静かなる包囲網、背丈の逆転
村での一件以来、リュカは驚くほど物分かりの良い「理想の息子」へと回帰した。
まゆの言いつけを慈しむように守り、村人に対して魔圧を放つことも、冷徹な眼差しを向けることもしない。
だが、それは彼が改心したからではない。「まゆに嫌われない方法」を、より狡猾に学習したに過ぎなかった。
十歳から十二歳にかけて、リュカの魔導の才能は、邸宅の図書室にある古文書をすべて読み解くほどに開花していた。
ある雨の日、薄暗いリビングで。リュカは暖炉の前のソファで刺繍をするまゆの足元に、迷子の子供のように頭を預けていた。
「……まゆ、見て。指先に、小さな虹を作ったんだ。これがあれば、まゆの周りだけ、嫌な羽虫も、冷たい風も、全部弾き飛ばせるよ」
リュカが指を鳴らすと、まゆの周囲に透き通るような虹色の膜がふわりと浮かび、すぐに消えた。それはかつて村人を威嚇した暴力的な魔力ではなく、まゆを慈しみ、守るためだけに精緻に編み上げられた、あまりに献身的で、けれど逃げ場のない「檻」の原型だった。
「……すごいわ、リュカ。本当に、貴方の魔法は優しくなったわね」
まゆが微笑み、リュカの髪を撫でる。その瞬間、リュカの瞳は歓喜に濡れ、どろりとした執着を隠すようにまゆの膝に顔を埋めた。
(……そう、優しいだろう? まゆを傷つけるものは、僕が全部、気付かないうちに消してやる。まゆを狙う不純な視線も、いつかまゆをこの虹の中に全部閉じ込めて、誰にも触れられるようにしてやるからな)
リュカは、まゆに叱られない「守り方」を見つけたのだ。表立って牙を剥くのではなく、愛という名で彼女の世界を少しずつ、自分の魔力で塗り潰していく方法を。
14歳の誕生日を過ぎてしばらく経った頃、リュカの成長は、魔力だけでなくその肉体にも劇的な変化をもたらした。
あの日、雪の中から抱き上げた時には羽毛のように軽かった少年は、今や見違えるほど逞しい骨格を備え始めていた。
そしてある朝、キッチンの棚にある高い場所の食器を取ろうとしたまゆが、背後に気配を感じて振り返った時、その「逆転」は唐突に訪れた。
「……まゆ、それなら俺が取るよ」
すぐ耳元で響いた声は、少年の高さを脱ぎ捨て、低く落ち着いた響きを帯びていた。
まゆがハッとして振り返ると、そこにはかつて見下ろしていたはずの小さな頭頂部ではなく、自分を少しだけ見下ろす位置にある、精悍な顎のラインと虹色の瞳があった。
「……リュカ。……貴方、いつの間にこんなに……背が伸びていたのね…。」
まゆの漆黒の瞳が微かにに揺れる。
リュカは、まゆが手を伸ばしていた皿を軽々と取ると、誇らしげに微笑んだ。
その表情はまだ幼さを残した「自慢げな息子」そのものだったが、まゆは、自分の肩を軽々と越えて伸びてきた腕の長さと、背後に感じる確かな体温の広がりに、言いようのない落ち着かなさを覚えた。
(……ついこの間まで、私を見上げていたはずなのに。……もう、私の手が届かない高さにまで、あの子は育ってしまったのね)
まゆは、胸の奥を通り抜ける微かな寂寥感と、それ以上に、今まで感じたことのない奇妙な圧迫感を、必死に「頼もしさ」だと思い込もうとして笑みを返した。
リュカは、まゆの手に触れるか触れないかの距離で皿を差し出しながら、その漆黒の瞳を見つめた。
「……やっと、追い越したな。……まゆ。これからは、俺があんたを抱き上げられる。……あんたが俺を雪の中から救ってくれたみたいに、今度は俺が、あんたを……『守って』あげられるよ」
その言葉はまだ、まゆを慕う一途な子供の「誓い」のように聞こえた。
だが、リュカの瞳の奥にある虹色の光は、あの日雪の中で拾われた瞬間よりもずっと深く、逃れられない執着を宿して輝いていた。
まゆは、
「そうね、ありがとう、リュカ」
と答える自らの声が、わずかに震えたことに気付かないふりをした。
まだ彼を「異性」として意識するには早すぎる。けれど、二人の間にあった「親子」のような均衡は、この背丈の逆転と共に、静かに、けれど徐々に崩れ始めていた。
ある初夏の午後。
邸宅の庭先で、注文された日用品を届けに来た青年が、まゆに熱心に語りかけていた。
「まゆさん、今夜は村の祭りで……。もしよろしければ、僕が案内します。貴女のような美しい方が、ずっとこの森に閉じこもっているなんて、もったいない。」
まゆが困ったように微笑み、断りの言葉を探していたその時です。背後の茂みがガサリと揺れ、リュカが姿を現しました。
「……まゆ。喉が渇いたよ」
リュカは青年を視界にも入れない風を装い、まゆの懐にすとんと滑り込みました。背丈は既にまゆを追い越し、肩幅も男らしくなり始めているというのに、その仕草だけは、あの日拾われた五歳の子供のように甘えて見せたのだ。
「あら、リュカ。今、お客様と……」
「まゆが淹れてくれるハーブティーがいいな。……お腹も空いちゃった」
