漆黒の迷い、慈愛の胎動
漆黒のピアスがもたらした平穏は、リュカの心をかつてないほど凪がせていた。
かつては羽虫一匹にも牙を剥いた彼の独占欲は、今や深海のような静謐な「守護」へと昇華され、まゆを優しく包み込んでいる。
しかし、その至高の安寧のなかで、まゆは一人、底知れぬ不安の淵に立っていた。
(……どうしよう。……この温もりが、消えてしまうかもしれない……)
朝の光が差し込む寝室。まゆは、隣で安らかな寝息を立てるリュカの銀髪を、震える指先で撫でていた。
身体の奥底で、かすかに、けれど確信を持って芽生え始めている新しい命の気配。
まゆの脳裏には、二年前のあの夜のリュカが、鮮烈に焼き付いていた。
「子供なんていらない」
「俺たちの血を分けた子でも、あんたの愛を奪うなら許さない」
と、絶望に満ちた虹色の瞳で叫んだあの凄絶な拒絶。
(今のリュカは、あの日よりずっと穏やか。……でも、それは私が『彼だけのもの』でいるから。……この子を『敵』だと見なしてしまったら?)
まゆは、こみ上げる吐き気を必死に抑え込み、鏡の前で青白い顔を整えた。
数週間前から続く微かな眩暈と倦怠感。リュカの鋭い感性に気づかれないよう、まゆは自らの魔力で体調不良を覆い隠し、何事もない「愛らしい妻」のふりを続けていた。
「……まゆ。どうした、まだそんなところで突っ立って。……こっちに来い。あんた温もりを感じないと、一日が始められないんだ」
目覚めたばかりのリュカが、寝台から腕を伸ばした。耳元の漆黒のピアスが、まゆの不安に共鳴して、ドク、ドクと……少しだけ不穏な赤みを帯びて脈動する。
「ええ、今行くわ。……少し、外の空気を吸っていただけよ」
まゆは、自分の腹部にそっと手を当て、その小さな鼓動を隠すようにリュカの胸に飛び込んだ。
リュカは愛おしそうにまゆを抱きしめ、その首筋に顔を埋める。
かつてなら一瞬で見抜いたはずの違和感も、今のリュカはまゆへの絶対的な信頼(ピアスによる安らぎ)ゆえに、「少し疲れているだけだろう」と、自らの熱で癒そうとするだけだった。
「……まゆ。あんたは、本当に俺だけのものなんだな。……この腕の中に、あんた以外の不純物なんて一滴も混ざっていない。……あぁ、幸せだ。……一生、こうして二人きりで、朽ちていきたいよ」
リュカが陶酔したように囁くたびに、まゆの胸は激しく痛み、漆黒の瞳は悲しげに揺れた。
リュカが望んでいるのは「ふたりきりの永遠」。
けれど、自分の中に宿っているのは、その「二人きり」を壊してしまうかもしれない、けれど愛おしくてたまらない「3人目」の命。
まゆは、リュカの耳元のピアスにそっと指を触れ、祈るように目を閉じた。
(……ごめんなさい、リュカ。……でも、私はこの子も、貴方も、……どちらも諦めることなんてできないの……)
温室の花々が、主の知らぬ間に少しずつその香りを変え、新しい季節の訪れを告げようとしていた。
まゆの「孤独な秘密」と、リュカの「盲目的な幸福」。
ふたりの穏やかな日常は、まゆの体力の限界と共に、決壊の時を静かに待っていたのだ。
その朝、ついに糸が切れた。
朝食の席で、リュカが淹れたハーブティーの香りが鼻を掠めた瞬間、まゆは激しい眩暈と吐き気に襲われ、椅子から崩れ落ちるように膝をついた。
「……まゆ!? どうした、身体が……魔力が、ひどく乱れているぞ!」
リュカは、弾かれたように椅子を蹴立てて駆け寄った。耳元の漆黒のピアスが、まゆの苦痛に共鳴して、警鐘を鳴らすようにドクドクと赤黒く脈動する。
「……ぁ、……っ……ごめんなさい、リュカ。……ごめん、なさい……っ」
まゆは、駆け寄ったリュカの手を拒むように、自分の身体を小さく丸めた。
視界が涙で滲み、震える唇から漏れるのは、ただ繰り返される謝罪の言葉。リュカが何を言おうとしているのか、その「宣告」を聞くのが恐ろしくてたまらなくて、まゆは何度も、何度も許しを乞う。
「……まゆ? なぜ謝るんだ。……待て、今すぐ俺の魔力で調べてやる。……どこが痛む、どこが悪……っ」
リュカが狼狽えながら、まゆの背にそっと掌を当て、精緻な魔術回路でその体内をスキャンした、その刹那。
リュカの身体が、雷に打たれたように硬直した。
まゆの体内の深淵で、彼女の魔力と……そして、自分自身の虹色の魔力が、小さな、けれど確かな熱を持って溶け合い、新しい鼓動を刻んでいる。
