【第7課】ニホンゴハ “ワタシ”を言わない。
――異世界で、朝食のトーストを焼いているのは、俺ひとりだけだろう。
異世界転移から一ヶ月。タカシの住居は、学園の敷地内にある古い教師寮の一室だ。とはいえ、“教師寮”といっても、こぎれいな石造りの一軒家。魔導照明、石造オーブン、水精霊式の流し台完備というハイテクぶりだ。
「たぶん、元・すごい先生の部屋なんだろうな……俺にはもったいない」
朝、パン(異世界製)を焼きながら、野菜スープを温め、昨日もらったリンゴ(竜人族の園芸園からの差し入れ)を切る。すっかり異世界生活に順応し、地元の市場では「おっさん先生!」と親しまれている。
通勤は徒歩5分。教室の近くには、言語資料館、図書塔、そして謎の自動販売機型魔導具など、ロストテクノロジーがごろごろ転がっている。
「ニホンゴがわかれば、これ全部“読める・使える・売れる”……ってのが、この世界の現実なんだよな」
だから、タカシは教える。今日も、未来のニホンゴマスターたちのために。
◆
「オハヨウゴザイマス!」
「オハヨウ」
教室に入ってくる生徒たちを見渡しながら、タカシはチョークを手に取った。
「今日は……第7課。“アゲル・モラウ・クレル”をやるぞ!」
「アゲルは“あたえる”。モラウは“もらう”。そして……クレル?」
ユウトが目を細める。
「“クレル”って、なにが……?」
「いい質問だ。今日のテーマは、これなんだ」
黒板に書く:
● アゲル(わたし → だれか)
● クレル(だれか → わたし)
● モラウ(わたし ← だれか)
「見ての通り、意味は似てる。“だれかが、だれかに ものを わたす”ってだけのことだ。でも、日本語では誰が主語かによって、動詞が変わる」
「ワタシ ガ アゲマス? ワタシ ニ クレマス?」
リリィが不安そうに手を挙げる。
「うん、実はそのへんが……ニホンゴの“ふしぎ”ポイントなんだよな」
◆
タカシは黒板に例を並べる。
● (ワタシハ) リリィニ リンゴヲ アゲマシタ。
● リリィハ (ワタシニ) リンゴヲ クレマシタ。
● (ワタシハ) リリィニ リンゴヲ モライマシタ。
「これ、全部“リンゴを渡した”って意味は同じなんだけど、動詞が違う。何が違うかって――主語の“立場”なんだ」
「センセ〜、(ワタシハ)のかっこは何〜?」
「いい質問だ。今まで文法をわかりやすくするため、あまり省略していなかったが、基本ニホンゴは「ワタシハ」とか「ワタシニ」は言わない。省略するんだ。」
「でも、ちゃんと言わないとわからない場合もあるのでは?」
ヴァイスが不思議そうに質問する。
「それがわかるんだよ、ニホンゴは。そのためにこの「アゲル」「クレル」「モラウ」という動詞がある。たとえば、“アゲマシタ”って言えば、“自分が与えた”って意味になる。“クレマシタ”って言えば、“自分が受け取った”ってわかる」
「“主語は、動詞が決めてくれる”……?」
「ニホンゴは、気持ちの言語。“自分の視点”がどこにあるかを、文の形より、動詞で伝えている」
ユウトがふむふむと頷きながらノートにこう書く。
日本語は「誰が」よりも「どう思ってるか」で文が変わる。
「じゃあ、実際にやってみようか! “だれに・なにを・どうしたか”を考えて、自分の例文を言ってみて!」
◆
【リリィ】
「センセイ、ワタシ、“ハナヲ アゲマシタ!”」
「おっ、いいね! だれにあげたの?」
「オカアサンニ!」
「そっか、母の日だったのか!」
「母の日?ナンデスカ?」
(この世界には母の日はないのか……)
【ヴァイス】
「センセイ、“ワタシニ ハツオンノ アドバイスヲ クレマシタ”」
「おっ、さすが優等生!」
「もちろん、“ヨク デキテマスネ”も……クレマシタわよね?」
(※圧がすごい)
「え、あ……そ、そう言った……はず。たぶん……言ったよね……?」
「……今からでも、もう一度 クダサイ」
「ハイ、“ヨク デキテマス”!!」
【ユウト】
「“マホウノセンセイニ カンジノホンヲ モライマシタ”」
「おっ、ちゃんと“もらう”使えてるな。どんな本だった?」
ユウトが目を輝かせる。
「“ヤマ”“カワ”“シズカ”など、初歩のカンジノホンデス。……タノシスギテ、ネラレマセンデシタ」
「寝ろよ……」
「センセイ、“シズカ”ノ カンジハ、“セイジャク”ト モ イイマス」
「いや、そこまで掘り下げなくていいから! 今“モライマシタ”の話してるから!」
(けど、なんか教えてて楽しい)
【クーニャ】
「ワタシ、“オキャクサンニ ドーナツヲ モラウ”!」
「えっ、仕事中に?」
「ウン、“アマッタカラ タベテ〜”ッテ。“イタダキマス”ッテ イッタヨ!」
「最高の接客……!」
◆
その日の黒板にはこう書かれた:
● アゲル/モラウ/クレル は、“立場”が だいじ
● ニホンゴは、動詞で“だれの気持ちか”をあらわす
→ 主語は、言わなくても いいことが多い!
「ニホンゴって、むずかしいけど……“キモチ”ノ コトバ、デスネ」
リリィがそう言って笑った。
「センセイ、ワタシ、“センセイニ ニホンゴヲ モラッタ”!」
「言い方、ちょっとフランクすぎるけど……まあ、嬉しいよ」
「センセ〜、“センセイハ ミンナニ タノシイジカンヲ クレマシタ!”」
「泣くぞ」
――つづく。