沈黙する遺言
その依頼は、雨の日に届いた。
事務所の窓を打つ水滴の音が、一定のリズムを刻んでいる午後三時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、そこに立っていたのは見覚えのある顔だった。
「……久しぶり、玲央」
少し痩せたが、面影は変わらない。
高校時代の同級生、**柏木悠斗**だった。
蒼嶺高校のクラスメイト。成績は中の上。人当たりがよく、クラスの緩衝材のような存在だった男。
「三年ぶりくらいか」
「もっとじゃないか?」
玲央は中へ招き入れる。
悠斗は部屋を見回した。
「……ほんとに探偵やってるんだな」
「生活はできている」
世間話はそこそこに、悠斗は本題を切り出した。
「祖父が亡くなった」
声は硬い。
「遺産相続で揉めてる」
よくある話だ、と玲央は思った。
「遺言書があるんだ。でも……」
悠斗は封筒を差し出す。
「これが、意味不明なんだ」
*
祖父の名は柏木源蔵。
地元で酒造会社を一代で築いた人物。
資産は相当な額だという。
「弁護士が言うには、確かに法的効力はある形式らしい。でも肝心の内容が……」
玲央は封筒を開き、中の紙を広げた。
そこには、達筆な筆文字でこう書かれていた。
⸻
**『水は高きより低きへ流れ、
鶴は千年を待ち、
松は影を二つ持つ。
東の蔵、三番目の梁。
夜半の刻、月が欠ける頃。
四を嫌い、九を恐れよ。
我が名を三度読み、
原点に戻れ。』**
⸻
悠斗が言う。
「意味わかるか?」
「まだわからない」
玲央は静かに紙を見つめる。
弁護士にも解読できないというのは理解できる。
これは単なる詩ではない。
明らかに構造がある。
*
「家族構成は?」
「父と叔父、それに叔母。俺は孫代表みたいな感じで呼ばれてる」
「仲は?」
悠斗は苦笑する。
「最悪だな。全員、自分が多くもらえると思ってる」
「祖父はどんな人だった?」
「変わり者。でも頭はキレた。数字遊びとか暗号好きだった」
玲央は頷く。
ならばこれは単なる比喩ではない。
論理的に作られている。
*
「現地を見せてほしい」
「今日行くか?」
「今からでいい」
*
柏木家の屋敷は、都内西部の旧家が並ぶ一角にあった。
門構えは立派。
敷地内には酒蔵が三棟。
そのうち一つが「東の蔵」だという。
*
玄関には既に家族が揃っていた。
父・柏木隆一(55)
叔父・柏木誠一(52)
叔母・柏木美紀(48)
全員が、玲央を値踏みするように見る。
「探偵? そんな若造に何がわかる」
叔父が吐き捨てる。
玲央は淡々と答える。
「わからないかもしれません。ですが試す価値はある」
*
まず蔵を確認する。
東の蔵。
梁は全部で五本。
「三番目の梁……」
玲央は見上げる。
確かに三番目に印がある。
だが何もない。
埃だけ。
「夜半の刻、月が欠ける頃」
悠斗が言う。
「時間指定?」
「あるいは“光”」
玲央は蔵の窓位置を確認する。
月が差し込む角度。
そして床を見る。
梁の影。
「松は影を二つ持つ」
庭にある松の木。
夜、月光で影が二重になる可能性。
だが今は昼だ。
「今夜、もう一度来る」
*
その夜。
月は半月。
欠けている。
玲央は蔵の中で待つ。
やがて月光が窓から差し込む。
梁の影が床に落ちる。
三番目の梁の真下。
影が松の影と重なった瞬間。
床板に微妙な継ぎ目が浮かび上がった。
「……なるほど」
板を外す。
中から小箱が出てきた。
*
箱の中には、さらに紙が一枚。
⸻
『四を嫌い、九を恐れよ。
我が名を三度読み、原点に戻れ。』
⸻
「まだ終わらない」
玲央は言う。
「これは多段式だ」
四を嫌い、九を恐れよ。
死(四)、苦(九)。
日本的な忌み数。
だが祖父は合理主義者だったという。
「源蔵」
玲央は呟く。
「源、原点。蔵、倉庫」
「……原点に戻れ?」
悠斗が言う。
玲央は屋敷の平面図を広げる。
中心点。
家の“原点”。
それは、座標で言えば(0,0)。
昔の設計図では、玄関を基準にしている。
玄関から四歩進み、九歩戻る。
「違う」
玲央は首を振る。
「四と九を“除外”する」
梁は五本。
四を嫌うなら四番目を除く。
九を恐れるなら、九に関係する数字を避ける。
「生年月日は?」
悠斗が答える。
「九月四日」
玲央は微笑んだ。
「なるほど」
祖父は自分の誕生日を暗号キーにしている。
九と四を排除。
残る数字は?
