ガラス一枚隔て
## 一
取調室で事情聴取の刑事が見せたタブレットの画面には、再生回数が三百万を超えた赤い数字が表示されていた。
「これ、君の上司が配信したやつだろ?」
刑事の声には、怒りというより呆れが滲んでいた。私は画面を見ることができなかった。もう何度も、あの夜からしばらく続いた日々を思い返していたからだ。
黒川孝明——私の雇用主であり、登録者数百二十万を誇る「マルチバスターK」チャンネルの運営者は、確かにあの日まで正義の味方だった。少なくとも、視聴者の多くはそう信じていたし、私自身もそう思っていた。
## 二
黒川さんと初めて会ったのは二年前、私がまだ大学四年生だったときだ。就活がうまくいかず、友人の勧めで参加したマルチ商法のセミナーで、彼は突然乗り込んできた。
「皆さん、この会場にいる全員が詐欺の被害者予備軍です!」
百人ほどいた会場は騒然となった。スマートフォンを掲げた黒川さんは、主催者の過去の犯罪歴を次々と暴露していった。その堂々とした態度に、私は圧倒された。
セミナーが中止になった後、黒川さんは参加者たちに声をかけた。
「みなさん、これで目が覚めたでしょ? 俺のチャンネル登録してください。マルチバスターKで検索! 被害にあった方、情報をご存じの方は、DMください。一緒に悪と戦いましょう!」
私は帰宅後すぐにチャンネルを見た。三年前から活動しているらしく、動画は数百本あった。どれも再生回数は数万から数十万。「これが現実だ」「許せない」「よくやった」——コメント欄は支持者であふれていた。
私はDMを送った。「先日のセミナーで救われました。何かお手伝いできることはありませんか」
翌日、黒川さんから返信があった。「カメラマン兼助手として働かないか?」
月給は決して高くなかったが、私は承諾した。彼には人を惹きつける何かがあった。正義のため、被害者のため、社会のため——彼の言葉は本物に聞こえた。
## 三
しかし、この半年ほどで状況は変わっていた。
マルチ商法業者側も警戒を強め、黒川さんのような私人逮捕系YouTuberへの対策を講じるようになった。弁護士を帯同させる、会場を秘匿する、SNSでの情報統制を徹底する。センセーショナルな映像が撮れなくなり、チャンネルの再生回数は右肩下がりだった。
さらに悪いことに、過去の取材で名誉毀損やプライバシー侵害の訴訟を複数抱えていた。黒川さんは弁護士費用の支払いに追われ、明らかに焦っていた。
「田中、このままじゃチャンネル畳むしかないぞ。何か大きいネタが必要なんだ」
ある夜、事務所で彼はそう言った。目が血走っていた。
## 四
転機が訪れたのは、十月の終わりだった。
黒川さんは情報提供者から一本のメールを受け取った。新宿一丁目のビルで、週末に「特別なパーティー」が開かれる。参加者は富裕層のみ。そこではマルチ商法大手の幹部たちが、覚せい剤を使った乱交パーティーを開催しているという。
「これだ」と黒川さんは興奮気味に言った。「警察も動くらしい。家宅捜索のタイミングに合わせて実況すれば、特大スクープだ」
私は不安だった。
「でも、それって盗撮じゃないですか? 警察に任せるべきでは——」
「ジャーナリズムだよ、田中。市民の知る権利だ。俺たちは真実を伝えるだけだ」
黒川さんの論理は、いつもこうだった。正義のためなら、多少の違法行為も許される。グレーゾーンを攻めることこそが、既存メディアにできない俺たちの強みだ、と。
## 五
その夜、私たちは新宿一丁目の現場から百メートルほど離れたビルの屋上にいた。
目標は九階にあるガラス張りのプール。高級会員制ラウンジの一角らしい。黒川さんは望遠レンズを調整しながら、スマートフォンでライブ配信の準備をしていた。
機材は入念に準備されていた。望遠レンズ付きカメラからパソコンにケーブルが繋がれ、パソコン画面でプレビューできる。万が一のトラブルに備え、予備機材も用意されていた。
「視聴者の皆さん、こんばんは。今夜は特別な配信です。某マルチ商法組織の闇、ヤバすぎる実態を暴きます」
コメント欄には瞬く間に視聴者が集まった。「待ってました」「正義の鉄槌を」「応援してます」——画面を流れる言葉たちは、黒川さんを後押しした。
午後九時半を過ぎると、プールサイドに人影が現れ始めた。男女十数名。シャンパングラスを片手に、談笑している。
「まもなく警察が突入します。これがマジでヤバい、日本の闇です、皆さん」
黒川さんは落ち着いた口調で実況を続けていた。何年も私人逮捕系として活動してきた彼は、考えずとも言葉を繋げられた。語彙は決して豊かではなかったが、それが却ってリアル感を強めていた。
しかし私は、彼の手が微かに震えているのに気づいた。
## 六
午後九時五十分。プールに人が増えた。
黒川さんが急にカメラから目を離し、パソコンの画面を凝視した。顔色が変わる。もう一度カメラのファインダーを覗き込み、また画面に戻る。
「どうしたんですか?」
