第8章「医師の仮面、その内側」 (佐原視点)
初秋の朝。夜の涼しさがまだ部屋の隅に残っている。
カーテンの隙間から、青白い光が床に筋を落としていた。
午前七時すぎ。目が覚めると、ソファに七原がいた。床に落ちた残りの毛布にくるまり、浅い眠りの中にいる。
痩せていた。昔よりもずっと。
こうして間近で見るのは、何年ぶりだろう。癖のある前髪が額にかかっている。
視線を毛布の戻し、そっと拾い、肩までかけ直す。指が、ほんの少し触れた。
――こんなこと、していいんだろうか。
俺は医者だ。それも、あいつの担当医。倫理規定。関係の一線。全部、頭の中では分かっている。
けれど、それでも昨夜、あいつが「ここにいていいか」と言ったとき、俺は迷いなく「いいよ」と答えてしまった。
午前九時すぎ。七原が目を覚ました。何も言わず、ぼんやりと天井を見上げていた。
「おはよう」と声をかけたのは、沈黙があまりにも長く続いたからだった。
「……ああ、おはよう」
声はかすれていた。水を出すと、礼も言わずに飲み干した。
「少し、話そうか」
「話す?」
「昨日、ここに来たこと。あと、今のこと。……これからのこと」
七原は目を伏せたまま黙っていたが、やて頷いた。
テーブル越しに向き合って、俺はなるべく丁寧な口調を心がけた。
「七原……。俺は今、精神科医として働いてる。だから、こうやって話す以上、多少なりとも“インフォームド・コンセント”が必要になる」
「それって……説明と同意、みたいなやつ?」
「そう。俺がどんな立場で、どこまで踏み込んでいいか。逆に、どこまでお前が受け止められるのか。その確認をしないといけない」
七原は無表情のまま言った。
「じゃあ、それ……“やめとけ”って意味か?」
「……違う。やめろなんて、言えない。言いたくもない」
瞬間、自分の声の揺れに気づいた。しまった、と思った。こんなふうに情を持ち出してはダメだ。でももう、抑えきれなかった。
「俺が、お前を治療するのは、やっぱり違うと思う。俺の感情が……どうしても入ってしまう」
「……じゃあ、俺はどうすればいい?」
声が震えていた。怒りか、哀しみか、もしくはもっと別の何か。
「他の医師を紹介する。でも、ここにはいていい。……もし、お前が、それを望むなら」
患者としてでなくても、と続けようとした言葉を飲み込む。その代わりに、俺は心の中で紹介すべき医師のリストを思い浮かべていた。実直で、腕も確かで、それでいて七原とは何の接点もない、初老の男性医師。その顔を思い浮かべた瞬間、胸の奥でどす黒い嫉妬が渦巻いたのを、自覚してしまった。
(この男なら、七原を正しく治療できるだろう。……俺の知らないやり方で、俺の知らない七原を引き出すだろう)
その想像が、たまらなく不快だった。
「患者じゃなくても?」
「……友人としてでも、かつての恋人としてでも」
七原は俯いたまま、何度か深呼吸してから言った。
「……じゃあ、俺はここにいる。……今は、それ以外、思いつかねえ」
その言葉を、俺は拒めなかった。いや、拒むつもりもなかった。
紹介状の準備は、わざと後回しにしよう。そう、心の中で決めていた。
医師としての仮面の内側で、一人の男としての醜い独占欲が、静かに息をづいていた。