リュカはまゆの腰にしがみつき、その肩口に顔を埋めて、まゆからは死角になる位置で、青年を真っ向から見据えた。
そのオパールの瞳からは先ほどまでの甘えは霧散し、凍りつくような虹色の殺意が、音もなく青年に叩きつけられる。
(……消えろ。二度とその汚い言葉を、まゆに向けるな。……死にたくなければな)
声に出さず、視線だけで放たれた凄絶な「拒絶」。
平和な村で育った青年には、その異様な威圧感に耐えられるはずもなかった。蛇に睨まれた蛙のように顔を青ざめさせた青年は、ガタガタと震えだし、配達物を放り出すようにして村へと逃げ帰っていった。
「……あ、……あの、……失礼しますっ!」
「え? ……あら、急にどうしたのかしら。あんなに慌てて……」
まゆが不思議そうに、走り去る背中を見つめた。
リュカはまゆの肩に顔を埋めたまま、満足げに口角を歪めたが、顔を上げた時には、再び「捨てられた仔犬」のような、か弱い瞳に戻っていた。
「……きっと、森の魔力に当てられたんだよ。外の人は弱いから。……ねえ、まゆ。あんな不浄な人のことは忘れて、早く部屋に戻ろう? 太陽が眩しくて、僕、頭が痛くなってきた」
「……ふふ。しかたないわね、リュカ。……もう、そんなに強くしがみつかなくても大丈夫よ」
まゆは、自分の腕の中で震えるふりをしている「大きな子供」の銀髪を、慈しむように撫でた。
リュカはその掌の温もりを独占しながら、内心で冷酷に笑っていた。
(……そうだ。あんたは、俺がこうして怯えていれば、ずっと俺を抱きしめてくれる。……外の不純物なんて、俺が全部、気づかれないように掃除してやるからな)
リュカは、まゆにとっての「無垢な息子」であり続けることで、彼女の視界から男という存在を徹底的に排除し、その聖域を自分一人の色で塗りつぶしていく。
背丈の逆転から数ヶ月。
十五歳になったリュカの美貌は、もはや「整っている」という言葉では足りないほど、周囲を威圧するような魔性を帯び始めていた。
ある初夏の午後。買い出しの帰り道、村の入り口にある大きな楡の木の影で、リュカは一人の少女に呼び止められた。
「……リュカ君、あの……これ、読んでほしいの」
まゆは少し離れた場所で、木漏れ日のなかに立つ二人を眺めていた。
少女が差し出したのは、丁寧に折り畳まれた手紙。頬を赤らめ、潤んだ瞳でリュカを見上げる彼女の姿は、紛れもなく恋に落ちた年頃の娘のそれだった。
(……ああ、そうよね。リュカはもう、あんな風に想いを寄せられる年齢になったのね)
まゆは、胸の奥をチリリと焼くような、微かな痛みを覚えた。それを「手塩にかけて育てた子が巣立とうとする寂しさ」だと定義しようとしたが、心臓の鼓動はそれ以上に速く、重い。
楡の木の下で、リュカは手紙を受け取ろうともせず、ただ冷ややかに少女を見下ろしていた。その虹色の瞳には、まゆに向けるときのような蕩けるような甘さは微塵もなく、まるで道端の石ころを見るような、徹底した「無関心」が宿っている。
「悪いけど、興味ないな。……俺の隣は、もうあの日から決まってるんだ」
低く、突き放すような声。少女が泣き出しそうな顔で立ち尽くすのも構わず、リュカは踵を返し、まゆの元へと迷いのない足取りで歩み寄った。
「お待たせ、まゆ。……変な子に捕まっちゃった。帰ろう?」
リュカはまゆの隣に並ぶと、ごく自然に彼女の荷物を奪い取り、空いた方の手でまゆの指先にそっと触れた。
「リュカ……あんなに冷たくしなくても。彼女、きっと貴方のことが好きだったのよ…?」
まゆが困ったように、けれどどこか安堵したような複雑な声で諭すと、リュカは足を止め、まゆを真っ直ぐに見つめた。
その眼差しは、あの日雪の中で拾われた子供の無垢さと、獲物を決して逃さない捕食者の執念が、危ういバランスで同居している。
「……まゆ。俺には、あんた以外の人間なんて、背景と同じなんだ。あんたが俺に名前をくれたとき、俺の世界にはあんた一人しかいなくなった。……他の誰かに想われても、俺にはノイズにしか聞こえないよ」
「……っ」
まゆは息を呑んだ。
彼の言葉はあまりに純粋で、あまりに重い。
「家族」としての親愛という枠を超えて、彼の魂が自分の魂を侵食しようとしている。その事実に気づかないふりをするのが、日増しに困難になっていく。
(……いけない。この子の『好き』と、私の『好き』は、違う種類のものでなければならないのに)
まゆは、繋がれた指先から伝わるリュカの熱に、本能的な恐怖――そして、自分でも認めがたい「歪な優越感」を感じている自分に気づき、激しく動揺した。
リュカは、まゆの漆黒の瞳が揺れるのを愉しむように薄く微笑むと、さらに強くその手を握りしめた。
「……帰ろう、まゆ。俺たちの邸宅に。……あそこには、俺とあんたを邪魔する奴なんて、誰もいないんだから」
二人の背後に広がる村の喧騒を背に、リュカはまゆを「自分たちの檻」へと優しく、けれど強引に連れ戻していった。




