第0章「空白の輪郭」 (佐原視点)
夜の診察室に、蛍光灯の白い光がじんわりと滲んでいた。
カルテを開いたまま、俺は窓の外に目をやる。
窓の外、アスファルトの隙間から吹き込む風は、まだ夏の熱をわずかに残しながら、どこか秋の匂いを帯びていた。虫の音が遠くで鳴いている。季節の境目にある、あの独特の静けさが夜に染み込んでいた。
――七原。
その名前だけが、やけに鮮明に胸に残っている。
もう二度と会うことはないと、思っていたのに。
「先生、これ、次回の処方箋ですけど……」
背後から声がして、我に返る。
看護師が差し出した書類を受け取り、かすかに笑ってみせた。
「ああ。ありがとう。机に置いておいてくれる?」
彼女が静かに出ていく音だけが、診察室に残る。
再び、取り残された静寂の中で、俺の意識は別の場所をさまよい始めた。
あの夜から、どれほどの時間が経ったのだろう。
医者として、日々の患者に向き合ってきたはずなのに――どうしても、あいつの姿だけが消えなかった。
銀の髪。気だるげな笑い声。時折見せる、諦めたような瞳。
「……本当に、終わったんだろうか」
独り言のように呟いて、手のひらを見つめる。
この手で、いくつもの命を支えてきたつもりだった。それでも、七原だけは――取りこぼした。
いや。あの頃の俺は、彼の弱さに寄り添うふりをして、どこかで“特別”であることに酔っていたのかもしれない。もっと踏み込まずにいればよかった。彼の痛みを、ちゃんと距離を取って見られていれば――
そんなふうに思うのは、今さら過ぎる後悔だ。
「……だけど、それでも」
あの時、どうして手を離したのか。それが弱さだったのか、祈りだったのか、今でもわからない。
彼の中に、まだ俺を必要とする何かがあると――そんなふうに思いたかっただけなのかもしれない。
晩夏の夜が、静かに深まっていく。
窓の外では、虫の声がかすかに鳴いていた。
いまでも夢に見る。
あの背中を。何も言わずに去っていったあの姿を。
「七原……」
名前を口にするたび、胸の奥に残る痛みが、少しずつかたちを変えて俺を締めつける。
もう、会うことはないと思っていた。でも、運命はそんな決意さえ簡単に踏みにじってくる。
そうして、俺の人生に――また一つ、季節の境目がやってきた。