私が尋ねても、彼は答えなかった。ただ青ざめた顔で、画面を見続けた。
「まさか——」
彼の呟きを聞いて、私もパソコンの画面を覗き込んだ。
ガラス越しのプールサイドには、白いドレスを着た若い女性がいた。二十代前半だろうか。周囲の男たちに囲まれ、何か指示を出しているように見えた。
「あれって——」
私が言葉を発する前に、黒川さんが低い声で言った。
「娘だ。美咲だ」
## 七
黒川美咲。私は会ったことがなかったが、写真を見せて貰ったことはあった。
彼女は五年前、母親が亡くなった後、黒川さんと疎遠になったらしい。高校卒業後は独立し、音信不通だという。黒川さんは娘のことを話すのを避けていたし、私も深く追及しなかった。
「元締めが——美咲なのか」
黒川さんは呟いた。彼の声には、信じられないという響きがあった。
私は混乱した。これから始まるのは犯罪行為だ。警察が来る前に通報すべきではないか。いや、もう遅い。警察はもう動いているからこそ、私たちはここにいる。
「配信、止めましょう」
私は言った。しかし黒川さんは首を振った。
「止められない」
「でも、娘さんが——」
「俺が止めに行っても間に合わない。ここから向こうまで、十分はかかる。始まってしまえば、もう遅い」
彼の論理は明快だった。娘を救うには時間が足りない。だとすれば、残された選択肢は——
「せめて証拠を残す。それが美咲のためだ」
彼はそう言って、再び実況を続けた。
## 八
午後十時、パーティーが本格的に始まった。
プールには色とりどりの照明が映り込む。人々は服を脱ぎ始めた。百メートル離れた私たちには音楽は聞こえないが、ガラス越しの光景だけで十分だった。
黒川さんの実況は続いた。しかしその声には、もはや正義の確信はなかった。機械的に、事実だけを述べていた。
「これが金持ち連中の実態です。マジでヤバい。見てください、この光景を。これが現実です」
視聴者のコメントは沸騰していた。「最低だ」「警察はやくきて」「世紀のスクープだ」——数字は刻々と上昇し、同時接続数は十万を超えた。
私はただパソコンの脇で立ち尽くしていた。何もできなかった。
やがてパトカーのサイレンが聞こえた。ビルの下に機動隊が到着し、建物に突入していく。
ガラス張りのプールは、一瞬で地獄絵図と化した。
## 九
逮捕者は二十三名。うち九名が覚せい剤取締法違反で起訴された。黒川美咲もその中にいた。
彼女は組織の中核メンバーで、パーティーの主催者だった。マルチ商法で得た資金を、こうした違法な娯楽に投じていたらしい。父親が追いかけていた「悪」の権化が、まさか実の娘だったとは——誰も想像していなかっただろう。
黒川さんの配信は、一夜にして百万回再生を超えた。広告収益は莫大だった。そして彼はその後も配信を続けた。
「止めないんですか?」と私が聞いたとき、彼は虚ろな目で答えた。
「借金がある。弁護士費用もある。すぐには止められない」
その一ヶ月間、彼の動画は以前にも増して過激になった。娘の逮捕をネタにした動画、マルチ商法と薬物の関係を追及する動画、視聴者からの質問に答える動画——どれも再生回数は伸びた。
しかし彼の目には、もう光がなかった。
## 十
最後に彼と会ったのは、配信停止から一週間後だった。事務所で荷物をまとめていた彼は、私に封筒を渡した。
「これで最後の給料だ。すまない」
いつもよりちょっとだけ厚かった。
「どうして配信を続けたんですか? あの夜だけじゃなく、その後も」
問いただすと、彼は長い間黙っていた。そして、ぽつりと言った。
「真実を記録するのが俺の仕事だからだ。たとえそれが——娘であっても」
それは芸術家の狂気だったのか、それともジャーナリストの使命感だったのか。あるいは単なる金のためだったのか。今でも私にはわからない。
ただ一つ確かなのは、私は地獄を見たということだ。
## 十一
黒川さんは今、どこにいるのだろう。
チャンネルは削除され、SNSアカウントもすべて消えた。娘の公判にも姿を見せなかったという。弁護士を通じて、接見も拒否したらしい。
事件から半年が経った今、私は別の映像制作会社で働いている。平凡な仕事だが、それでいい。
ときどき思う。あの夜、私が強く止めていたら、何か変わっただろうか。
でも結局、私は何もしなかった。パソコンの脇で立ち尽くし、ただ見ているだけだった。
黒川さんは——あれこそが黒川さんらしかったのだろう。
新宿の夜景は今日も美しい。ビルの灯りが、無数の星のように瞬いている。
あのガラス張りのプールは、今も営業を続けているという。別の会員制ラウンジが経営を引き継いだらしい。しかし私の記憶の中では、あの光景が永遠に繰り返されている。
地獄は、遠いどこかにあるのではない。
私たちのすぐ隣に、ガラス一枚隔てて、いつも口を開けて待っているのだ。
---
(了)
芥川龍之介の「地獄変」を元に、現代新宿だったらどうなるだろうと思いながら。




