第2章「見つめる医者」 (佐原視点)
先ほどの再会から数十分後。診察室を出ていった七原の背中が、いまだに焼きついている。
午後五時を少し過ぎた頃。診察室には、まだ強い西日が射し込んでいた。残暑の気配が残る初秋の夕暮れ。けれど、室内は妙に冷えて感じられた。
七原が帰ったあとの部屋は、不自然なほど静かだった。いや、元から静かな場所だ。音楽も流れていない。白とベージュの壁に囲まれた、無個性で清潔な空間。患者が帰るたび、ここは無人の舞台になる。
けれど今日は、その「無」が重たかった。七原の匂いが、まだ部屋のどこかに残っている気がした。
あいつは、少し汗ばんだシャツのまま診察室に入ってきた。目の下には薄いクマ。頬はこけ、顎が鋭くなっていた。
初対面のふりをしようとした俺に、七原は気づいていた。目の奥に、一瞬だけ火が灯ったような表情。でも何も言わずに椅子に座った。俺の声に、ただ静かにうなずいた。それだけで、全部が戻ってくる気がした。
……戻ってくる? 本当に? 俺は、あの頃に戻したいと思っているのか?
時間を巻き戻すことなんてできない。俺たちは、とっくに終わったはずだった。七原が突然、姿を消したあの日。俺は、強制的にそれを受け入れさせられた。喪失に慣れるには、医者になるしかなかった。
机の上に置いたファイルに、震える手でメモを書き込んだ。それだけで掌が汗ばんでいた。
「不眠、希死念慮、無感動。服薬歴なし。現時点での統合的診断は保留」
「目立った躁状態・幻覚なし。ストレス因からの防衛として回避傾向強」
「自己評価の一貫性欠如。関係性の喪失に関するトラウマ反応あり」
教科書通りに書けば、こんなふうになる。けれど、どこか虚しかった。この臨床用語の羅列は、まるで嘘のようだった。七原の痛みの、ほんの上澄みを掬っただけの、空虚な言葉の集まり。
これは「患者」じゃない。七原蓮という、一人の人間だ。
俺が、誰よりも知っていて――誰よりも、見ようとしなかった人間だ。
見つめること。診察とは、つまりそういうことだ。話を聞く。症状を知る。薬を処方する。それだけじゃない。
「この人は、どんな傷を抱えて、どんなふうに壊れて、それでも生きようとしているのか」
それを、まっすぐに見なければならない。
でも、俺は七原を正面から見られなかった。今日、久しぶりにあいつの目を見て、息が詰まりそうになった。
この数年、俺は数百人の患者と向き合ってきた。暴れる人もいた。泣き崩れる人もいた。けれど、こんなふうに胸が痛んだのは初めてだった。
七原は、俺の手の中からすり抜けた唯一の人だった。どうしても救えなかった人。
それでも、こうしてまた――現れた。
いや、違う。戻ってきたんじゃない。何かに追われて、逃げるようにして辿り着いたんだ。この診察室に。
そう思ったとき、今度こそ見逃せない気がした。
デスクの隅に置いた小さなサボテンに、水をやる。
七原が帰ってから、次の予約患者まで、まだ二十分ある。
この時間が、俺にとってどれだけ意味のあるものだったか。ようやくわかった気がした。
たった十五分の診察だった。けれど、俺の中には、まだ言葉にならない何かが残っていた。
目の奥が、熱い。
七原の傷は、あの頃のままだ。
それでも、あいつは――自分の足でここまで来た。
……それだけで、十分じゃないか。