甘い毒
依頼人は、終始、笑顔だった。
神崎探偵事務所のソファに座る女性――
佐伯美沙、三十四歳。
きちんと整えられた髪。
上品なワンピース。
だが指先だけが、微かに震えている。
「主人が……浮気しています」
声は落ち着いている。
泣き崩れるわけでもない。
怒りも見せない。
ただ、疲れている。
「調査対象はご主人ではなく?」
「不倫相手です」
玲央はペンを止める。
「理由を」
「主人が……変わってしまったんです」
ゆっくりと語られる。
以前は穏やかだった。
子供思いで、冗談も言う人だった。
だが半年前から様子がおかしい。
・夜中に突然外へ出る
・食事をほとんど取らない
・急に怒鳴る
・ぼんやりする時間が増えた
「不倫は確実ですか」
「スマートフォンを見ました」
相手の名前は――
藤宮 梨花
美沙は続ける。
「離婚はしません」
強い口調だった。
「子供のために」
五歳の娘がいるという。
「主人を取り戻したいんです」
その言葉だけは、本音だった。
*
調査は翌日から始まった。
対象は夫、佐伯慎一(37)。
中堅IT企業勤務。
外見は疲労が色濃い。
目の下の隈。
頬のこけ。
慢性的な睡眠不足。
*
三日目。
慎一は仕事帰りに駅近くのカフェへ入る。
そこに現れたのが、藤宮梨花。
黒髪。
整った顔立ち。
柔らかい微笑み。
一見すれば、どこにでもいる美しい女性。
だが玲央は違和感を覚える。
視線。
瞬きの少なさ。
笑顔が、目に届いていない。
*
二人は会話し、
梨花は慎一の手に触れる。
慎一の表情は――
幸福ではない。
むしろ怯えている。
*
「……妙だな」
浮気関係にしては、主従が逆だ。
支配しているのは梨花。
*
一週間の尾行。
ホテル利用は確認。
だがそれ以上に気になる点。
慎一の体調悪化。
頻繁なめまい。
立ちくらみ。
会社も早退が増えている。
*
玲央は梨花の身辺を調べる。
三年前に転居。
職歴は曖昧。
短期雇用を繰り返している。
そして――
過去に交際していた男性が三人。
三人とも、既に死亡。
*
一人目。
転落事故。
二人目。
入浴中の溺死。
三人目。
急性心不全。
いずれも事故扱い。
だが共通点がある。
・交際期間は約半年
・死亡直前に体調不良
・周囲と疎遠になっている
*
「……ゆっくり壊している」
玲央は呟く。
急激ではない。
時間をかけて、社会的にも肉体的にも孤立させる。
事故に見せかける。
*
九条に連絡を入れる。
「事故扱いの三件、再確認できるか」
「証拠がないと難しいわよ」
「共通人物がいる」
「誰?」
「藤宮梨花」
電話の向こうで沈黙。
*
その夜。
慎一は梨花の部屋へ入る。
玲央は距離を保ちつつ監視。
数時間後、慎一が出てくる。
足元がふらついている。
壁に手をつきながら歩く。
*
翌朝。
美沙から電話。
「主人が倒れました」
病院。
診断は低血圧と脱水。
だが血液検査に微量の異常。
「特定の薬物ではないが、通常摂取しない成分」
医師が言う。
*
玲央の中で仮説が固まる。
梨花は少量ずつ、何かを混入している。
毒ではない。
だが蓄積すれば致命的。
*
数日後。
慎一が言う。
「梨花がいないと、生きていけない」
目が虚ろだ。
完全に依存状態。
*
玲央は梨花と直接接触を試みる。
偶然を装い、カフェで隣席に座る。
「藤宮さんですね」
梨花は微笑む。
「どなたかしら」
「神崎です」
その瞬間。
彼女の瞳の奥が、一瞬だけ冷える。
*
「あなたの恋人たち、皆さん不幸でしたね」
「偶然です」
「三度続けば偶然とは言いません」
梨花は微笑み続ける。
「証拠は?」
玲央は答えない。
まだ、ない。
*
帰り際。
梨花が小さく囁く。
「彼は、私がいないと壊れるの」
ぞくりとする声。
「あなたにはわからない」
*
浮気調査は、連続殺人の疑惑へ。
だが証拠はない。
そして慎一の体調は確実に悪化していく。
藤宮梨花は、毒を盛らない。
少なくとも、法医学で即座に検出される類のものは使わない。
玲央は過去三件の事故死を改めて洗い直していた。
転落死の男性は、事故直前まで極度の不眠状態だった。
溺死した男性は、睡眠導入剤を常用していた。
心不全の男性は、慢性的な脱水と電解質異常があった。
いずれも“本人の生活習慣”として処理されている。
だが、その生活習慣を作ったのは誰だ?
