白銀の絶望、唯一の光
「俺を拾ったこと、後悔してももう遅いよ?」――。雪の夜に助けた5歳の美少年は、十数年後、巫女を閉じ込める執着魔王へと変貌した。巫女の聖域を「独占の檻」に変えた、あまりに重すぎる虹色の愛。死さえも許さない、魂を縫い合わせる数千年の蜜月が始まる。
凍てつく冬の咆哮が森を震わせる夜だった。
五歳の少年は、雪の中にうずくまり、ただ静かに死を待っていた。
彼は、ある高名な魔導師の一族に産み落とされた「失敗作」だった。一族が求めたのは制御可能な強大な魔力であり、彼のような、感情に呼応して周囲を焼き尽くし、敵味方の区別なく精神を汚染する「虹色の魔力」ではない。
「魔物の落とし子」「忌み子」――。
実の親にさえも、そのオパール色の瞳を恐怖と嫌悪の対象として見られ、地下の檻に閉じ込められて育った。
食事は格子越しに投げ与えられ、温もりを知らぬまま、ただ自らの内側に渦巻く禍々しい熱量に身を焼かれる日々。
そしてついに、一族の「汚れ」を消し去るために、この極寒の森へと捨てられたのだ。
(……寒い。……でも、やっと出られたんだ。……あんな暗い檻の中よりは、白くて綺麗な死に場所の方が、ずっといい……)
薄汚れた布切れ一枚の体は、絶望的な冷気に芯まで浸食されている。
『その目を見るだけで、魂が腐りそうだ』
実の親に浴びせられた言葉が、凍った血をなぞるように蘇る。
視界を白が塗りつぶし、意識が遠のいていく。少年は、自らの瞳を、自分を生んだ血を、そしてこの世界を最後の一欠片まで呪いながら、まぶたを閉じた。
意識が途切れる寸前、雪を踏みしめる柔らかな音が、死の静寂を切り裂いて近づいてくるのを感じた。
十五歳の少女、まゆ。
彼女の一族は代々、強大すぎる魔力や呪いを浄化する「守護の巫女」の血を引き、俗世の汚れを避けて聖域であるこの森を管理する役目を負っていた。
若くして両親を亡くした彼女は、その役目を継ぎ、深い慈愛と静謐な魔力をもって、孤独に森を守り続けてきたのだ。
「……っ! 来るな……! 殺すぞ……あっちに行け……っ!」
少年は、混濁する意識の中で精一杯の牙を剥いた。差し伸べられた「誰か」の灯火に怯え、震える手で雪を投げつけようとする。
大人から教わった唯一のことは、呪いの言葉を吐くことだけだった。
彼にとって、他人の手とは、自分を打つか、檻に閉じ込めるための道具でしかなかった。
けれど、少女――まゆは、一歩も退かなかった。それどころか、氷の塊のようになった少年の体を、迷いのない力強さと、羽毛のような優しさで抱き上げたのだ。
(……っ、あ……あったかい……)
少年の瞳が、驚愕に見開かれた。自分を拒絶しない腕。漆黒の髪から漂う、冬を忘れさせる柔らかな花の香り。
そして、何よりも彼を戦慄させたのは、化け物と蔑まれた自分の瞳を真っ直ぐに見つめる、深く穏やかな漆黒の瞳だった。
「…………。怖くないの? 僕、気持ち悪い、……こんな目をして……」
震える声で問いかける少年に、まゆはふわりと、雪をも溶かすような温かい微笑みを浮かべた。そして、彼の冷え切った耳元で、囁く。
「大丈夫よ。……今日から、私が守ってあげる」
少年は、まゆの衣服を小さな指でぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で握りしめた。
(……この人だ。僕を、僕の呪いを、全部この人に預けよう。……この人がきっと、僕の『神様』だ)
まゆは少年を、自身の結界に守られた温かな邸宅へと連れ帰った。
暖炉の火が爆ぜ、スープの香りが漂う室内。生まれて初めて知る「家」の温度に、少年の強張った体がゆっくりと解けていく。
まゆは彼を膝に乗せ、濡れた銀髪を丁寧に拭きながら、巫女として受け継いできた漆黒の魔力を、少年の冷え切った身体へそっと滑り込ませた。
「私はまゆ。貴方の名前は、なんていうの?」
「……ない。……いらない。……化け物に、名前なんて……あっても、どうせ呪われるだけだ」
(……なんて酷い。指先も、心も、氷のように凍りついている。この子は、どれほどの孤独の中に置き去りにされてきたの?)
