第3章「診察室の距離」 (佐原視点)
あの再会から翌週、七原が再び患者として目の前に現れた。
予約の名簿に彼の名前を見つけたとき、胸の奥で何かが揺れた。
嬉しいのか。怖いのか。それとも――まだ彼を受け止めきれていないのか。
午後一番の診察。窓の外には、少し乾いた風に揺れる銀杏の葉。夏の名残をわずかに残しながらも、空はすっかり高くなっていた。
ドアがノックされる音に、思わず背筋が伸びる。
「どうぞ」
今日の七原は、くたびれたチェックのシャツの上に、淡いグレーのパーカーを重ね着していた。その姿は無防備で、どこか浮世離れしていて。それなのに、部屋の空気を一瞬で変えてしまうような存在感がある。
「ちゃんと来たよ。偉い?」
「……ああ。偉いな」
思わず微笑んでしまいそうになるのを押さえて、カルテを開く。
「先週、ここで話してもらったことは覚えてる?」
「夢のことと、息苦しさ。あとは……距離を取ってしまうこと」
「うん。それで、今日は少し突っ込んで聞く。……夢の内容を、もう少し詳しく教えてくれるかい」
七原は視線を落とし、少しの間、何かを思い出すように黙った。
「暗い部屋の中にいる。何もない、ただの白い部屋。俺は立ってる。だけど、足元が深くて……沈んでくみたいなんだ」
「沈む?」
「水の中にいるみたいに。音が聞こえない。動こうとしても動けない。でも、誰かが遠くで俺を呼んでる。声は、届かない」
「……怖い夢?」
「いや。怖くはない。……ただ、ものすごく、寂しい」
その言葉に、俺の心がひやりと凍った。七原の孤独は、いつだって自覚されることなくそこにあった。彼の笑顔は、いつも誰にも見抜かれないように丁寧に作られていた。
「それって、昔も感じてた?」
「……さあ。昔は、もっと賑やかだった気がする。でも……うまく思い出せない。けど、一つだけ覚えてることがある」
「なに?」
「佐原の声。――夢の中で、聞こえることがあるんだよ。……俺の名前を、ただ呼ぶだけの声」
「それは、昔の記憶だと思う?」
「わからない。でも……俺の中では、安心できる音なんだ」
言葉が詰まった。診察室の机を挟んで、彼との距離はたった一メートルもない。なのに、触れられない。踏み込めない。
医者と患者。過去の恋人。どちらにせよ、俺はまだ――彼の隣に立てていない。
「……薬を出す前に、もう少し話を聞かせてくれる?」
「もちろん。話すのは、嫌じゃない。……というか、佐原が相手だから、話せる気がするんだよね」
七原はそう言って、いたずらっぽく笑った。その笑顔に、昔の記憶が重なる。
風が強いある夜、駅の階段で、彼がこっそり口ずさんでいた歌。アパートのソファで、酔ったふりをして寄りかかってきた肩の重さ。名前を呼ぶと、決まって照れ隠しに悪態をついた声。
全部、思い出してはいけない記憶。でも、もう――忘れられるはずもない記憶。
「じゃあ、今日はここまで」
「また来てもいい?」
「もちろんだ」
言い終えたとき、七原がわずかに目を伏せた。その一瞬の沈黙に、俺は何も言えなかった。
ドアが閉まったあと、椅子の背に体を預け、深く息を吐いた。
ドアの曇りガラスにはまだ七原の影が映っている。声をかければ呼び止めることができる距離。それなのに、今はまるで分厚い鋼鉄の壁が立ち塞がっているようだった。
けれど、その壁の向こうに、確かに七原がいる。
あのとき救えなかった彼を、今度こそ――俺は、見失いたくない。