「……環境を壊している」
梨花は直接殺さない。
相手の生活を、ゆっくりと侵食する。
睡眠を奪い、
食事を乱し、
家族や友人との関係を断ち、
依存させる。
そして最後に、ほんの少しだけ“背中を押す”。
事故に見える形で。
*
慎一のスマートフォン履歴を、美沙の同意のもと解析する。
梨花からのメッセージは、甘い。
だがその内容は巧妙だ。
『奥さんはあなたを理解していない』
『あなたは疲れているだけ。私が癒してあげる』
『最近、少し顔色が悪いね。ちゃんと薬飲んでる?』
薬?
玲央は眉を寄せる。
*
美沙に確認する。
「ご主人、何か常用薬は?」
「いいえ。健康診断でも問題はありませんでした」
「最近、サプリメントやドリンク類を?」
「……あ」
美沙の表情が変わる。
「最近、よく持ち帰っていました。梨花さんが“体にいいから”って」
*
慎一のカバンから小瓶が見つかる。
ラベルは海外製サプリメント。
成分表示は曖昧。
玲央は九条に回す。
*
「合法成分だけど、問題は“量”ね」
九条が言う。
「利尿作用が強い。脱水を引き起こす可能性がある」
「長期的に?」
「心臓にも負担がかかる」
玲央は目を閉じる。
三人目の心不全。
同じパターンだ。
*
梨花は“健康”を装う。
相手の体調悪化を“本人の不摂生”に見せかける。
医師も疑わない。
*
だが、それだけでは死に至らない。
決定打があるはずだ。
*
尾行を続ける。
ある夜、慎一は梨花のマンションへ。
数時間後。
二人は車で郊外へ向かう。
山道。
夜。
人気はない。
玲央は距離を保つ。
*
車は展望台に停車。
慎一は明らかにふらついている。
梨花が支える。
まるで介護のように。
*
「夜景、きれいね」
梨花の声が風に乗る。
「……うん」
慎一の声は弱い。
玲央は遠くから双眼鏡で確認。
柵の近く。
足場は不安定。
転落事故が起きても不思議ではない。
*
梨花が慎一に何かを飲ませる。
ペットボトル。
数分後。
慎一は膝をつく。
意識が朦朧としている。
*
「今だな」
玲央は車を降りる。
*
「危ないですよ」
声をかける。
梨花が振り返る。
表情は穏やか。
「偶然ですね、探偵さん」
「夜景ですか」
「ええ。彼、最近ふらつくの」
「知っています」
玲央は慎一を支える。
脈は速い。
瞳孔がわずかに開いている。
*
「あなた、押すつもりでしたね」
玲央が言う。
梨花は微笑む。
「証拠は?」
「ありません」
「なら、ただの妄想」
*
その瞬間。
慎一が呟く。
「……水」
玲央の視線が梨花へ向く。
彼女のバッグの中。
同じ小瓶。
*
「今回は、早すぎます」
玲央は低く言う。
「まだ依存が足りない。あなたは“もっと壊す”はずだった」
梨花の目が、初めて揺れる。
*
「あなたは、支配が好きだ」
「違うわ。救っているの」
「壊している」
「彼らは皆、弱かった」
「だから殺した?」
「死んだだけ」
*
その時。
背後にパトカーのライト。
九条が現れる。
「藤宮梨花、任意同行をお願いするわ」
梨花は笑う。
「何の容疑で?」
「薬機法違反、まずはそこから」
小瓶が押収される。
*
梨花は連行される。
だが決定的証拠はまだない。
*
病院。
慎一は一命を取り留める。
数日後、意識が戻る。
玲央は静かに問う。
「彼女に、何を飲まされていましたか」
慎一は震える。
「……優しさだと思ってた」
*
梨花は拘束されたが、殺人の立証は困難。
過去三件も事故扱いのまま。
そして彼女は取り調べで、ほとんど何も語らない。
だが玲央は確信している。
彼女はまだ終わっていない。
藤宮梨花は黙秘を続けていた。
薬機法違反での立件は可能。
だが、三件の“事故死”を殺人として立証するには決定打がない。
物的証拠は残さない。
毒物は使わない。
事故は本人の行動の結果。
完璧な“外形”。
*
玲央は取調室の向こうに座る梨花を見つめていた。
ガラス越し。
彼女は穏やかに微笑んでいる。
まるで自分が被害者であるかのように。
「あなたは殺していない」
玲央は独り言のように呟く。
「だが、死なせている」
*
九条が隣に立つ。