まゆの内心には、激しい憤りにも似た、切実な祈りが渦巻いていた。この命一つ救えずして、何が守護の巫女か。
まゆは、少年の青白い頬を掌で包み込み、その魂の深淵へと語りかけるように声を落とした。
「……貴方のこれまでの苦しみも、凍えるような夜も、全部この森の雪が隠してくれたわ。……だから、もう目を開けて」
その時。
少年の睫毛が微かに震え、瞼がゆっくりと持ち上がった。
現れたのは、凄絶な虹色の瞳。まゆの漆黒の瞳に映し出されたその色は、呪いなどではなく、世界で最も美しい宝石の輝きだった。
少年は、言葉を失ったようにまゆを見つめ返した。彼にとって、まゆの魔力は初めて触れる「熱」そのものだった。自分を拒絶し続けた世界の中で、唯一自分を抱きしめてくれた存在。
少年の虹色の瞳に、まゆの姿が絶対的な「光」として刻印された瞬間だった。
(……この瞳。まるで、世界中の光を閉じ込めたみたい。……この子の名は……そうね。幸せを運ぶ光――)
まゆは、少年の小さな手を自分の胸元に引き寄せ、微笑んだ。
「名前がないなら、私が付けてあげる。……そうね、『リュカ』。リュカはどう? 私の故郷の言葉で『光』……そして、『幸せ』っていう意味よ」
その瞬間、少年の胸の奥で何かが音を立てて弾けた。絶望に凍てついていた心臓が、ドクン、と大きく脈打ち始める。自分を肯定し、あろうことか「幸せ」という名を授けてくれた存在。
「……幸せ(リュカ)……? ……リュカ。……リュカ……」
リュカは与えられた名前を何度も、確かめるように呟いた。
不器用な少年の指が、まゆの服の裾をぎゅっと、痛いほどに握りしめた。
それが、数百年、数千年と続くことになる「永遠の呪縛」の始まりであることに、十五歳のまゆはまだ気づいていなかった。
ただ、目の前の小さな「幸せ(リュカ)」を、漆黒の慈愛で一生守り抜こうと、強く心に決めた。……その清らかな決意こそが、リュカを永遠にこの森へ縛り付ける『愛の鎖』になるとも知らずに。
翌朝。神凪の森は、夜通し降り積もった新雪によって、音の一切を吸い込まれたような純白の静寂に包まれていた。
邸宅の寝室、柔らかな陽光が窓から差し込み、まゆが昨夜整えたベッドの上で、リュカはゆっくりと目を覚ました。
(……温かい。……痛くない。……苦しくない。)
五歳のリュカにとって、それは生まれて初めて知る「安眠」だった。
骨を削るような凍えも、内臓を灼くような空腹もない。代わりにそこにあったのは……、甘く清らかな花の香りと、自分を抱き上げてくれたあの温もりの残響。
「……まゆ?」
覚えたばかりの、神様の名前。
リュカは飛び起きるようにして周囲を見渡した。しかし、そこには誰もいない。
まゆは彼のために食事を用意しようと、一足先に部屋を後にしていたのだ。
「…………い、ない」
その瞬間、リュカのオパールの瞳が、絶望的な虹色に染まる。
昨夜の出来事は、死の間際に見せた雪山の幻覚だったのか。自分を「リュカ」と呼び、側にいると言ってくれたあの微笑みは、溶けて消える雪の華だったのか。
(……嫌だ。どこだ。……どこに行ったんだ。……僕を、独りにしないで……っ!)
リュカの奥底に眠っていた強大すぎる魔力が、彼の「喪失への恐怖」に呼応して、牙を剥くように爆発する。
バキ、バキッ、と寝室の窓ガラスに虹色のヒビが入り、室内の家具が目に見えない魔圧に押し潰されて悲鳴を上げ始める。リュカ自身も制御不能な光の奔流に呑み込まれ、小さな体を震わせて叫んだ。
「まゆ……っ! まゆぅ……!!」
「――リュカ! ここにいるわ、落ち着いて!」
扉が勢いよく開かれ、まゆが駆け込んできた。
荒れ狂う虹色の魔力が彼女の肌を焼き、服を切り裂こうと襲いかかる。しかし、まゆは一歩も退かなかった。彼女は自らの漆黒の魔力を全身に纏い、荒れ狂う光の嵐の中へと飛び込み、リュカの小さな体を力一杯抱きしめた。
「……ごめんなさい、独りにして。……私はここにいるわ。どこへも行かない。……貴方の側にいるって、約束したでしょう?」
まゆの漆黒の受容の魔力が、リュカの暴走する虹色を、一滴残らず吸い込んで凪がせていった。
嵐が過ぎ去ったあとのような静寂。
リュカは、まゆの胸元に顔を埋め、過呼吸気味に彼女の衣類を握りしめた。
(……あぁ、これだ。この匂い、この熱。……本物だ。……この人は、僕を捨てなかった。なら、僕も一生、この手を離さない)
リュカの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
今思えば、それは悲しみの涙ではなく、一度手に入れた光を二度と離さないと決意した、五歳の少年なりの「執着」の産声だったのかもしれない。
「……まゆ。……まゆ。……約束。……ぜったい、……離れない?」
「ええ、約束よ。……貴方が、私を必要としてくれる限り。……ずっと、ずっと一緒よ」
まゆは、リュカの背中を優しく撫でながら、
この騒がしくも愛おしい朝の光の中で、自分の腕の中で震えるこの「眩しすぎる命」の重みを感じていた。
……この小さな光が、やがて自分を一生閉じ込める強欲な魔王へと育つことを、この時の彼女はまだ知る由もなかった。




