第6章「溺れる週末」 (佐原視点)
九月初旬、曇り空の日曜。午後二時すぎ。
診察予定のない週末は、いつもより静かだった。自宅のソファに、沈む。
窓の外では、低く垂れ込めた雲の向こうに、まだ夏の名残を引きずった淡い光が差していた。天気予報が、週末は天気が荒れるだろうと告げていたのを思い出す。空が重い。まるで、大きな嵐でも来そうな気配だった。
週末が、嫌いだった。
土曜と日曜。診察がなく、医師としての時間が途切れる。空白は、いつも過去の亡霊を連れてくる。
とくに、彼が来た週の週末は、ひどかった。
七原蓮。あれほど長いあいだ姿を見せなかった彼が、二週続けて現れた。
ふらりと現れて、何かを言いかけて、言わずに帰っていく。何も言わなかった。けれど、すべてを訴えていた。
沈黙は、叫びよりも苦しいと知っている。精神科医としてではなく、元恋人として。
七原蓮は、俺の患者である以前に――後悔だった。
診察室にいるたび、記憶が揺れる。触れてはいけない感情が疼く。プロとしての線引きが、形を保てなくなっていく。
それでも、俺は医者として彼を迎えた……つもりだった。
午後。書類整理でもして気を紛らわせようと思ったが、今日はそれすら手につかない。
ソファに沈み込み、壁の時計を見る。十四時十三分。
彼が先週、ふらりと現れたのも、たしかこの時間だった。
まるで、心のどこかで期待しているようで、嫌になる。
携帯が震えた。それだけで心臓が跳ねる。期待などしていないふりをしていたのに。
通知を見る。七原から、ではなかった。
けれど、もう思考は逸れていた。どこかで彼の姿を探している。通りに現れないか。今も迷いながら歩いてはいないか。
こんなふうに過去に囚われたままでは、診療なんて続けられない。分かっている。それでも――。
彼が、初めて俺の名前を呼んだ日のことを思い出していた。
「佐原、お前、なんでそんなに……やさしいフリ、うまいんだな」
その言葉は、愛情ではなく、怒りと哀しみが混じったものだった。
七原は、誰よりも正直だった。それゆえに、俺を許さなかった。
あのとき、もし嘘の一つでも吐けていたら――。
そんな仮定ばかり、考えてしまう。
思考の中で、ふと扉のチャイムが鳴った気がした。……気のせいかと思ったが、もう一度鳴る。
玄関に向かう。モニターを確認すると、そこに彼が立っていた――。
曇り空の向こう、うっすらと光が差していた。彼の輪郭は逆光にかすんで見えたが、その気配だけは、はっきりと脈打っていた。
思わず息を呑む。扉の向こうにいるのは、過去ではなく、今ここにいる彼――たしかに脈を打つ「蓮」だった。
この瞬間のために、どれだけ時間を失ってきたのだろう。名を呼ぶ声が、喉まで上がってきていた。