看病という名の侵食、揺らぐ聖域
村の少女を冷酷に突き放したあの日から、さらに月日は流れ、リュカは十六歳になっていた。
少年の面影は鋭い精悍さへと削ぎ落とされ、その魔力は邸宅の結界を無意識に震わせるほどに膨れ上がっている。
対照的に、長年一人で森とリュカを守り続けてきたまゆに、蓄積された疲労が襲いかかった。
ある冬の朝、彼女は激しい悪寒と共に崩れ落ち、そのまま深い眠りへと沈んでいった。
「……は…、……っ……リュ、カ……」
高熱に浮かされるまゆの視界は、ぼんやりと濁っている。
枕元には、十四歳のリュカが、魂を削り取られたような蒼白な顔で跪いていた。
オパール色の瞳は、かつての「捨てられた子供」としての絶望と、愛する者を失うことへの凄絶な「狂気」が混ざり合い、妖しく虹色を乱反射させている。
(……嫌だ。まゆ。どこへも行かないでくれ。あんたが少しでも苦しそうにするだけで、俺……世界中を焼き尽くしてしまいたくなるんだ)
リュカは震える手で、まゆの汗ばんだ額を拭った。
十一年前、あの日雪の中で自分を救ってくれたのは、まゆの温かな手だった。
今、その立場は完全に逆転している。
か細い呼吸を繰り返すまゆは、今のリュカにとっては、自分の腕の中で容易に壊せてしまえるほどに「脆弱な一人の女」だった。
「……まゆ。あんたの命は、俺が繋ぎ止めてやる。……死神なんて、俺の魔力で一匹残らず虚無へ叩き落としてやるからな」
彼はまゆの手をとり、指先を一本ずつ、祈るように唇でなぞった。
それは看病という名の、徹底した「侵食」だった。
まゆが朦朧とした意識の中で
「リュカ、……ごめんね……」
と掠れた声で漏らすたびに、リュカの胸の奥では、加害者的な歪んだ悦びが疼いた。
(……ああ。もっと弱ればいい。もっと俺を頼ればいい。……そうすれば、あんたは一生、この俺の腕の中から逃げ出せなくなる)
「まゆ、安心しろ、…俺がずっとそばにいる」
彼はまゆの耳元に顔を寄せ、理性を溶かすような、低く掠れた声で囁き続けた。
家族としての境界線を、彼はこの夜、初めて明確に、そして暴力的なまでの執着をもって踏み越えた。
眠り続けるまゆの額に、そして熱を帯びた唇の端に、誓いを刻むように深く接吻を落とす。
数日後。まゆの熱が下がり、食料を補給するためにリュカが一人で村へと降りた時。
村の住人たちは、現れた「若き魔導師」の姿に息を呑んだ。
「おい、見たか。まゆさんのところの拾い子……あんなに恐ろしいツラをしていたか?」
「……ああ。美しすぎて、まともに目が合わせられねぇよ。……まるで、触れたら魂まで持っていかれそうな、魔物の王みたいだ」
村の男たちは、リュカから放たれる圧倒的な威圧感に気圧され、道を開けた。
かつての「可愛げのある少年」の姿は今やどこにもない。
買い物袋を提げ、一刻も早く邸宅へ帰ろうとする彼の背中には、愛する女を世界から隠し、独占しようとする男のどす黒い執念が張り付いていた。
邸宅に戻ると、ようやく起き上がれるようになったまゆが、テラスで待っていた。
「おかえり、リュカ。……重かったでしょう。ありがとう」
まゆが力なく微笑み、リュカの頬に手を伸ばそうとする。
だが、その瞬間。まゆの手が、微かに震えた。
リュカの瞳の奥にある、自分を「獲物」として見つめる捕食者のような情熱。
看病されていた数日間の記憶は曖昧だが、肌に残る熱い感覚が、彼女の本能に警鐘を鳴らしていた。
(……リュカの目が、怖い。……いいえ、怖いのは、彼に触れられて安心してしまう、私自身なの?)
まゆは、自分の内側にある防壁が、音を立てて軋んでいるのを感じた。
リュカは、まゆの揺らぎを逃さず、その手を強引に引き寄せて自分の頬に押し当てた。
「……まゆ。もう二度と、俺を一人にしないで。……あんたがいない世界なんて、俺にはただの地獄なんだから。」
不敵に、けれど最高に切なそうに微笑むリュカ。
二人の間にあった「親愛」という名の硝子の境界線は、もはや修復不可能なほどに、無数のひび割れが走っていた。
看病を経てまゆが快復したあとも、邸宅を包む空気は以前のような透明な静謐さを取り戻すことはなかった。
十六歳から十七歳へと差し掛かるリュカの魔力は、まゆを守りたいという純粋な献身と、一刻も自分から離したくないという昏い熱情が混ざり合い、邸宅の周囲でより濃密に渦巻き始めていたのだ。
「……ねえ、リュカ。最近、森が少し静かすぎないかしら。鳥の声も、風の音も、なんだか遠くに聞こえるの……」
ある朝、テラスでハーブティーを淹れていたまゆが、ふと手を止めて呟いた。
漆黒の瞳に宿る、微かな違和感。
リュカは背後から音もなく歩み寄ると、当然のような所作でまゆの肩に手を置き、その首筋に顔を寄せる。
「……気のせいだよ、まゆ。あんたが病上がりで、感覚が鈍くなっているだけだ」
リュカの低く落ち着いた声が、まゆの耳元を熱く撫ぜる。
だが、その言葉とは裏腹に、リュカが邸宅の結界に組み込んでいたのは、まゆを害するものを防ぐ「守護」の術式を極限まで鋭利にしたものだった。
それは、邸宅全体を包み込む、淡く透き通るような虹色のヴェール。
