目を見開き、宙に浮いた自分の手を見つめた。リュカの瞳には、自分でも制御できないほどの烈しい情熱と、それ以上に深い「自己嫌悪」が渦巻いている。
「……悪い。……俺、やっぱり……少し、頭を冷やしてくる」
リュカは逃げるように図書室を飛び出した。
冷たい夜風が吹く廊下で、壁に頭を打ち付け、自らの未熟さを呪った。
まゆを敬い、守りたいという聖なる祈りと、泥濘に引きずり込んででも独占したいという獣の本能。
十七歳の夏。
リュカは、自分が「まゆに拾われた幸運な少年」から、「彼女という名の深淵に堕ちていく一人の男」へと完全に変質してしまったことを、暗闇の中で痛いほどに自覚したのだった。
日に日に増すリュカの美貌は、もはや神々しいまでの魔性を帯び、その魔力は邸宅全体を、まゆの吐息一つ逃さないほど精緻な虹色の結界で包み込んでいた。
ある春の朝、まゆはかつてないほどの焦燥感に駆られていた。
邸宅の棚で見つけた、母の形見である古い薬草図鑑。そこに記された「数年に一度、この時期にしか咲かない稀少な花」の存在が、彼女の閉ざされた好奇心を強く揺さぶったのだ。
(……あの子には内緒で行きましょう。最近のリュカは、私をこの家から一歩も出したくないみたいだから。でも、母様が愛したあの花を、一度だけでいいからこの目で見たい)
それは、リュカの献身という名の「檻」に対する、まゆの無意識の小さな反逆でもあった。まゆはその日の夕方、リュカが瞑想に耽っている隙を突き、音もなく邸宅を抜け出した。
慣れ親しんだはずの森。しかし、数歩進むごとに、淡く透き通るような虹色の霧が足元を絡め取り、方向を狂わせる。
「……っ、これ……リュカの魔力ね。あの子、いつの間に、こんなに遠くまで……」
まゆは、自分の育てた少年が作り上げた、美しくも残酷な「迷路」の中にいた。理性を振り絞り、かつて教えた術式を逆流させて道を切り拓いていく。ようやく森の境界線、あの日の雪原が見える場所まで辿り着いたその時——。
背後の空間が、ガラスが割れるような音を立てて弾けた。
「……まゆ。どこへ行くつもりだ。……俺に、何も言わずに」
心臓を直接握られたような、低く冷徹な声。
振り返ると、そこにはリュカが、月光を反射する銀髪を逆立たせ、凄絶なまでの美貌を絶望に歪めて立っていた。
彼のオパールの瞳は、今やかつてないほど烈しく、赤黒い情熱を孕んだ虹色に燃え上がっている。まゆが境界線を越えようとしたその瞬間に、彼の世界は崩壊したのだ。
「リュカ……! 驚かさないで。私はただ、あの花を……」
「花? ……そんなもののために、俺を捨てようとしたのか? あんたは俺を救って、『守ってあげる』と言った。それなのに、俺を置いて、外の不浄な世界へ逃げようとするのか……っ!」
リュカは一瞬で間を詰め、まゆの手首を、思わず折れんばかりの力で掴み上げた。
その瞳から溢れたのは、怒りではなく、深い、深い「絶望の涙」だった。
「……嫌だ。行かせない。あんたを失うくらいなら、俺……今ここで、この森ごと自分を焼き尽くしてやる。あんたを連れ出す風も、光も、全部俺が殺してやる……!」
リュカは崩れ落ちるようにまゆの足元に跪き、子供のように、あるいは獲物を抱え込む猛獣のように、まゆの腰にしがみついた。
指先から溢れ出す虹色の魔力が、逃げ場を塞ぐようにまゆの足元を凍りつかせ、二人の周囲に、邸宅よりも強固な「二人だけの隔離空間」を瞬時に作り上げる。
「……まゆ。あんたは俺のものだ。俺が雪の中から拾い上げられた時から、あんたの時間は全部俺が買い取ったんだ。……ねえ、まゆ。俺を、またあの冷たい雪の中に捨てるつもり……?」
オパールの瞳を涙で濡らし、捨てられた仔犬のような弱さを見せながらも、その腕は決して離さないという暴力的なまでの独占欲を剥き出しにしている。
まゆは、自分の理性が、彼の「涙」と「強引な執着」の境界線で音を立てて砕け散るのを感じていた。
彼を拒絶することは、彼を殺すことと同じ。その恐怖と、そして……リュカにこれほどまでに求められているという、甘美で恐ろしい悦楽が、彼女の足を止めた。
「……ごめんなさい、リュカ。……もう、どこへも行かないわ」
まゆがその銀髪を優しく撫でると、リュカは勝利を確信した魔王のような、陶酔しきった微笑みを浮かべ、まゆの首筋に深く、深く顔を埋めた。
「……離さない。死んでも、離してやるもんか。あんたが俺を救ったあの日から、俺の地獄も天国も、あんたの腕の中だけなんだ。……ねえ、まゆ。俺と一緒に、この森の静寂に溶けてくれ。あんたを汚すものは、全部俺が断ち切ってやるから……っ」
森の境界線で、二人の影は一つの深い色へと溶け合っていった。