「…………っ、……あ……嘘だろ。……まゆ、これ、は……」
リュカのオパールの瞳が、驚愕と、かつてないほどの激しい予感に虹色を乱反射させた。
それを見た瞬間、まゆは絶望に打ちひしがれ、涙を耐えるように、白くなるまで唇を強く噛み締めた。
「……っ……、……リュカは……要らない、でしょ……?」
掠れた声で、まゆがようやく紡ぎ出したのは、呪いのような問いかけだった。
「……貴方は、……私と、二人きりがいいって……。……この子は、……私の愛を、奪ってしまう……『敵』だって、言ったじゃない……っ! ……だから、……ごめんなさい、……隠してて、ごめんなさい……っ!」
まゆは、リュカの胸に顔を埋めることもできず、ただ床に涙を落とし続けた。
あの日、彼が放った「子供なんて認めない」という言葉が、二年の月日を経て、今、刃となってまゆの心を切り刻んでいた。
リュカは、目の前でボロボロに泣き崩れるまゆを、そして自分の反応を恐れて震える「最愛の神様」を、ただ呆然と見下ろしていた。
自らの独占欲が、彼女をここまで追い詰めていた。その事実に、リュカの胸の奥で、傲慢な魔王の心が音を立てて崩落していった。
「……あ、……あぁ……っ。……まゆ。……俺は、俺、は……っ!」
リュカの耳元のピアスが、まゆの悲しみと絶望を吸い込んで、これまでにないほど鮮烈な、そして痛々しいまでの漆黒の輝きを放った。
「いらないなんて……誰が、そんな……っ!」
リュカは崩れ落ちるようにその場に膝をつくと、震える手でまゆの細い肩を抱き寄せ、そのまま彼女の腹部にすがりつくように額を押し当てた。
十九歳のあの日、独占欲に狂って放った「自分たち以外の命は敵だ」という傲慢な言葉。
それが、世界で一番愛しているはずの女性をここまで追い詰め、恐れさせ、独りで泣かせていた。
その事実が、リュカの胸を鋭い刃で幾重にも切り刻んでいた。
「……違うんだ、まゆ! 俺が間違っていた……っ。あんたを独占したくて、閉じ込めておきたくて、最低な言葉を投げつけた……あの時の俺を、殺してやりたいくらいだ……っ!」
リュカのオパールの瞳からは、大粒の虹色の涙が溢れ出し、まゆの衣服を熱く濡らしていく。
リュカはまゆの体温を感じながら、その奥でトクトクと刻まれる、自分とまゆの血が混ざり合った「小さな鼓動」に耳を澄ませた。
「……いらないわけないだろ。……あぁ、なんてことだ。あんたの体の中で、俺たちの命が、……俺とあんたの『愛』が、一つになって生きてるんだ。……こんなに、愛おしい音が聞こえるのに……っ!」
リュカは顔を上げ、濡れた睫毛を震わせながら、まゆの漆黒の瞳を射抜くように見つめた。
そこには、かつての飢えた獣のような独占欲は微塵もなく、ただ、自分たちの「奇跡」に打ちのめされた、一人の愚かで愛おしい男の姿があった。
「……ごめん。ごめんな、まゆ。……俺を、許してくれ。……あんたを、そしてこの子を……一生、俺の命のすべてを懸けて守らせて。……二度と、あんたを一人にさせない。あんたが笑って、この子を抱けるその日まで……俺が、あんたの盾に、あんたの騎士になってみせるから……っ」
リュカはまゆの指先を一本ずつ、祈るように、そして誓いを上書きするように何度も接吻した。
まゆが、小さく掠れた声で尋ねる。
「リュカ……怒って、ないの……?」
リュカのピアスが、彼の激しい悔恨と、それ以上に深い「父親としての覚悟」を吸い込み、穏やかでいて烈しい漆黒の輝きを放ち始めた。
「……怒るわけないだろ! 俺が怒ってるのは、あんたをこんなに不安にさせた……俺自身にだ! 」
「……愛してる。まゆ、そして……お前も。……世界で一番、幸せにしてやるからな」
窓の外では、主の慟哭と歓喜に呼応して、邸宅中の花々が季節を無視して一斉に蕾を膨らませ、新しい命の誕生を祝福する芳醇な香りで森の邸宅を包み込んでいった。
それは、かつての「独占欲の魔王」が、最愛の妻と子を守るための「世界一過保護な守護者」へと再誕した、奇跡の朝の記憶だった。
ついに、リュカとまゆの間に新しい命が宿りました。
まゆを独占することしか頭になかったリュカが、自分と彼女の血を分けた「最強の不純物(愛の結晶)」を前に、どう変化していくのか……。
神凪の一族、その血脈が繋がる瞬間をどうぞ見守ってください!