年月日を足す。
そして導き出される座標。
*
導き出された場所は、仏間の床下。
そこから金庫が現れた。
中には正式な遺産分割書。
内容はこうだった。
――事業は誠一へ。
――不動産は隆一へ。
――現金資産の半分は悠斗へ。
そして残り半分は――
酒蔵の従業員へ分配せよ。
*
家族は凍りつく。
「従業員だと?」
叔父が怒鳴る。
だが法的には有効。
弁護士も確認する。
*
帰り道。
悠斗が言う。
「なんで俺なんだ?」
「祖父は見ていた」
「何を?」
「君だけが、蔵の職人たちと普通に話していた」
悠斗は黙る。
「これは財産の分配ではない」
玲央は静かに言う。
「信頼の分配だ」
*
事務所に戻る。
依頼は成功。
報酬も支払われる。
だが玲央は、あの遺言の最初の一文を思い出していた。
水は高きより低きへ流れ――
力は、持つ者から持たざる者へ。
祖父はそれを望んだ。
静寂の中で。
玲央は小さく息を吐く。
真実は、時に血よりも濃い。
事務所に戻ったその夜。
柏木源蔵の遺言書の写しを、玲央はもう一度机に広げていた。
依頼は成功した。
正式な遺産分割書も見つかった。
法的にも問題はない。
それでも――
「……終わっていない」
違和感がある。
論理は整っている。
暗号も合理的だった。
だが最初の一文だけが、浮いている。
⸻
水は高きより低きへ流れ、
鶴は千年を待ち、
松は影を二つ持つ。
⸻
暗号として機能していたのは、後半部分だ。
前半は本当に必要だったのか?
玲央は目を細める。
「水は高きより低きへ流れ」
これは自然法則だ。
わざわざ書く意味は?
そして、
「鶴は千年を待ち」
時間を示す比喩。
千年。
誇張にしては、具体的すぎる。
*
翌日、玲央は再び柏木家を訪れた。
悠斗が驚く。
「どうした?」
「少し確認したいことがある」
*
まず仏間。
祖父の遺影が飾られている。
「死亡原因は?」
「心不全。医者も来た」
「自然死?」
「そうだよ。八十三歳だし」
玲央は遺影の横に置かれた日付を見る。
死亡日は、三月九日。
「……九」
忌み数。
偶然か。
*
次に庭へ出る。
池がある。
水は敷地の奥から手前へ流れている。
高低差があるのだ。
「水は高きより低きへ流れ」
玲央は池の水源を見る。
源蔵が設計したと聞く。
水の流れは、家の裏手へ続いている。
*
「悠斗、祖父は亡くなる直前、何か言ってなかったか」
悠斗は考える。
「……“戻せ”って言ってた」
「戻せ?」
「うん。水を、って」
玲央の思考が止まる。
「水を戻せ」
水は自然に逆流しない。
戻すには、人工的な力が必要だ。
*
池の構造を詳しく見る。
底に新しい配管がある。
「これは最近?」
「いや……工事は叔父が手配してた」
「いつ?」
「祖父が倒れる一週間前」
玲央は静かに立ち上がる。
「誰が設計した?」
「叔父だと思う」
*
柏木誠一。
事業を継ぐことになった叔父。
彼は酒造設備の刷新も主導していた。
合理主義者。
だが金銭的には逼迫していたという噂もある。
*
「祖父は水の流れに強いこだわりがあった」
悠斗が言う。
「“流れが正しければ家は続く”って」
「それを変えた?」
「……」
*
玲央は池の水を採取する。
簡易検査キットで成分を見る。
通常より鉄分が多い。
そして微量の薬剤反応。
「……心不全」
だが、特定の薬剤は心臓に負担をかける。
「水源はどこだ」
裏手の井戸。
そこに新しいバルブ。
夜。
玲央はこっそり井戸の周囲を調べる。
配管は屋敷内へ伸びている。
最終的に繋がるのは――
台所。
*
「祖父は毎朝、この井戸水を飲んでいた」
悠斗の声が震える。
玲央は静かに言う。
「水は高きより低きへ流れる。
だが“戻す”こともできる」
「つまり……?」
「流れを逆にすれば、毒は水源から届く」
*
翌日。
九条真琴に連絡を入れる。
「久しぶりね。今度は相続?」
「違います。殺人の可能性があります」
九条の声が変わる。
「証拠は?」
「まだ推測です。ただし合理的」
*
再調査。
祖父の検体は一部保存されていた。
再鑑定。
微量の強心剤成分が検出される。
慢性的に摂取すれば、心臓発作を誘発する。
*
家族が集められる。
九条が立つ。
「柏木源蔵氏は自然死ではない可能性が高い」
空気が凍る。
「配管工事を主導したのは、柏木誠一さん、あなたですね」
叔父の顔色が変わる。
「偶然だ!」
「偶然ではない」
玲央が言う。
