第5章「銀の匂い」 (七原視点)
初秋の夜。湿った風が、まだ冷えきれない空気をなでていた。
佐原の診察室を出たあと、まっすぐには帰れなかった。
何かが胸に刺さっている。何かを口にしてしまえば、全部壊れそうで。それでいて、何も言わなければ、ずっと置き去りにされたままみたいで。
何年も前、俺は一度、全部を壊した。自分でそうした。自分で終わらせた。
理由なんて、言葉にならなかった。ただ、あのときは――「佐原が俺を好きでい続ける理由」が、どこにも見つけられなかった。
息が詰まるような劣等感と、背中を向ける自分への嫌悪。優しい言葉が、時には刃より鋭くて。だから俺は、黙って消えた。
それでも今、こうしてまた会ってしまって。俺の時間は、ずっとあの午後で止まっていたことに気づかされた。
診察室の中、目の前でカルテをめくる佐原の手。低く抑えた声。目をそらさない、まっすぐな視線。
変わっていたけど、変わっていなかった。俺だけが、あの時間に置いて行かれたみたいだった。
日が落ちる直前、ようやくアパートに帰った。
コンビニの袋をテーブルに放り出す。レトルトのカレーと安い酒、それだけ。冷蔵庫には、半分腐りかけた野菜。
自分の暮らしがどれだけ粗末かはわかってる。でも、整えようとは思わない。
ふと、冷蔵庫の奥で萎びた野菜を手に取り、ゴミ袋に叩き込んだ。
「……こんな生活、いつまで続けるんだよ」
吐き捨てた声は、自分でも驚くほど苛立っていた。
この部屋には、もうあいつがいた頃の匂いは残っていない。
佐原が使ってたマグカップも、もう割れて捨てた。風呂場に置いてあった整髪料も、処分した。
それなのに、ふとした拍子に思い出す。ドライヤーの音。コーヒーの香り。肩を並べて見てた古いドラマ。
その記憶が、今になってやけにくっきり戻ってくる。
「……バカみたいだな」
呟いたあと、ソファに身を投げた。
部屋の隅に立てかけてある、埃をかぶったギターケースが目に入る。最後に開けたのはいつだったか。指が、無意識にその表面をなぞっていた。
昔、誰かに「お前の匂い、銀みたいだね」って言われたことがある。
それが誰だったか、もう思い出せない。でも、佐原じゃなかったことだけは、なぜか確信してる。
――あいつは、俺を金属じゃなく、人間として見てくれてたから。
俺のこと、冷たいとか、無機質とか、そういうふうに言う人は少なくなかった。まあ、事実そうだったんだと思う。
銀、って。要するに、冷たくて、無機質で、どこか人工的で――匂いなんかしないし、体温も感じない。ちょっと光ってるだけで、中身はない。
「……そう見えてたんだろうな、俺」
でも、佐原だけは違った。どんなに俺が黙ってても、目をそらしても、ただ向き合ってくれてた。
それが、嬉しかった。同時に、怖かった。
俺は、どこか壊れてた。まともじゃなかった。それを受け入れてしまったら、全部、佐原に委ねるしかなくなる気がした。
だから、逃げた。
なのに、また会ってしまった。また話してしまった。また、笑ってしまった。
「……戻れんのか、これって」
戻りたいのかすら、わからない。ただ、診察室の椅子に座ってるときの、あの静かな時間を思い出す。
あそこでは、ちゃんと呼吸ができた。誰にも責められないし、演じなくていい。自分がどれだけ壊れてても、佐原は眉ひとつ動かさなかった。
俺は、たぶん――あの場所を、欲しがってる。
佐原のとなり、じゃなくて。佐原の前の、その診察室の椅子を。
その距離すら、今の俺には、十分すぎるくらい。
酒の缶を空けたあと、カーテンを閉めた。
ベッドに横になれば、またあの夢が来る気がして、目を閉じるのが怖い。けれど、そのくせ、夢の中でしか会えない佐原を求めてもいる。
呼んでくれ、と思う。俺の名前を。
ただそれだけで、俺はこの夜を越えられる気がする。