選択の境界線
助教授・鷹宮聡の事件から、二年が経とうとしていた。
春はまた巡り、神崎玲央は大学四年生になった。
キャンパスには進路の話題が溢れている。
「内定決まった?」
「院に行くんだろ?」
「公務員試験どうする?」
玲央はその輪の外にいた。
就職活動はしていない。
大学院への進学も断った。
教授には何度も引き止められた。
「神崎くん、君の頭脳は研究向きだ。学問を続けるべきだ」
「申し訳ありません。でも、やりたいことができました」
助教授の事件の後からだ。
論理が、誰かを救うことがあると知った。
だが同時に、法や組織には限界があることも知った。
警察は証拠がなければ動けない。
正義は、制度の中でしか執行できない。
――ならば、自分は制度の外に立つ。
それが玲央の選択だった。
彼は、探偵になるつもりでいた。
*
昼下がり。
銀杏並木のベンチに座る玲央の前に、懐かしい声が届く。
「久しぶりね」
九条真琴だった。
二年前よりも凛とした空気を纏っている。階級章は警部を示していた。
「昇進、おめでとうございます」
「ありがとう。でも今日は世間話じゃない」
彼女は微笑みを消す。
「今、話題になっている事件は知ってるよね?」
連続失踪事件。
半年で五人。
年齢も職業もバラバラ。
遺体は発見されていない。
「捜査が、行き詰まってる」
九条は言った。
「証拠がない。共通点もない。犯人像も曖昧」
そして、少し言いにくそうに続ける。
「あなたのことを思い出した」
玲央は静かに見つめる。
「これは私の独断。上には言っていない。だから誰にも口外しないで」
「頼みに来ている割には、強気ですね」
「……自覚はある」
短い沈黙の後、玲央は頷いた。
「協力します」
*
九条から渡された資料を、玲央は一晩で読み込んだ。
五人の失踪地点を地図に落とす。
そして、静かに言う。
「中心があります」
「中心?」
「五点はほぼ円周上。中心は再開発区域の旧ビル群」
九条は眉をひそめる。
「そこは調べた。でも何も出なかった」
「“何もない”ように見せているだけです」
玲央は続ける。
「失踪時刻は全員、夜八時から十時。周囲の交通量が減る時間帯。搬入口が死角になります」
「……」
「犯人は無差別を装っている。ですが実際は、拠点から最短距離で移動している」
九条の目が鋭くなる。
*
再捜索の結果、旧ビル地下から証拠が発見される。
冷凍設備、血液反応、監禁の痕跡。
犯人は元ビル管理会社社員。
再開発で職を失い、ビルに固執していた男だった。
事件は解決へ向かう。
*
数日後。
九条は再び玲央の前に立つ。
「助かったわ」
「いえ」
「あなた、本当に警察に来ない?」
真剣な眼差し。
玲央は首を横に振る。
「行きません」
「どうして?」
「組織に入れば、守るべきものが増えます。守るべきルールも」
「それが悪い?」
「悪くありません。でも、縛られる」
玲央は静かに続ける。
「僕は、もっと自由に真実を追いたい」
九条は黙る。
「警察は“立証できる罪”しか扱えない。でも、立証できなくても存在する真実がある」
その言葉の奥に、自分自身の過去があることを、九条は感じ取った。
「探偵になるつもりです」
「……本気?」
「ええ」
玲央は穏やかに微笑む。
「依頼人のために動く。警察が踏み込めない場所にも踏み込む。法を超えるつもりはありません。でも、法の隙間に落ちた真実を拾いたい」
九条は小さく息を吐いた。
「危ない道よ」
「知っています」
「自分が裁かれる可能性もある」
一瞬だけ、空気が変わる。
玲央はまっすぐに彼女を見る。
「それでも構いません」
逃げない、とその目が語っていた。
*
春風が吹く。
若葉が揺れる。
「もし、あなたが道を踏み外したら」
九条は言う。
「その時は私が捕まえる」
「光栄です」
二人は、ほんのわずかに笑った。
*
神崎玲央は理解している。
自分は一度、人を殺している。
だからこそ、罪の重さを知っている。
正義は単純ではない。
善悪は綺麗に分かれない。
それでも、真実はある。
制度の内側ではなく、境界線の上に立つ。
裁く者ではなく、暴く者として。
それが彼の選択だった。
静寂の奥で鳴り続ける、あの日の音を胸に抱きながら。
神崎玲央は、探偵という名の道へ歩き出す。