外光を浴びてオパールのように揺らめくその結界は、「まゆにとって不快な雑音を遮断する」ための、そして「外の世界がまゆに触れることを阻む」ための、精緻な選別の檻。
まだ完全に閉じ込めるほどではないにせよ、
まゆが村へ行こうとすれば、なぜか霧が深くなって足元を危うくさせ、結局リュカの待つ玄関へと引き返させる。
まゆが誰かに手紙を書こうとすれば、リュカが「俺が届けておくよ」と穏やかに微笑んでそれを預かり、まゆの知らないところで「整理」してしまう。
まゆは、自分が少しずつ、外の世界から切り離されていることに気づき始めていた。
けれど、リュカの捧げるあまりに献身的な世話と、あの看病の夜に感じた「彼なしではいられない」という微かな依存心が、彼女の理性を甘く麻痺させていく。
(……いけないわ。この子は私の息子であり、弟のような存在。……でも、どうして彼に見つめられると、私はこんなに身動きが取れなくなるのかしら……)
まゆは、自分の内側にある「育ての親」としての矜持を必死に繋ぎ止めようとしていた。
だが、十七歳を目前にしたリュカの背丈は、もはや彼女を完全に覆い隠すほどに育ち、その虹色の瞳には、もはや子供の無垢さなどは一欠片も残っていなかった。
「……まゆ。この森には、俺とあんたの二人だけで十分だろ? 外は騒がしいし、あんたを疲れさせるものばかりだ」
リュカは、まゆの漆黒の髪を一房指に絡め、悪戯っぽく、けれど有無を言わせぬ響きを含んで微笑えむ。
「あの日俺を拾ってくれたお礼に、あんたの時間を全部守ってあげるよ。……これからは、俺の隣でゆっくり休んでいればいいんだ」
優雅に口角を上げたリュカ。
その言葉はまだ、甲斐甲斐しい弟の冗談のようにも聞こえました。しかし、まゆの瞳を見据えるオパール色の眼差しは、決して獲物を逃さない捕食者のそれだった。
まゆは、「また、そんなことを言って……」と困ったように笑って受け流そうとしましたが、その指先は微かに震えていた。
美しく揺らめく虹色の檻の中で、二人の関係は、もはや後戻りできない決壊の刻を静かに待っていたのだ。
虹色の結界が邸宅を包み込み、外界の音が遠のいたある夜のこと。
十七歳を迎えたリュカの背丈は、もはや「子供」と呼ぶことを躊躇わせるほどに完成されつつあった。その体躯はまゆを優に超え、肩幅は広く、声は低く静かな熱を帯びるようになっている。
まゆが自室で微睡みに落ちようとした時、音もなく扉が開き、薄闇の中に一筋の虹色の魔力が滑り込んできた。
「……まゆ。まだ、起きてる……?」
枕元に立った影に、まゆは心臓を跳ねさせた。月光を背負ったリュカが、銀髪を乱し、その双眸を不安げに揺らして立っていたからだ。
彼の象徴ともいえるオパールの瞳は、暗がりの中で怪しく、けれど繊細な虹色の光を放っている。見る角度によって万華鏡のように色彩を変えるその瞳は、今は主の動揺を映すように、淡い青と切実な桃色が混ざり合っていた。
「リュカ……? どうしたの、こんな夜中に……」
「……悪夢を見たんだ。あんたが、俺を置いて消えてしまう夢を。あの日、雪の中で拾われる前の、あの冷たい檻の中に一人で戻される夢だ」
リュカは縋り付くような手つきで、ベッドの端に静かに腰を下ろした。その表情は、かつての五歳の少年のように脆く、放っておけない「拾われた子」のそれだった。
「まあ、そんな……。大丈夫よ、リュカ。私はここにいるわ」
まゆは、育ての親としての本能に動かされ、彼を安心させようと上半身を起こした。
しかし、差し出した手を包み込むように取ったリュカの掌は、まゆの記憶にあるものよりずっと大きく、そして驚くほど熱を持っていた。
「……いいかな、まゆ。少しだけ、こうして……あんたの温度を確かめさせてほしいんだ」
リュカはまゆの手を自分の頬に寄せ、深く息を吐いた。家族としての「甘え」にしては、あまりに長く、慈しむような接触。
(……いけないわ。この子の手は、いつの間にこんなに熱くなったのかしら)
まゆの漆黒の瞳が、困惑に揺れる。
リュカは、オパールの瞳を伏せ、睫毛の影を落としながら、静かに言葉を繋いだ。
「ねえ、まゆ。あんたの心臓、さっきから少し速いね。……俺が、急に来たからかな」
リュカは、まゆの指先にそっと唇を寄せ、誓いを立てるように、あるいは甘えるように、羽毛のような接吻を落とす。
それは一見すれば「子供の愛着」の延長線上にある行為だったが、彼の瞳の奥で渦巻く虹色の光は、もはや「家族」という枠組みでは捉えきれない、一人の男としての凄絶な渇望を秘めていた。
「……おやすみ、まゆ。悪い夢を見ないように、今度は俺が、ここで見守っているから」
彼はまゆの手をそっと離すと、安心させるように微笑み、そのまま床に座り込む。
まゆは、暗闇の中でなおも美しく発光する彼のオパールの瞳に見守られながら、夜が明けるまで一睡もできなかった。
指先に残る熱い感触。そして、彼を「子供」として見ようとする理性を、その美貌と体温で静かに侵食していく感覚。
まゆは、リュカが仕掛けた「献身」という名の罠の中で、自分自身の心が少しずつ、けれど決定的に変わり始めていることに気づき、深い戸惑いを感じていた。




