静寂の証明
十七歳の春、神崎玲央はすでに完成されていた。
完成――という言葉がもっとも近い。努力によって磨かれたわけではない。生まれ落ちた瞬間から、ほとんど出来上がっていたのだ。
都内有数の進学校、私立蒼嶺高校。偏差値七十五を超えるその学び舎で、一学年三百人の頂点に立つ生徒は、毎年ほんの数名しかいない。玲央は常に五番以内。ときには一位。しかも家で勉強をしたことがない。
「お前さ、ほんとにノート開いたことあんの?」
昼休み、親友の三浦大河が呆れ半分に言う。
「授業で十分だから」
玲央はパンを齧りながら答える。その声音には嫌味も自慢もない。ただの事実だった。
教師の言葉はすべて整理され、図式化され、頭の中に収まる。教科書は一度読めばほぼ記憶に残る。数式も英文も、風景のように脳裏へ焼き付く。
だが彼は勉強だけの存在ではなかった。
体育の授業では誰よりも速く走り、球技大会では即席チームを優勝へ導く。筋肉質ではないが、動きに無駄がなかった。状況判断が異様に速いのだ。
さらに、整った顔立ち。切れ長の目、すっと通った鼻筋。物静かだが冷たい印象はない。女子生徒たちは廊下ですれ違うたびに小さくざわめいた。
「神崎くんって、彼女いるのかな」
そんな囁きは日常だった。
だが玲央の世界は、どこか薄かった。
喜びも悔しさも、平均的な人間より淡い。感情は理解できる。だが自分のものとして実感することが、どこか遠い。
彼はそれを自覚していた。
――自分は、どこか壊れている。
そう思いながらも、特に不便はなかった。むしろ、感情に振り回されないことは有利ですらある。
あの日までは。
*
六月の雨上がりだった。
図書室で課題を終えた玲央は、帰り道に旧校舎裏を通った。そこは人気がなく、湿った土の匂いが残る場所だった。
「神崎」
低い声が背後から響く。
振り返ると、三年の久我彰人が立っていた。ラグビー部の主将。体格がよく、校内ではそれなりに影響力を持つ男だ。
「話がある」
玲央は頷いた。断る理由もない。
久我は一歩近づく。
「お前、調子に乗ってるよな」
「……何の話ですか」
「成績も、女も。全部持っていく。気に入らねぇ」
理不尽だ、と玲央は瞬時に判断した。だが反論する気もない。
「別に、奪ったつもりはありません」
「そういうとこだよ」
次の瞬間、強い衝撃が腹に走った。久我の拳だった。
玲央は後退する。だが倒れない。呼吸を整え、距離を測る。
「やめてください」
言葉は冷静だった。だが久我は聞かない。
再び拳が振り上げられる。
玲央の脳内で、状況が高速処理される。
体格差。筋力差。周囲に人はいない。逃げ道は後方三メートル。しかし足場が悪い。転倒リスクあり。
最適解は――相手のバランスを崩すこと。
拳が迫る瞬間、玲央は半歩踏み込み、久我の腕を払いながら足をかけた。物理的にはごく単純な動作。
だが久我は雨でぬかるんだ地面に足を取られ、大きく体勢を崩した。
そのまま後頭部が、コンクリートの縁石に叩きつけられる。
鈍い音。
不自然な静寂。
久我は動かなかった。
玲央は数秒、立ち尽くす。
「……久我先輩?」
反応はない。頭部からじわりと血が広がる。
脈を確認する。ない。
呼吸も、ない。
理解は一瞬だった。
――死んだ。
殺すつもりはなかった。防衛行動だった。だが結果は変わらない。
玲央の心拍は、驚くほど安定していた。
恐怖より先に、計算が始まる。
目撃者は? なし。
防犯カメラ? この区域にはないことを知っている。
争った痕跡? 最小限。
時間は十六時三十分。下校時刻と重なり、アリバイ工作は可能。
玲央は久我の体を、旧校舎裏の使われていない倉庫へ運んだ。体重は重い。だが合理的な持ち方をすれば不可能ではない。
スマートフォンを確認し、位置情報を操作する。久我の端末をポケットから抜き取り、電源を切る。
その後、玲央は校門付近のコンビニへ向かった。防犯カメラに映るためだ。
そして、何事もなかったように帰宅した。