「論理だけじゃ起訴はできないわ」
「わかっています」
「なら?」
「構造を崩します」
*
玲央は三件の被害者の共通点を改めて整理する。
1.交際開始から約半年
2.家族・友人との断絶
3.体調不良の慢性化
4.事故現場は“二人きり”の状況
だが、第五の共通点がある。
死亡直前、全員が“生命保険の受取人を変更”していた。
受取人は――藤宮梨花。
*
「金か?」
九条が言う。
「違う」
玲央は首を振る。
「金は副産物だ」
*
保険金の総額は大きくない。
むしろ、彼女の生活水準に対して不釣り合いなほど質素だ。
ブランド品もない。
高級マンションでもない。
金目的なら効率が悪すぎる。
*
「彼女は“証明”している」
「何を?」
「自分の支配力を」
*
玲央は再び取調室へ。
「あなたは弱い男性を選ぶ」
梨花は微笑む。
「偶然よ」
「違う。家庭を持ち、責任を抱え、疲弊している男」
「それが好みなだけ」
「違う。壊しやすい」
沈黙。
*
「あなたは、直接殺さない」
「だから無実」
「違う。あなたは“選択肢を奪う”」
梨花の視線がわずかに鋭くなる。
*
「睡眠を奪い、
食事を乱し、
家族を遠ざけ、
“私しかいない”と思わせる」
「愛よ」
「依存だ」
*
玲央は机に写真を並べる。
三人の被害者。
そして慎一。
「あなたは最後に必ず“確認”する」
「何を?」
「この人は、私なしでは生きられないか」
*
転落死の男は、事故直前、同僚にこう言っている。
『彼女がいなければ、何も残らない』
溺死した男は、友人に。
『彼女に捨てられたら死ぬ』
心不全の男は、日記に。
『彼女が離れたら、心臓が止まる気がする』
*
「あなたは、その言葉を引き出す」
玲央は静かに言う。
「それが聞きたい」
「……」
「“私がいないと死ぬ”という言葉が」
*
梨花の微笑みが、初めて消えた。
*
「あなたは試している」
「……何を」
「人間の脆さ」
*
玲央の声は低い。
「あなたは幼少期、見捨てられた」
九条が目を見開く。
調査済みの資料。
梨花は児童養護施設育ち。
母親は恋人に依存し、男が去るたびに自傷を繰り返していた。
「“男は裏切る”と学んだ」
「……」
「だから今度は、あなたが壊す側に回った」
*
沈黙。
取調室の空気が重くなる。
*
「私は殺してない」
梨花が初めて低く言う。
「ええ。直接は」
「彼らが勝手に弱かった」
「違う」
玲央は即答する。
「あなたが弱かった」
*
その一言。
梨花の呼吸が乱れる。
*
「見捨てられるのが怖かった」
「……違う」
「だから、先に壊した」
「違う!」
机を叩く。
初めて感情が露わになる。
*
「私は必要とされたかった!」
叫び。
「“君がいないと生きられない”って言われたかった!」
*
沈黙。
九条が静かに録音を止める。
それは自白ではない。
だが動機の核心。
*
その後、保険金の不正誘導と薬剤常用の立証が進み、
三件は業務上過失致死ではなく、未必の故意による殺人容疑へ切り替わった。
時間はかかる。
だが、崩れた。
*
数週間後。
美沙と慎一が事務所を訪れる。
慎一はまだ痩せているが、目は戻っている。
「……すみませんでした」
妻へ向けての言葉。
美沙は泣きながら頷く。
「戻れると思いますか」
慎一が玲央に問う。
「以前と同じには戻らない」
二人の顔が強張る。
「だが、別の形にはなれる」
*
「依存ではなく、選択として隣にいること」
玲央は静かに言う。
「それができるなら」
*
二人は手を握る。
不完全な、だが確かな再出発。
*
夜。
事務所。
九条が言う。
「あなた、時々残酷ね」
「事実を言っただけです」
「でも救った」
玲央は窓の外を見る。
「救ったのは彼ら自身です」
*
机の上に、押収された小瓶の写真。
甘い香りのサプリメント。
ゆっくりと、体を壊す。
「甘い毒」
玲央は呟く。
「一番危険なのは、欲しい言葉だ」
*
電話が鳴る。
新しい依頼。
静寂は、また揺れる。
「神崎探偵事務所です」
声はいつも通り落ち着いている。
流れは止まらない。
真実もまた、沈黙の中にある。




