第7章「名前のない夜」 (七原視点)
九月の始まりを過ぎた夜。日が落ちるのが、少し早くなった。
昨日の夜、あいつからメールが来た。「眠れないときは、いつでも来ていい」
たったそれだけの文面が、何度も頭を巡った。送信時間は午前二時。俺が返さなかったのに、それでもあいつは、何も言わずに置いていった。
誰にも言えなかったこと、思い出せなかった夜。その全部を、あいつだけが知っていた。
――今なら、行ってもいいんじゃないか。
そう思ったわけじゃなかった。ただ、気づいたら、足が駅に向かっていた。
何度も行こうとしてやめた、あの部屋。今日は行くべき日だったのか、それともまた逃げるべきだったのか。自分でも、もう分からなかった。
扉の前で指先が冷たくなる。チャイムを押したのは、考えるよりも前だった。
出てこなければ、それで終わりだった。誰もいなければ、そのまま帰るだけだった。
でも、ドアは開いた。佐原がいた。それだけで、足がすくんだ。
「……いいよ。入って」
優しい言い方だった。昔と、少しも変わらない。でも、それが逆にきつかった。変わってないのに、全部変わってしまったことを思い知らされるから。
部屋は静かだった。本と書類の匂いがする。思ったよりも物が少なくて、整然としている。
ソファに腰を下ろすと、佐原がマグカップを二つ持ってきた。中身は白湯。それが妙に懐かしかった。
ぎこちなく受け取って、一口飲む。少し熱くて、でもその熱さがちょうどよかった。
「……最近、眠れてる?」
唐突な質問だった。でも、医者らしいとも思った。
「ん……まあ、あんまり」
「夢を見る?」
「見る。……あんまりいい夢じゃねえけど」
佐原は黙った。何かを言いかけて、やめたようだった。
「ここ、来たの、間違いだったかもな」
ぽつりと呟いた声が、自分でも驚くほど弱かった。
「……そんなことないよ」
即答だった。まるで用意していたみたいに。そういうところ、変わってない。あいつはいつも、俺の弱さに反応してしまう。
「治療とか……そういうんじゃなくて。来ちまった」
「わかってる」
それだけで、少しだけ呼吸ができた。
夜九時を過ぎていた。テレビもつけず、音楽もかけず、ただ部屋の静けさに包まれていた。
佐原がソファの向かいに座って、白湯を飲んでいる。その横顔を、何度も盗み見る。言いたいことはたくさんある。でも、どれから言えばいいのか分からなかった。
「……覚えてるか? 昔、俺が夜中に電話したこと」
佐原は少し驚いた顔をして、すぐに頷いた。
「あのとき、何も言えなかったのに、あんたはずっと黙って聞いてくれた。……あれがなかったら、多分、俺もういなかった」
「……俺も、あの電話がなかったら、医者になってなかったかもしれない」
「嘘つけ」
「本当だよ」
静かに笑う声がした。俺もつられて笑った。こんなふうに笑ったのは、どれくらいぶりだろう。
深夜一時過ぎ。ソファでうたた寝してしまっていた。
毛布がかけられていて、顔を上げると佐原が近くにいた。
「帰るか? 泊まるか?」
選ばせる声だった。どちらでもいい、と言う声。どちらを選んでも、責めない声。
「……ここにいていいか」
「いいよ」
それだけだった。
名前もない夜。でも、ここにしかない静けさが、確かにあった。