*
翌日、騒ぎになった。
三年の主将が行方不明。
数日後、倉庫で遺体が発見される。頭部外傷による死亡。事故か事件か判断がつかない。
警察が入る。生徒全員に事情聴取。
「昨日の放課後、どこにいましたか?」
「図書室にいました。その後、コンビニに」
玲央は淡々と答える。防犯カメラが裏付ける。
動揺はない。目線も逸らさない。
捜査は難航した。
久我は素行が良くなかった。外部トラブルの可能性も疑われる。目撃者なし。決定的証拠なし。
やがて事件は迷宮入りした。
*
夏が過ぎ、秋が来る。
玲央の日常は戻った。
成績は相変わらず上位。女子の視線も変わらない。
だが一人だけ、違う目で彼を見る者がいた。
同級生の白石凛。
黒髪を一つに束ねた、静かな少女。図書室でよく顔を合わせていた。
「神崎くん」
ある日、凛は言った。
「人って、取り返しのつかないことをしたら、どうすればいいと思う?」
玲央は本を閉じる。
「状況による」
「例えば……誰かを傷つけた、とか」
「意図的か、過失かで違う」
凛はじっと彼を見つめた。
「あなたは、どう思うの?」
一瞬、玲央は感じた。
見透かされているのではないか、と。
だが凛はそれ以上踏み込まなかった。
「ごめん、変なこと聞いたね」
彼女は微笑む。
その微笑みに、玲央はわずかな違和感を覚えた。
胸の奥が、ほんの少しだけ重い。
それが罪悪感なのか、別の何かなのか、彼には判別できなかった。
*
やがて冬。
玲央は東大理科一類に現役合格した。
卒業式の日、凛が声をかける。
「大学、東京だよね」
「うん」
「また会えるかな」
「その気になれば」
凛は少し笑う。
「神崎くんって、何でも持ってるよね」
「そうでもない」
「じゃあ、何が足りないの?」
答えられなかった。
彼女は去り際に言った。
「あなた、壊れないでね」
*
大学生活が始まる。
新しい環境でも、玲央はすぐに頭角を現した。講義は簡単だった。研究室でも評価される。
だが夜、静寂の中で、あの音が蘇る。
コンクリートに頭が打ちつけられた、あの鈍い音。
玲央は夢を見ない。だが記憶は鮮明だった。
自分は悪人なのか。
彼は考える。
殺意はなかった。自己防衛だった。合理的判断だった。
だが命は消えた。
ある日、ニュースで久我の母親が映った。未解決事件の特集だった。
「息子は、事故なんかじゃありません」
涙ながらに訴える姿。
玲央の胸に、はじめて明確な痛みが走る。
これが罪悪感か、と彼は理解する。
だが同時に思う。
もしあの時、やり直せるとしても――同じ行動を選ぶだろう。
それがもっとも生存確率が高いから。
彼は自分の中にある冷酷さを知る。
そして、それを否定できないことも。
*
二年の春。
キャンパスで偶然、凛と再会する。
「やっぱり東京だったんだ」
「うん。教育学部」
彼女は相変わらず静かだった。
二人はカフェに入る。
「元気だった?」
「まあ」
「神崎くん、少し変わったね」
「どこが」
「目。前より、人間っぽい」
玲央は苦笑する。
「それ、褒めてる?」
「うん」
凛は真剣な顔になる。
「ねえ、もし過去に戻れたら、やり直したい?」
玲央は窓の外を見る。
春の光。行き交う学生。
「やり直さない」
「どうして?」
「今の自分は、過去の結果だから」
凛はしばらく黙り、やがて頷く。
「それなら、それでいいのかもね」
*
玲央は理解する。
罪は消えない。だが、背負って進むことはできる。
彼は法学にも興味を持ち始めた。正義とは何か。責任とは何か。
自分を裁くためではない。
知るためだ。
あの日の選択が、正しかったのかどうか。
答えは出ないだろう。
だが彼は考え続ける。
天才と呼ばれた少年は、初めて自分の限界を知った。
完全ではない。
感情も、罪も、後悔も持つ。
それでも前へ進む。
静寂の中で響くあの音を、胸に抱えたまま。
神崎玲央は歩き出す。
未来という、まだ証明されていない領域へ。




