灰色の契約
神崎玲央は、大学卒業と同時に探偵事務所を開業した。
場所は都内の雑居ビル三階。
築四十年。エレベーターは古く、二階で止まることがある。
表札には小さくこう書かれている。
神崎探偵事務所
資金は大学時代のアルバイトと奨学金の残りを切り詰めて用意した。机一つ、椅子二脚、ノートパソコン、防犯カメラ、簡易分析機材。
華やかさはない。
だが玲央は満足していた。
組織に属さない。
上司もいない。
命令もない。
あるのは、自分の判断だけだ。
*
依頼は多くない。
浮気調査。
所在不明者の捜索。
企業の内部不正の証拠収集。
正直に言えば、理想とする“真実を暴く仕事”ばかりではない。
だが選り好みできるほどの余裕はなかった。
事務所の家賃、光熱費、生活費。
現実は、冷静な計算を要求する。
*
ある日の午後。
事務所の電話が鳴った。
「神崎探偵事務所です」
数秒の沈黙。
「……久しぶりね」
九条真琴だった。
声色はいつもより硬い。
「お仕事ですか」
「ええ。しかも正式に」
「正式?」
「警視庁からの依頼よ」
玲央はわずかに眉を動かす。
*
三日後。
神崎探偵事務所に、スーツ姿の男二人と九条が現れた。
応接用の椅子が足りないため、簡易パイプ椅子を広げる。
男の一人が分厚い封筒を机に置いた。
「警視庁刑事部捜査一課、管理官の三枝です」
五十代半ば。冷たい目。
「外部協力者としての正式契約になります」
封筒の中には契約書が入っていた。
守秘義務条項。
情報漏洩時の刑事責任。
成果報酬規定。
警察の指揮権優先条項。
細かい文字が並ぶ。
「随分と厳しいですね」
「当然です。扱うのは殺人事件ですから」
玲央は静かに目を通す。
「報酬は成功時のみ?」
「基本は。着手金もありますが」
「失敗した場合、責任の所在は?」
三枝は目を細めた。
「あなた次第です」
九条が小さく言う。
「これは前例のない契約よ。あなたを信用してるわけじゃない。能力を利用するだけ」
「合理的ですね」
玲央は最後のページにサインをした。
インクが乾くまでの数秒。
それは、境界線を越える音だった。
*
事件は世間を騒がせていた。
被害者は若手IT企業の社長、相馬遼(34)。
自宅マンションで刺殺。
凶器は未発見。
侵入の形跡なし。
金品も奪われていない。
容疑者は三人に絞られている。
1.共同創業者の男
2.元交際相手の女性
3.大型投資ファンドの担当者
だが決定打がない。
*
九条は事件概要を説明する。
「死亡推定時刻は午後十時前後。マンションはオートロック。防犯カメラは正常」
「入退室記録は?」
「三人とも当日、マンションに来ている。でも時間帯が微妙にずれてる」
「凶器は?」
「見つかってない」
玲央は静かに写真を見る。
部屋は整然としている。
争った形跡はほとんどない。
「被害者は冷静な性格?」
「合理主義者だったらしい」
玲央の目が止まる。
ワイングラスが二つ。
「来客を想定していた」
「ええ」
「毒物検査は?」
「陰性」
玲央はゆっくり言う。
「これは“衝動”ではありません」
*
まず共同創業者を調べる。
会社の資金繰りは悪化していた。
経営方針を巡る対立もあった。
動機は十分。
だが彼は被害者と会った後、別の会食に出席している。アリバイは強固。
*
元交際相手。
別れ話は泥沼だった。
ストーカー被害を訴えていた。
だが彼女は事件当時、実家に帰省していた証拠がある。
*
投資ファンド担当者。
多額の出資契約を巡り対立。
だが彼は当夜、海外出張中。
完全ではないが、実行犯には見えない。
*
玲央は現場を訪れる。
血痕の飛び方。
刺創の角度。
家具の位置。
そして、ある一点で足を止めた。
床に微細な擦れ跡。
被害者は刺された後、数歩移動している。
なぜ?
背後から刺されたなら、その場で崩れるはずだ。
「犯人は、信頼されていた」
玲央は呟く。
*
再度、防犯カメラ映像を確認。
三人以外にも、出入りした人物がいる。
清掃業者。
宅配業者。
マンション管理人。
玲央の視線が止まる。
管理人。
事件当日、勤務シフトを急に交代している。
「九条さん、管理人の経歴を」
「……前科なし。だが三年前に投資で失敗している」
「誰に?」
「……相馬の会社」
*
調査の結果。
管理人は相馬に投資し、大損していた。
だが警察は彼を早期に除外していた。
“動機が弱い”として。
玲央は首を振る。
「動機は弱くない。三年間、毎日顔を合わせる環境です」
さらに――
管理人室から、未登録の合鍵が発見される。
凶器は焼却処分済み。
証拠は間接的だが、積み重なる。
*
取り調べ。
九条が管理人と対峙する。
「あなたは投資で人生を狂わされた」
「自己責任だろ!」
「でも毎日、彼が成功する姿を見ていた」
沈黙。
やがて男は崩れた。
「……謝りもしなかった」
自白。
*
事件は解決した。
記者会見で、九条は冷静に発表する。
外部協力者の名前は出ない。
それが契約だった。
*
夜。
事務所に九条が一人で来る。
「ありがとう」
「仕事です」
「あなた、やっぱり危ういわ」
「なぜです?」
「感情が薄い。でもゼロじゃない」
玲央は静かに答える。
「僕は罪を知っています」
九条はそれ以上聞かない。
「これからも頼むことがあるかもしれない」
「報酬次第です」
少しだけ、二人は笑う。
*
扉が閉まる。
静かな事務所。
机の上の契約書を見つめる。
警察と探偵。
協力関係。
だが同時に、危うい均衡。
もし久我の事件が再び動き出したら?
その時、自分は“協力者”でいられるのか。
それとも――
追われる側になるのか。
静寂の中、時計の秒針が鳴る。
神崎玲央は、ゆっくりと目を閉じた。
真実を暴く者は、いつか自分の真実にも向き合う。
その日が来るまで。
探偵・神崎玲央は、灰色の契約の上を歩き続ける。




