第1章「薄明かりの中で」 (佐原視点)
午後四時を過ぎた頃、陽の光はすでに傾き始めていた。
診察室のブラインド越しに差し込む光が、淡く、ゆっくりと色を失っていく。外はまだ暑さの名残を感じさせるが、風の匂いにはどこか乾いた秋の気配が混じっていた。
その日の外来は、珍しく静かだった。いくつかの予約がキャンセルになり、午後の枠にぽっかりと時間が空いていた。
そのとき、内線が鳴る。呼び出しの音が、薄明かりに包まれた部屋に小さく響いた。
何の前触れもなく、過去が歩いてきた。
「……次の方、どうぞ」
いつものように声をかけ、カルテに手を伸ばす――その瞬間、動きが止まった。
音もなくドアが開く。そして、そこに立っていたのは――
銀色の髪。痩せた頬の輪郭。存在感が霞んでいるのに、強烈に目を引く姿。
七原蓮。
まるで、遠い記憶の底から抜け出してきたかのように、彼はそこにいた。
「……久しぶり」
その声も、間違えようがなかった。少しだけ低く、疲れたように響くその声は、確かに彼のものだった。
言葉が出ない。喉が詰まって動けないまま、彼が先に椅子に腰を下ろす。
「座らせてもらっていい?」
「……ああ、もちろん」
掠れた声が出た。笑おうとして、表情がうまくついてこなかった。
沈黙が、数秒だけ流れる。壁の時計の秒針が、不自然に耳に残るほどの静けさだった。
「今日の診察……偶然じゃないよ」
七原は静かにそう言い、机の上のカルテに目を落とす。
「紹介状も保険証もない。でも……どうしても、ここに来なきゃいけなかった」
彼の言葉は、記憶の底を探るように、ゆっくりと落ちてくる。
「最近、眠れない。夢を見る。……いや、夢っていうより、同じ場面が何度も繰り返されるんだ。起きた後も……その感覚だけが残ってる」
「感覚?」
「喉が痛くて、息が苦しい。……多分、昔のことなんだと思う」
“昔”――その一語で、何を指しているのか、俺たちは知っている。
終わったはずだった過去。終わらせたつもりの、壊れかけた記憶。
「症状を整理しよう。……眠れない。夢を見る。同じ記憶が繰り返される」
淡々とメモを取るふりをして、気持ちを整える。
「他には?」
「……誰かと距離を取ってしまう。うまく話せない。心が、どこかに置いてけぼりにされてる感じがする」
「それは、いつから?」
「たぶん……あの日からずっと」
瞬間、ペンを握る手に無意識の力がこもった。
あの日――あの夜。すべてが変わってしまったあの時間。
「でもね、不思議なんだ。佐原の顔を見ると……少しだけ、息がしやすくなるんだよ」
七原はそう言って、目を細めた。その声音が、過去の亡霊のように胸を締めつける。
「それ、医者としてどう思う?」
「……依存の可能性がある。けど」
「けど?」
「それでも……来てくれて、よかったと思ってる」
その一言が口をついて出たとき、胸の奥で何かが軋んで音を立てた。
凍っていた時間が、ゆっくりと動き始める。
彼がここにいる。目の前に、生きて、再び姿を現してくれた。
それだけで、何かが少しだけ報われたような気がした。
「治療、続けてみよう」
「……うん。そうだね」
七原が小さくうなずく。その姿は、壊れ物のように儚くて。でも、どうしようもなく懐かしくて。
再会という名の、最初の一歩が、確かにここに刻まれた。