論理の刃
久我彰人の事件は、正式に「殺人事件」として捜査された。
だが、目撃者なし。凶器不明。決定的証拠もない。やがて報道は減り、ワイドショーからも消え、新聞の片隅からも消えた。
時間は、すべてを薄めていく。
神崎玲央の記憶だけを除いて。
*
二年の秋。
東京大学・本郷キャンパスは、銀杏並木が黄金色に染まり始めていた。
その朝、キャンパスに不穏な空気が流れた。
理工学部棟の一室で、男性の遺体が発見されたのだ。
被害者は三十五歳。化学系企業の営業担当。共同研究の打ち合わせで頻繁に大学へ出入りしていたという。
発見時刻は午前七時半。死因は頸部圧迫による窒息。明らかな他殺。
大学は一時騒然となった。
「物騒すぎるだろ……」
「また未解決とかやめてくれよ」
学生たちのざわめきを聞きながら、玲央は特に感情を動かさなかった。
自分には関係のない事件。
そう思っていた。
*
三日後。
玲央は図書館で新聞を読んでいた。
記事は小さいが、情報は多い。
・被害者は死亡推定時刻、前日午後九時から十一時。
・争った形跡は少ない。
・室内は施錠されていた。
・財布やスマートフォンはそのまま。
玲央の指が止まる。
――施錠されていた?
研究室はオートロック式。カードキーが必要。外部者は入室記録が残るはず。
記事には「入室記録に不審な点はない」とあった。
つまり、犯人は記録上“正規の人物”ということになる。
被害者は営業マン。研究室に入れる立場ではない。
では、誰が?
玲央の脳内で仮説が構築される。
内部犯。
しかも、被害者と顔見知りで、警戒されない人物。
*
数日後、玲央は偶然、理工学部棟の廊下である光景を目にした。
助教授・鷹宮聡が、警察の事情聴取を受けていた。
四十代前半。眼鏡をかけ、理知的な印象。穏やかな口調で知られる研究者だ。
「私はその時間、自宅にいました」
落ち着いた声。
だが玲央は違和感を覚えた。
鷹宮は化学反応の安全管理に厳しいことで有名だ。几帳面。合理主義。
そんな人物が、打ち合わせの最中に営業マンと衝突しないだろうか?
玲央は図書室で、過去の共同研究資料を調べ始めた。
すると、ある事実が浮かぶ。
鷹宮の研究テーマは、ある新素材の特許申請直前だった。
営業マンの所属企業は、その特許の出資企業。
だが、契約内容に微妙な食い違いがあった。
もし特許が企業主導で申請されれば、研究者側の取り分は減る。
営業マンは、その交渉役だった。
――動機はある。
さらに玲央は、研究室の配置図を入手した。
遺体発見現場の窓は内側から施錠。
だが、隣室と天井裏で繋がっている。
鷹宮の個室は、その隣だった。
*
決定的だったのは、清掃記録だ。
事件翌朝、鷹宮は通常より早く研究室に来ていた。
理由は「データ整理」。
だがその時間、清掃員の証言では「床に濡れた跡があった」という。
窒息死に、なぜ水?
玲央は仮説を立てる。
被害者を絞殺後、何らかの薬品で指紋や痕跡を消そうとした。
だが完全ではない。
施錠トリックは、カードキーを被害者に持たせたまま退室し、隣室経由で戻る方法。
理論上、可能。
問題は証拠。
学生の玲央に、捜査権はない。
*
その日、大学に警察が再び来ていた。
捜査を指揮しているのは、例の若い女性刑事だった。
肩書は警部補。名前は、九条真琴。
二十八歳。切れ長の目に、冷静な光。
玲央は彼女の動きを観察していた。
的確な指示。無駄のない動線。
頭が切れる。
話す価値がある。
*
夕方。
廊下の角で、九条が一人になった瞬間を見計らい、玲央は近づいた。
真っ直ぐに、目を見る。
九条は一瞬警戒し、すぐに営業用の微笑みを浮かべる。
「どうされました?」
思ったより若い。だが目は鋭い。
「今回の事件について、お話があります」
「参考になることなら歓迎します」
玲央は、整理された論理を提示した。
動機、トリック、清掃記録、天井裏の構造。
九条の目が見開かれる。
「……あなた、何学部?」
「理一です」
「それにしても……」
その時だった。
「係長、ちょっとよろしいですか?」
年配の刑事が声をかける。
九条は玲央に視線を戻す。
「少し待ってて」
*
五分後。
九条は戻ってきた。
「続き、聞かせて」
二人は人気のない講義室へ移動した。
「あなたの推理、面白い。でも仮説にすぎない」
「証拠が必要です」
「あるの?」
「まだ。ですが、取れる可能性があります」
玲央は静かに言う。
「天井裏の埃の付着状況と、隣室の換気口の微量繊維。鷹宮助教授のスーツと一致すれば、移動の証明になります」
九条は腕を組む。
「学生がそこまで考える?」
「考えます」
しばし沈黙。
やがて九条は言った。
「協力はしない。でも、あなたの情報は使う」
「それで構いません」
「一つ聞く」
九条の目が鋭くなる。
「あなた、どうしてそこまで冷静でいられるの?」
玲央は一瞬だけ視線を逸らした。
「慣れているからです」
何に、とは言わない。
*
数日後。
鑑識が天井裏を再調査。
微細な繊維が採取される。
鷹宮のスーツと一致。
さらに、消されたはずの微量の皮脂成分が被害者の襟元から検出。
事情聴取は任意から強制へ。
追い詰められた鷹宮は、最終的に自白した。
「研究を奪われるわけにはいかなかった……」
ニュースが流れる。
玲央は無表情でそれを見た。
*
後日。
九条がキャンパスに現れる。
「助かったわ」
「いえ」
「あなた、警察向きね」
「そうですか」
「でも」
九条は一歩近づく。
「あなたの目、少し危うい」
玲央は黙る。
「自分を過信しないで。論理は刃物よ。使い方を間違えれば、自分を切る」
その言葉に、久我の顔がよぎる。
「覚えておきます」
九条は微笑む。
「また会うかもね、神崎玲央くん」
*
去っていく背中を見送りながら、玲央は思う。
自分は、人を殺した。
そして今、人を捕まえる側に立った。
矛盾。
だが世界は常に矛盾でできている。
論理は万能ではない。
それでも彼は考え続ける。
静寂の奥で、真実を。
そしていつか、自分自身の罪にも向き合う日が来るのだろう。
銀杏の葉が一枚、足元に落ちた。
神崎玲央は、それを踏まずに歩き出した。