「遺言の最初の三行は、暗号ではなく“告発”です」
⸻
水は高きより低きへ流れ
→ 流れを変えられた
鶴は千年を待ち
→ 長期的摂取
松は影を二つ持つ
→ 表と裏、二重構造の配管
⸻
「祖父は気づいていた」
玲央は静かに続ける。
「だから暗号にした」
「……証拠はあるのか!」
叔父が叫ぶ。
九条が答える。
「あります。配管内部から薬剤残留物が検出されました」
崩れる叔父。
「事業が……もう限界だった……」
*
祖父は、すべてを見抜いていた。
そして最後に、家族と従業員を守る形で遺言を残した。
*
夜。
事務所。
悠斗が頭を下げる。
「ありがとう」
「依頼内容は遺言解読だった」
「でも救ってくれた」
玲央は答えない。
*
静寂。
机の上に遺言書の写し。
祖父は、死の直前まで思考していた。
論理を武器に。
真実を、未来へ残すために。
玲央は小さく呟く。
「沈黙は、必ずしも無力ではない」
柏木誠一の逮捕は、静かに報じられた。
老舗酒造会社社長の死因再鑑定。
親族による薬剤混入の疑い。
ニュースは淡々と事実だけを流した。
だが柏木家の中では、それは崩壊に等しかった。
*
数日後。
玲央は再び屋敷を訪れた。
庭の池は水を抜かれ、配管は撤去されていた。
水は止まっている。
流れはない。
だが静寂は、以前よりも澄んでいた。
「……終わったな」
悠斗が言う。
「終わってはいない」
玲央は池の底を見る。
「ここから始まる」
*
応接間。
父・隆一は憔悴していた。
「誠一があんなことを……」
だが玲央は首を振る。
「叔父さんだけの問題ではありません」
「どういう意味だ」
「源蔵氏は、全員を試していた」
*
遺言の最後の一文。
我が名を三度読み、原点に戻れ。
源蔵。源蔵。源蔵。
“源”は始まり。
“蔵”は蓄積。
そして柏木家の原点は――
小さな蔵で、家族全員が一緒に酒を仕込んでいた時代だ。
「あなた方は事業を“所有物”と考えた」
玲央は静かに言う。
「しかし源蔵氏は“流れ”と考えていた」
水の流れ。
人の流れ。
金の流れ。
*
隆一が呟く。
「私は守ることばかり考えていた」
「叔父さんは?」
「拡大だ。常に」
「そして悠斗は?」
悠斗は顔を上げる。
「俺は……蔵の人たちと酒を造るのが好きだっただけだ」
玲央は微かに頷く。
「だから選ばれた」
*
祖父が悠斗を指名した理由。
それは能力でも長男でもない。
流れを止めなかったからだ。
従業員を家族のように扱い、
現場に立ち、
利益よりも空気を大事にした。
源蔵は見抜いていた。
*
「玲央」
悠斗が呼ぶ。
「探偵って、なんだ?」
唐突な問いだった。
玲央は少し考える。
「流れを整える仕事だ」
「流れ?」
「事実と嘘。
感情と理屈。
過去と未来。」
それらが滞ると、淀む。
「俺は水路を探すだけだ」
*
夕方。
屋敷を出る。
門をくぐる前に、玲央は振り返る。
祖父の遺影が窓越しに見える。
厳しい顔だが、どこか穏やかにも見えた。
「あなたは沈黙で語った」
玲央は心の中で言う。
「見事でした」
*
数週間後。
酒造会社は再建に向けて動き出した。
悠斗が代表取締役に就任。
従業員への分配は正式に実行された。
新聞はそれを“異例の決断”と書いた。
*
事務所。
九条真琴が訪れる。
「相変わらず面倒な案件に首を突っ込むわね」
「依頼の延長です」
「警察に来ない?」
「行きません」
即答だった。
九条は苦笑する。
「本当に警察が嫌いなのね」
「組織は流れを固定する」
「悪いこと?」
「必要です。ただ、俺には向いていない」
*
九条が帰った後。
机の上に封筒がある。
悠斗からの報酬。
そして一通の手紙。
⸻
玲央へ
じいちゃんの蔵は、また酒を仕込み始めた。
水の流れも元に戻した。
あんたが言った通り、流れは止めない。
いつか一緒に飲もう。
悠斗
⸻
玲央は封筒を閉じる。
窓の外では、夕日が沈みかけている。
赤い光が部屋を満たす。
*
探偵になって三年。
浮気調査、素行調査、失せ物探し。
派手さはない。
だが確かに、人の人生の節目に立ち会っている。
「静寂は、無音じゃない」
玲央は独り言のように呟く。
「そこには、必ず理由がある」
*
電話が鳴る。
未知の番号。
「神崎探偵事務所です」
『……助けてください』
若い女性の声。
震えている。
玲央は目を閉じる。
流れは、止まらない。
「お話を聞きましょう」
静かに、しかし確かに。
神崎玲央は、次の真実へ歩き出す。




